人と、あるいは自然と、親密になりたかったら、その前に、自分と親密にならなければ、不可能だ。 親密さには、勇気が必要だ。親密さは、真の戦士の寛ぎだ。
自分自身と親密になれれば、迷いはきえる。
自分と親密になれれば、葛藤に、人生も時間も費やす必要もない。
さもなければ、表面的な、退屈な、御座なりになってしまう。
計算ずくの、つまらないものになってしまう。
それ故、人と親密になりたがらない人もいる。
それは、危険かもしれないし、冒険だからだ。
だから、動物や植物と、親密になろうとする。
リスクがないからだ。 それもいい、だが、人とも親密でありたい。
私たちは、何千,何万と言う物事を、他人だけから、隠している訳ではない。
自分からさえも、隠している。
親密さは、まず、自分に対する、防御の壁を壊さなければならない。
それには勇気がいる。
まず、卵を割らねば、オムレツは出来ない。
誰かが、「真実とは、あるに過ぎない、なにか。」と言う、名言を言った。
それは、目の前にある。
しかし、誰もそれを見ようとはしない。
無意識の内に、2次的、3次的な枝葉を追いかけ続ける。
日本語の「心」と言う言葉は、「ハート」とは意味が少し違う。
「心」は、ハート、マインド、それに様々な配慮が入ってくる。
それは、それでいいと思う。
ハートは、シンプルでただ、純粋に感じること。
無心を感じた時、無音を聴く時、ハートが見えてくる。
そこには、言葉ではない、静寂の言葉がある。
暫く、自然の中にいれば、やがて、自然の言葉が解るようになり、自然と親密になれる。
サイレント・ジョイがあるからだ。
自然の木や草や、水の流れは、恐れを知らない。
ただ、シンプルで、普通でいるだけだ。 本当の意味での「普通」とは,まるで魔法のようだ。
だが、それ以上の「美しさ」、「豊かさ」と言うものはない。
「心」は、自然な心、ハートから育って来る。
ハートのわかる人間は、頭の人間ではない。
頭を使うことは出来ても、頭に同化していない。
親密さが、判れば、人それぞれ、個性に違いも良く見えてくる。
そこに、エネルギーの流れ(フロー)が生じれば、それが本当のコミュニケーション。
親密な人とは、言葉は要らない。波動の交流があるからだ。
大きな意味で、愛があるからだ。
そばにいるだけで、以心伝心してしまう。
それは、普通の意味で、自然で、普通の、親密な関係だ。
だが、誰もが、親密さを恐れる。
そこには、一切の計算や、打算がない。
それは、もっとも勇気の必要な次元である。
だが、親密さ(Intimacy)を知らなければ、人は、永遠に、宇宙の孤児となる。
仏陀やシヴァのような人にとっては、親密さは、普通のノーマルな状態と言えるかも知れない。
2006年3月15日水曜日
親密(intimacy)
時刻: 18:39