久しぶりにスコタイに行ってきた。
スワンナプーン(黄金の大地)と呼ばれるタイ国の中央部に位置する。
丁度、チェンマイとバンコックとの中間にあたる。
スコタイ(自由の曙)には、世界遺産ともなっている、大きな遺跡公園があり、そこにあるワット・マハタートの仏像は世界的に有名である。
タイ国が、微笑みの国と呼ばれるのは、この仏像に起因する。
その理由は、ここの仏陀が、微笑んでいるように見えるからだ。
悦びが、泉の如く満ち溢れているかのようだ。
ここは、ヴィブラント・ガーデン(波動の庭)。きめ細かい、気持ちの良い、波動にみちみちている。
身体の疲れは、一日二日でとることが出来るが、心の迷いや、何かに取り付かれていたり、混沌、混乱しているとき、振り張れば、振り払うほどに取り付かれてしまうことがある。
スコタイは、私にとって大切な點心(心を晴らす事)のスペースの一つとなった。
ここにやって来る、タイ人、外国人を問わず、皆が嬉々として微笑んでいるのが印象的。
難しい顔をしている人は一人もいない。
国際会議等を行うには、絶好の場所。
丁度、この時、タイの首相以下、全ての大臣が集まって、会議が始まっていた。
悦び(Joy)とは、神秘的だ。
それは楽しみ(Pleasure)や幸福(happiness)とも違う。
それは外側の物事や他の人々とは無関係。
それは、内なるエネルギー現象だ。純粋なエネルギーは良い。一寸変な言い方だが、それは悦び、生のエッセンスだ。国や民族、文化や宗教に拘わらず、人々は楽しみなり幸福なりを求めてやまない。楽しみは、肉体的、物質的であって、様々な遊び、食べることも含まれる。
ダイヴィング、旅、トレッキング、魚釣りも、様々なスポーツも楽しみの対象だ。仕事を楽しみにする人もいる。それ自体何も悪いことも、問題もない。
丁度、それは海の表層で起きる波のようでもあり、又、風の報酬のようであるかも知れない。
時の遊びかもしれない。兎に角、楽しみは何らかの対象、相手に依存する。
もしある男がある女を愛したとすると、そこに楽しみが生じてくる。同時に苦も生じてくる。金や力をことさら極に求めれば、どうしても金と力に依存せざるをえない。それは、人の意識の、核心ではなく。周辺で起こること。誰にでも当てはまり、二元性の元となる。だが、人生のゴールという訳ではない。 むしろ、第一歩なのかもしれない。中々、難しいが、うまくやっていきたい。
次に「幸福」とは何だろう? ある作家が、人間の生きる目的とは「幸福」になることである、と言った。「楽しみ」が、肉体的、生理的だとしたら、「幸福」は心理的だと思う。「楽しみ」よりは、ハイかもしれない。もしかすると、「楽しみ」は、低次元の「幸福」であり、「幸福」は高次元の「楽しみ」と言えなくもない。
又、こうも言える。「楽しみ」はプリミティヴ、動物的。「幸福」はより文化的、人間的とも言える。だが、低次元なくして高次元なし。しかも、「幸福」は副次的、ハップニングとして起こると言われる。 「幸福」は、思うに、常に何かの副産物であるようで、直に得ようとしても得られる訳ではないから難しい。幸福の事を,全く意に介していない時、求めないときに起こるハップニングではないだろうか? ハッピネスとハップニングとは語源を一つにする。
、いずれにしろ、マインドの大きな世界で常に営まれている、ある種のゲームのようなものかも知れない。「悦び」(Joy)はより神秘的でスピリチュアルであろう。普通、私たちが考得る「悦び」は本当の「悦び」ではないかもしれない。いい所、エンターテイメントの域を出ない。「悦び」は「楽しみ」や「幸福」よりもランクが高い。それは、無為のハップニング。仏陀や老子、シヴァはその「悦び」の達人である。 それは、内なる現象。周囲の状況に左右されない。その人個有の現象。ある賢者いわく「悦び」は、宇宙を成り立たせる、重要なスタッフである、と。
「悦び」の上に「至福」があるが、これに関しては言葉も無い。時も消えてしまうという。体験だけが意識に残る。
生きている以上、これらの四つの宝、「楽しみ」、「幸福」、「悦び」そして「至福」。すべてものにしたいと思うのは、誰しも同じ。少しずつ、ゆっくりとエンジョイしよう。
ほらっ、達磨さんが笑った!
ヨーソロー!(船乗りの言葉で、宜しく候の意味)