自然体とは簡単なようで簡単ではない。本来は、最もやさしいことの筈が、現代人にとっては、難しいことになってしまっている。何がそうしたのか? それは、一目瞭然である。
現代人が、余りに、物質化して、ぎこちなくなり、不自然になり、意図的に、自然にふれなければ、自然になれない環境にも原因がある。丁度、無理やり、地中から引っこ抜かれた、大根のように、そのまま、土からでて、ほって置かれたら、遅かれ早かれ、干からびてしまう。
普段、経ったり、座ったり、歩いたり、働いたり、車や自転車に乗ったり、バスや電車にのったり、風呂に入ったり、眠ったりと色々なことをする。どんな行為も。その向きに合った、自然体でこなせれば、失敗も、無駄も少なく、疲労も少ない筈だ。
物質社会といっても、物質や対象そのものに問題があるわけではない。対象としての物質に、余りに同化しすぎて、意識にゆとりがなくなっている所為である。意識とは、ものではない何か、なのだから。
世間では、誰しもが、自己や意識を深く見るよりも、無意識のまま、他人や、社会、世界ばかりを非難する。人生の楽しみを、放棄してしまったんだろうか?
何でもかんでも物質化する必要もないし、又、もしそうだとしたら、この世は実につまらない退屈なものになってしまうだろう。
もし、無感動になってしまったら、あらゆるものが衰退する。
行為の中で、無理なく力が抜けて、集中力がありゆとりがあってバランスが取れている時、物事はスムースに行く。
サーフィンならば、ビッグ・ウェーヴの中で、パイプラインもきめられる。
自然体は、条件つきの世界では、難しい。
観念や思い込みがあっても、無理だ。
自然であること、自由であること、健康である事、条件のない事、そして初めて、自然体に、近ずける。
自然体に近ずくためには、様々な柔軟体操やストレッチ、ヨーガも必要かもしれない。
だが、一旦、自然体の次元に入ってしまうと、そこに発見する、あり方は、無為であり、無努力とされ、まるで中空の竹のような、柔軟さと撓り、バネが重要となってくる。
バランスと復元力と言う、不可分の一体性(不二)という、宇宙の相互依存の法則を学ぶ必要がある。
ムエタイ(タイ式ボクシング)の選手に聞くと、「力んで、力任せに打ったパンチには、あまり効果がなく、スピードとタイミング、腰の決め方が適切であれば、自然に出たパンチは自分でも考えられない程の効果があるという。
力んだだけ、効果が半減するのだそうだ。
ヒンドゥー・タントラ(インナー・サイエンス)には瞑想用の、「ヤントラ」と言う「神秘図形」がある。意味合いは少し違うが、仏教の曼荼羅(円を意味する)と好対照だ。ヤントラの種類は、ヨーガの呼吸法と同様に、1000もの種類を数えるが、多くは、仏陀よりも古く、長い歴史を持つ。その中で、「自然体」を目標とした「ヤントラ」に、「ペンタクル」と言う星型のデザインがある。
インドで[五」と云うと、宇宙の五元素、空、風、火、水、地を意味し、中心部に「Hrim」と言うマントラ(真言)とともに、スピリットが入る。この瞑想用のデザインは、すでに5000年もの昔に、作られていた、という。
チベットでは、数字の五は「ンガー」と言う。 チベット語の数字は、チー、ニー、スン、シー、ンガーとなり、日本語にも近い。そして、自分のこと、「私」と言う言葉も、「ンガー」である。
話を元に戻すと、このヤントラは、人間の体にオーヴァーラップして存在する、霊体の一つ、[エーテル体」を整える為に発見された形、と言われている。 本来は、瞑想用のデザインだ。星の形にはなっていても、別に星の事ではない。第一、地球も太陽も月も木星も、丸いではないか。現代では、国旗にも使用され、町中にも、どこにも、ペンタクルのデザインは溢れている。
イスラム世界を通じて、インドから、西洋に伝わったペンタクルのデザインは、異教徒のものとして、魔方陣とよばれ、魔術的なものと誤解された。今でもそう思い込んでいる人も少なくないはずだ。だが、「自然体」と言う、本来、ごく当たり前の意識は、相対的にみれば、魔法のように、映るかもしれない。不自然な人にとっては、魔法の様に映るかもしれない。エーテル体が整えば、アストラル体も肉体も自ずと、整ってくる。アーユルヴェーダ的(生命の科学)、根本医療とも言える。
人がスピリットを求めるとき、「無」が重要である。人が静かであるとき、「スピリット」が重要である。人が混沌にあるとき、「意」(マインド)が、又、ある人のランクが高いときには、その人の言葉が重要となる。又、人が豊かさに在るとき、その人の「人間性」が重要となる。人が「自然体」に在るとき、全てが、手の内にある。
「昇月や 水を掬えば ツキ(月)は手の内」
2006年3月9日木曜日
自然体
時刻: 13:16