2006年3月17日金曜日

[美]

 美とは何だろう?
「真、善、美」(サティアム、シヴァム,スンドラム)と言う、ヒンドゥー教に於ける、[最高価値のある状況や物事」を言い表す言葉がある。
人の美意識によって、見出された対象の性質、又は特徴,と言ったらいいだろうか?
又、美は美を呼び込むように、美しいものを美しくしている「根拠」とも言えるのではなかろうか?
「真、善、美」はある価値について、三つの視点、或いは「スタンス」を言い表した言葉である。

 「美」は、単に「綺麗」というのと違うと思う。
綺麗で清潔な病院を、美しいとは言わない。 
行為そのものにも、「美」という表現があり、自然の情景、食事の味、香り、音楽、芸術にも勿論、「美」と言う「価値観」が伴ってくる。

 中々、「美」を定義する事は難しいが、「美」を成り立たせる要因の一つに、「明晰さ」がある。それは、見る対象だけにある訳ではない。それは、知性ではない。知性からは、美は生まれない。「美」は、知を超えたところからやってくる。そして、当然の事として、「美」は、それを見る側の「在り方」に関わってくる。 対象の状況にだけ、負っているわけではない。
それは、一つの「境地」、又は「佳境」といってもいい。

 アンデイー・ウォーホールの名言がある。
曰く、「あらゆるものが、美しい。」

 自らの本姓を悟った(発見)ままの境地にあれば、本来は、見る対象に条件ずけられる事もない筈だが、逆に、対象の素晴らしさを通して、逆に、自らの本性にきずくこともある。
又、「偶然のいたずら」と言う事もある。
近年では、ニュートラルな美しさと言う、新たな価値観も現れるようになってきたと思われるのだが・・・・・・。

 現代社会は、形の文化である。思考も言語も、アイディアも形である。
山や川、雲や海、人知を超えた自然の有様がある。

 調和と言う美も大切な美の一つである。

 優れたものには、自然のエッセンス、シナジーやディナジー(自然界にある、超越的な力)も味付けされる。そして黄金分割比、「ファイ。」。
例をあげると、有名なところでは、タージマハール、カジュラホの寺院、五重塔にストゥ―パ(仏塔)、エジプトやメキシコのピラミッド(日本にも天然のピラミッド、富士山がある。)、ストーン・ヘンジの石の舞、マールボローのホワイト・ホース、タイのワット・プラケオ、ワット・アルンにワット・ポー、桂離宮に法隆寺、金閣寺に銀閣寺、イスファハンのモスク、ギリシャの神殿、ミラノやケルンの寺院、マチュピチュの空中庭園と挙げれば限がない。

 芸術やデザインに於いても、そこに何らかの自然、スピリット、魂といったものを表現する骨組みやニュアンスがあって、人々は「美」を感じるのだ。
見ることについて、三つの要素がある。
まず、見る人、これがなければ何も始まらない。
見られる対象。
そして、見ることと言う、関係性。
その組み立ての微妙さであることから「美」という状況が、湧き上がってくる。

 音楽、彫刻、絵画、陶磁器、工芸品、織物、家の形、質感、コンピューター、ファッション,車やヨットの美しいデザイン、スピリットあるモーターサイクルや自転車、ありとあらゆるものに人々は「美」を求める。

 大分、昔の話になるが、ピニンファリーナ、ツァガート、タリーオー二、タンブリー二という、車や、モーターサイクルのデザインの巨匠達の作品を見て、きずいたことがある。
フェラーリ、アルファ・ロメオ、ランチァ, マセラティ、ドゥカティ、ビモータに、MV(エンメヴーと呼ぶ)と言った、イタリアを代表するものの、美学のアーチストだ。

 当然、彼らの流儀は、それぞれ個性的
共通しているのは、「美」を通して、自然や、スピリット、目には見えない、自然のニュアンスを、形の上で表現したり、「翻訳」している事に気が付いた。
やはり、ミケランジェロやダ・ヴィンチが生まれ育った環境。
広重、北斎、写楽や雪舟を生んだ日本も凄いが、イタリアも只者ではない。

 その全ての源となるのが、「空性のスピリット」のように思う。
空生こそがそれぞれのアーチストの舞台となり、そして、それぞれの宴(うたげ)が始まるのだ。
空生と現実とのはざまに、新たな「美」、「新たな価値観」、「新しい流れ」の発見、や再発見が、見つかろう、と言うものだ。

 美は、薄皮一枚の、ぎりぎりのバランスにあると思う。
また、美が定義されたとしたら、必然的に、そこから醜が起こってくる。
なぜなら、この世の物事は対極、或いは、双極性で成り立っているからだ。

 数日前、バンコックの「ワット・ポー」に行って、巨大な「黄金の涅槃仏」に何度目かの、再会をしてきたところだが、涅槃(ニルヴァーナ)に入った時の仏陀の有名な言葉がある。

「この世は美しい、甘美である」、と。それは、あなた次第だ。