今日は花曇。
そのせいか朝早い割に、春の空気は暖かくしかもエネルギーにみちている。
鏡のように静まり返ったとある山上湖には、行き交う船もなく、あるがままの乳白色の空、近くの丘や森の風景が映し出されている。
あたかも、名刀で絹を切り裂く様に、小船は小気味よく、見事に水を切り裂いていく。
右に左に水をかく櫂の音がリズムとなって、畏まった風景が笑い出す。
深い森の中からは様々な鳥の声。
朝は殊更、賑やかだ。
時折聞こえるカッコーの声。
一際飛びぬけて、明るい澄んだ声をだす。
カッコーは、春の訪れを告げると言う。
鏡のような水面を見ていると、あらゆるものが映し出される。
鏡を見れば、鏡の前に置かれたものが映しだされる。
映し出されたものが、花であろうが、犬の糞であろうが、
鏡はあるがままを映し出す。 鏡に選択はない。好き嫌いはない。
何の判断もなく、何の非難もない。 そして、鏡が、汚れることはない。
「鏡の力」とは、映し出すこと。
そのこと自体は、目には見えない。
目に見えるものは、映し出されたもの。
だから鏡の力を「直に」見ることはないのだ。
心も同様に、本性を知れば心にどんなものが映し出されようとも、映し出されたものに、
条件ずけられることもない。
本当のリラックスはここから始まる。
意識は鏡に似ている。
内側を観れば、年齢を感じない。
意識には年齢がないからだ。
年齢は、肉体に、殻に属するものだからだ。
このことは、心に傷を負った人にとっては、愁眉(しゅうび)を開く有益なヴィジョンとなるだろう。(ホッとする)
意識が鏡のようでなくなった時、それは思考となる。
心は対象を追う、そのエネルギーが思考となる。
そのエネルギーをそのまま源へ、心へ循環させる(光を巡らす技法)。
その時、きずけば「大きなスペースに」いることを知る事ができる。
人のマインド(心)と言うものは、常に先に行くか、過去に行くかのどちらかだ。
「今、この瞬間に在る」、と言うことは、簡単そうで簡単ではない。
人のマインドとは、絶え間ないお喋りの連続。
それが始まると、今を全面的に生きると言う事ができなくなってしまう。
歩くときは、唯、歩き、食べるときは、唯、食べ、働くときは働き、眠るときには、唯、眠ればよいのだ。
心は静まりかえってから、本来の働きをする。
「両手で打つ音は聞く、片手の鳴る音は如何に?」
2006年2月6日月曜日
リフレクション(反映)
時刻: 17:32