「自然体」のところで述べたとうり、東洋には、古来から、「空、風、火、水、地」と言う五元素が判っていて、その基本となるのが、「空」の概念。
仏教では、[空]を基盤としている。
それは、既に、五千年もの昔に、インドで発見された。
「ゼロ」の発見も同様だ。
今だったら、ノーベル賞、5~6回は貰えるんではなかろうか?
西洋には、「風、火、水, 地」と言う四元素は判っていても、「空」と言う概念がなかったから、どうしても、そのゆがみから、「God」という概念が、東洋の神々や仏陀とは、違うものになってしまったのは仕方がない。
長所、短所と言うのではなく、特徴、個性として意味ずけたい。
現代物理学が、「波動力学」(Wave mechanics)や「量子力学」(Quantam Theory)に至って、初めて、古代インドの,タントラの入り口に辿り着いた事は、意味が深い。
ある意味で、今の時代は、[タントラ]の時代に入っていると言われている。
欧米や日本のの探求者や、瞑想を学ぼうとする人々が、インド、タイ、ネパール、チベットに集まってくるのは、当然のなりゆきである。
スピリットは無形のエッセンス。
呼吸を通じて、人の中に入ってくる。
それ自体は、エネルギーでも、形をっている訳でもない。
無形性ゆえの空性である。
そこに、根源的な「心の本性」がある。
空性は、呼吸や潮の干満の如く、空しい時もあれば、充満している事もある。
人が無意識の時は、何も見えないが、無意識は、あらゆる否定性、ネガティヴな事の隠れ蓑になっている事を知っているだろうか?
いずれは、何らかの形で、その否定性があふれ出す事にもなる。
「観る」と言う、本来、全ての生き物に備わっている「力」が付いて来た時、「空性」はあらゆる物質性そのものの本性、源であることが、判ってくる。
それは、素晴らしい時だ。
ここで、一寸、シヴァ神について、説明しよう。 仏教よりも、2500年もの古い話だ。
「シヴァ」の言葉の意味は、「慈しみに溢れている。」、[良い」、と言う意味だ。
そして、仏教では「自在天」と呼ばれている。
「般若心経」(ハート・スートラ)と言う「経」をご存知だろうか?
これは、仏陀が亡くなって、五百年程経って,書かれたと言われる「詩」である。
そこで、始まりの部分、「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、云々・・・・・」に一寸注目して欲しい。
観自在菩薩とは、シヴァ神、もしくは、シヴァ派のタントラ行者にあたる。
又、般若波羅蜜多(ハンニャ・ハラミタ)とは、般若は、プラジナー(知恵)、波羅蜜多は、パラミタ、即ち、タントラの行の事である。
話を進めよう。
「シヴァ・スートラ」と言う、タントラにについて書かれた本がある。
昨年、運良く、借りる事が出来た。
その本の中で、ある行者、修行者が、カシミールに於いて夢の中で、「シヴァ神」から直に聴いたサンスクリット語の言葉を、纏めたものである。
その中で、「プラクシャ」と言う言葉が出てくる。
それは「光」を意味する。
「シャンバーヴァ・ヨーガ」(シヴァ神、直伝のヨーガ)の最も重要な部分である。
それはもう、技法やコツといったものではなく、直に,その次元に入ってしまう事を意味する。
だが、その「光」は、私達の目に見える、物理的な光、例えば、太陽、月、星、火、蝋燭、と言ったものではない。
それは、「意識そのもの(コンシャス)の光」と言われる。
シヴァ神によれば、「プラクシャ」なくしては、人はまだ、無明にある。」と言われる。
「プラクシャ」は自己と大いなる自己(アートマン)とを繋ぐ、「究極の光」と言われる。
シヴァ曰く、「その意識(純粋意識)にきずく事で、意識はやがて全身を貫く「柱」となるであろう。」
思考は、マインドからやってくる。
そして、マインドは、時には、ハイになったり、落ち込んだりする。
一方、理解とは、[越えたところ」からやってくる。
そこには、内も外もない。
今まできずかなかった、微妙な音や、物事が直に感じられるようになり、知覚も感性もクリアになってくる。
瞑想の醍醐味である。
知られた事は、知識となり、過去となり、記憶となる。
知らない事、知りえない事、未知が現実となる。
永遠の、今を知る。
それは、いつでも新しい。
2006年3月12日日曜日
「エスプリ」
時刻: 16:27