2006年3月15日水曜日

親密(intimacy)


 人と、あるいは自然と、親密になりたかったら、その前に、自分と親密にならなければ、不可能だ。 親密さには、勇気が必要だ。親密さは、真の戦士の寛ぎだ。


 自分自身と親密になれれば、迷いはきえる。
自分と親密になれれば、葛藤に、人生も時間も費やす必要もない。
さもなければ、表面的な、退屈な、御座なりになってしまう。 
計算ずくの、つまらないものになってしまう。

 それ故、人と親密になりたがらない人もいる。
それは、危険かもしれないし、冒険だからだ。
だから、動物や植物と、親密になろうとする。
リスクがないからだ。 それもいい、だが、人とも親密でありたい。

 私たちは、何千,何万と言う物事を、他人だけから、隠している訳ではない。
自分からさえも、隠している。
親密さは、まず、自分に対する、防御の壁を壊さなければならない。
それには勇気がいる。
まず、卵を割らねば、オムレツは出来ない。

 誰かが、「真実とは、あるに過ぎない、なにか。」と言う、名言を言った。
それは、目の前にある。
しかし、誰もそれを見ようとはしない。
無意識の内に、2次的、3次的な枝葉を追いかけ続ける。
 
 日本語の「心」と言う言葉は、「ハート」とは意味が少し違う。
「心」は、ハート、マインド、それに様々な配慮が入ってくる。
それは、それでいいと思う。
ハートは、シンプルでただ、純粋に感じること。
無心を感じた時、無音を聴く時、ハートが見えてくる。

 そこには、言葉ではない、静寂の言葉がある。
暫く、自然の中にいれば、やがて、自然の言葉が解るようになり、自然と親密になれる。
サイレント・ジョイがあるからだ。
自然の木や草や、水の流れは、恐れを知らない。
ただ、シンプルで、普通でいるだけだ。 本当の意味での「普通」とは,まるで魔法のようだ。
だが、それ以上の「美しさ」、「豊かさ」と言うものはない。

「心」は、自然な心、ハートから育って来る。
ハートのわかる人間は、頭の人間ではない。
頭を使うことは出来ても、頭に同化していない。
親密さが、判れば、人それぞれ、個性に違いも良く見えてくる。
そこに、エネルギーの流れ(フロー)が生じれば、それが本当のコミュニケーション。
親密な人とは、言葉は要らない。波動の交流があるからだ。
大きな意味で、愛があるからだ。
そばにいるだけで、以心伝心してしまう。
それは、普通の意味で、自然で、普通の、親密な関係だ。

 だが、誰もが、親密さを恐れる。
そこには、一切の計算や、打算がない。
それは、もっとも勇気の必要な次元である。
だが、親密さ(Intimacy)を知らなければ、人は、永遠に、宇宙の孤児となる。

 仏陀やシヴァのような人にとっては、親密さは、普通のノーマルな状態と言えるかも知れない。