光明とは、人生の痛み、苦しみから逃げる事ではない。
苦の原因が、その人にある以上、何処へいっても、一緒についてくるから、逃げても、意味がない。
又、拒絶でもない。拒絶からは、狂気が生じやすくなる。
逆に、その痛みや苦しみのもっと奥深いところまで踏み込んで、理解する事が鍵となる、と言われる。
最初の内、苦や痛みに出会うと、訳も判らず、大変辛い。
早く、その状況から抜け出したい、と思うのが人情だ。
苦しみ、痛み、憎しみといったネガティヴな事、煩悩には幸福にはないものが沢山ある。
そういう豊かさは、誰しも遠慮したい。
人は、自分の苦しみや辛さ、痛みを避けようとしたり、体面上、隠そうとしたりして、それが原因で、苦を倍増させる事もある。
病気の場合でも、一時的に直しても、根本的な事を無視したら、病気は'何度でも再発する。
禅には、名言がある。
「病気になったら、病気を楽しめ!」と言う。
常識てきに聞いたら、「とんでもない事を言う!」と人は思う。
風説が容認する常識って奴だ。
所が、この「病気を楽しめ!」と言う言葉は、一種の治療なのであって「口先だけの、安易な慰め」ではないのだ。
これは、本当の意味での「慈しみ」なのだ。
一見、逆説的だが、根本的な「気」を高める為の「方便」なのだ。
何処の国の常識でも、普通の人は、誰からも親しまれ、親しみたい。
無事に'暮らしたい。それ故、あまり文句も言わず、頭ごなしに高飛車な態度を取らないようにしている。
だが、リアルな人は、物事をトータルに、宇宙的に見る。 時には、地上にも降りてくる。
それ故、愚かしく、習慣的に眠りこけているようにしか見えないこともあるのだ。
中々、難しいところだ。
特に、日本のような、全体主義的な社会環境では、個人がいきていくのは、大変だ。 一人の'個人が生きると言う、最も大切なことが、時にはないがしろにされ易い。
光明とは、苦しみ、不安、といったものがどういうものか?
一体全体、それは何なのか?
何故、起こるのか? が理解できた時、そしてその苦の向こう側へと突き抜けたとき、光明(エンライトメント)は、自然に、自発的に起こってくる。
それは実に多様なのだ。
世界の見え方、自分の在り方が変わってくる。
光や色を、自分の外部のものと思う込むのではなく、様々な光や色の煌き、影の寛ぎは、生命あるものとの関係性の中で、状況に応じて現れてくる。
それは、自然のエネルギー。
まるで、魔法のようだ。
それが、本来の自分(本来の面目)に、持って生まれた性質なのだ。
あらゆる生き物は、生まれながらにして、仏性(ブッディー、光明、インテリジェンス)を持っていると言われる。
今、多くの人々は、岐路に立っているのかもしれない。
一つの狭い次元を生き、その事に疲れ果てているのかも知れない。
所が、現実は、既に、多次元的宇宙だ。
閑話休題、ここで蕪村の名句を一つ。
「馬の尾に、仏性ありや、秋の風」
大切なことは、物事を只、表面的に、習慣的に、又、常識的に見る事だけではない。 例えば、病気は無数いあるが、健康(正常)は一つしかない。丁度、空が一つしかないのと同じだ。無理に、病気になる必要はないが、もしも病気になったとしたら、一寸、大げさだが、千載一遇のチャンスと心得て、好奇心をもって、もっと奥深く突き進み、何故かを理解する。
この好奇心と言うモードに入り、病気と対決するつもりでいるだけでも、軽い病気なら、半分は治ってしまう。気合が必要なのだ。 生に直に、親密に取り組まねば、生きてはいけない。「好奇心」とは、生き生きした、スピリットの合成されたもので、生命力のメッセンジャーにもなるのである。好奇心、気合、ともにクリエイティヴである。
大分、昔のことになるが、インド人にいいことを教わった。30歳くらいの、せいはスィンだが、スィク教徒ではなく、ヒンドゥーのクシャトリア(武士、王族階級)の友人。丁度、タントラの英文の本を借りる約束があったのだ。
その時、ニュー・デリーは燃えていた。50度位はあったろう。あまりの暑さに、バザールの喧騒も、多様な彩りもあったものではなかった。ライターなしで、タバコに火が点くかと思った。
二人で、パハール・ガンジ(メイン・バザール)の安飯屋に入って、ターリー(大皿の定食)と熱いチャイを食後に頼んだ。水に氷を入れて貰おうとした時、彼は、涼しげな目元をきらきらさせながら、私を制止してこう言った。
「暑い時には、冷たいものへと逃げてはいけない。冷たいものは、暑くないときにはいい。だが、今日の様に糞暑い時には、熱くて辛いサブジー(野菜カリー)、ココナッツ・カリー、熱いメシ、焼きたてのナーン、熱いダール(豆のスープ)をフーフー言いながら食べ、熱いチャイ(ミルク・ティー)を飲むんだ。
暑さなんか、何処かへ行っちゃうさ! ハッハッハッハッハ!」
日本にも、素晴らしい名言がある。 都々逸なんだが・・・・・。
「餓鬼の頃から、イロハを憶え、ハのじ忘れて、イロばかり」
と、世間を皮肉っている。
ハの字、 ハッハッハッハッハが大事なのだ。
しかも自然に出てくることが、重要なのだ。これが、ポジティヴなインサイトを創造する。
笑いはネガティヴな思考や暗示から、人々を解放し、場合によっては、不可能すら可能にする。
食事が終わり、熱いチャイを飲む頃になると、暑さは気にならなくなり、忘れてしまっていた。
もう既に、意識そのものが、環境にシンクロナイズしていたからだ。
インド料理に使われている、マサラ(スパイス)の効果で、体も少しずつ冷え始めてきた。
この時点に到って、冷たいものをとっても、負担にはならない。又、暑い時、どんな形であれ、取らないと、脱水症状を起こして、ぶっ倒れてしまう。
正に、「麻中の蓬(よもぎ)」だった。(中国の古い諺)。
どういう事かというと、真っ直ぐに成長する麻の中で、蓬が育つと、蓬の曲がりやすい性質も、麻の影響を受けて、共鳴し、真っ直ぐに育つと言う事なのだ。
賢い人、良い人に出会うと、自然に「共鳴」して、整い始める。
丁度、シタールと言う楽器のようだ。
シタールについては、「ラヴィ・シャンカール」という、世界的、又、インドの国宝的シタール奏者のおかげで、有名になった楽器。
乾燥させたカボチャで作られた胴に弦を張ったものだ。
弦の数わ数十本とあるが、指で押さえて、音を出すのは一本。
残りの弦は、ラーガ(旋律)に合わせて、「共鳴」させて、あの深みのある、煌く、魅力のあるサウンドが生じてくる。
ターラ(リズム)が入ってくれば、もう桃源郷。
シヴァ神が踊りだす。宇宙が踊りだす。
余談になるが、ヒマラヤの海抜2000から3000米位の所には、'場所によって松が生えている。
例えば、カトマンドゥーの郊外、ナガール・コット等では、ヒマラヤ固有の波動に、松が共鳴して、まるで杉のように、真っ直ぐに天に向かってのびている、
日本の曲がりくねった、風情ある松を見慣れていると、何か、不思議な感じがしてくる。
50度の猛暑が実に爽やかであった。
何故か嬉しくて、笑いが止まらなかった。
そして、そのレストラン中がつられて笑い始めてしまった。
新しく入ってきた客も、意味も判らずに,つられて笑い出してしまった。
まるで、干天慈雨の一日だった。
理由のない笑い程素晴らしいものはない。知らないものが見ると、馬鹿みたいだが、かまう事はない。本当の笑いとはそんなものかもしれない。
もし、時に色があるならば、その時の時の'色は、黄金の色だったに違いない。
「ドウ チャイ オーラ!」(チャイあと二つ!)
チャイは例えようもなく、甘露であった。
2006年2月25日土曜日
甘露(アムリタ)
時刻: 17:26