子供の頃、汽車が鉄橋を渡る時、夢中になって窓の外,川や海を跨ぐ鉄橋や、越えていると言う事に、我を忘れて、見入っていた事を覚えている。
昔日残夢の残り香が、未だに心の何処かに、しっかりと残っている。
こんな事があった。
子供の頃、割と大きな橋の真ん中で、橋の下を流れる川を見ていた。
それが、とても心地良かった。
時の経つのを、忘れてしまった程だった。
その内、川が流れていることはそのままに、橋の方が、ながれ始めた。
いつしか、私も、橋も、川が流れている事も、地球も、宙を飛んでいた。
そして、静寂だけがあった。
知らないうちに、神秘の扉が開いてしまったのだ。
それが、くつろぎとなり、楽しみとなり、そして翼となった。
その時、瞑想のコツを一つ、ものにする事が出来た。
橋、全ての橋と言う橋が、立派でも、名前がある訳でもない。
橋は人を一方から一方へと、場合によっては、より良い明るい未来へと、又、未知へと、場合によっては、より心地良い呼吸が出来るかもしれない対岸へと、道を提供する。
勿論、その逆もありうる訳だ。
昔、ハーレイ・デヴィッドスン(1300ccの、ロウライダー、今では、名車と言われている。)で、フリスコ(サン・フランシスコ)の金門橋(ゴールデン・ゲイト・ブリッジ)を渡っているいた時のことを思い出した。今になっても素晴らしい体験だった。
空は何処までも蒼く、風は例えようもなく甘美であった。
足元で囁きつずける、エンジン音は、何者にも替えがたい、音楽となった。
今でも時々、夢の中で、その印象が現れてくる。
テームズ、セーヌ、インダス、ガンガー、クアイ河に、チャオプラヤ、メコン河に、コロラド、そしてミシシッピー。数え切れないほどの橋を渡った。
橋は速やかに、問題やトラブルの流れを一跨ぎして、道行く人々を対岸へと、送り届ける。
昔は、大井川の渡しのように、橋はなく、船や人力に頼って対岸に渡った。
橋、橋はサイモンとガーファンクルの歌のようだ。
それとも、ソニー・ロリンズ?
恰も、自分に振りかかったトラブルや災難を平穏なうちに解決してくれる、特別なパッセージ(通路)。
橋は人々の夢を膨らませる。
そんな風に考えた事はないだろうか?
橋の向こう側、それは、此岸か彼岸なのか?
不安から安心へ、トラブルから安全へと、人々を動機ずけ、求める変化の手助けをする。
時には、危ない橋を渡ると言う事も、あるかもしれない。
人は、橋を通じて、新しいチャンス、未来への期待、希望を膨らませる。
そんな橋があったらいい。
嘗て、日本橋は、日本の象徴だった。
昔は、橋から富士山も見えたそうではないか。
時には、静けさが、時には華やぎが、時には慎重さが、時には楽観主義が、時には無心。又、自分への自信が、橋の役目を果たす。
時には、音楽が、時には一冊の本が、長く辛かった時節を一跨ぎして、人生を変える。
そして、変化から、新たな変化が生じてくる。
橋を渡っているとき、自分は今、翼なしで宙に浮かんでいる,そう感じたことはないだろうか?
橋は、道と道とにかかる、道草の場。
その醍醐味は、空想の世界や、イマジネーションのスペースに遊べることにあった。
道草マニアのロマンチストとしては、そうやって、異次元を開拓したものだった。
ジャングルに架かるつり橋であれ、木造であれ、単に一枚の板を渡しただけの橋であっても、名前があろうがなかろうが、、又、見た目に立派であろうがなかろうが、橋は、無言で、文句も言わず、役目をはたしている。
橋はエライ!
自分の気に入った橋、印象に残るような橋、見つけよう!
2006年2月24日金曜日
夢(その2、橋)
時刻: 16:25