2005年11月6日日曜日

時(その1)

 時、時とは何だろう?
 私達にとって、時間とは、どういう意味を持つのだろう?
 時は、私達にとって、どんなパワーをもっているのだろう?
 
 時は無限にある。時は「一瞬」と見る事もできる。そこに時のパワー がある。時間が無いと言う人もいる。無時間の次元を、基盤にする人もいる。時間に追われて、息も絶え絶えの人もいる。過去は記憶、未来は夢。そして、時とは今の事だと言う人もいる。時は、私達が、生きていようと、死んでいようと、お構いなしに在り続ける。

 20世紀を振り返れば、人々は仕事にせよ、家庭にせよ、環境にせよ、時間を奪い取られる事に否応なしに取り込まれていった。自分の時間をマネージメントする事は、何事にも変えて、重要で、困難な仕事であった。

 インドでは、「時」は「カリ」と呼び、それは、闇と同義語であった。また、こんな神話もある。インドには神の時間と言う時のモードがある。
人の一生は、ブラフマ{創造神}の一日、ブラフマの一生は、ヴィシュヌ神{宇宙神、維持神、海の神}の一日。ウパニシャッドいわく、「神は在り、そして、無い。」 と。

 時は、人、それぞれの在り方{Being}によるもの? それとも、各個人に独自に働きかけるもの?
楽しい時間はあっという間にすぎさるが、待つ時間は長い。信号や踏み切りが開くのを待つのは辛い。

 私達が認識する時間とは、必ずしも時計の進み具合と一致しない事は、多くの人々は日常的体験で知っている。
時計は、ある一定のリズムを刻むだけなのだ。時計そのものには、時間の感覚は無く、時間は時計を見る人にある。

 ヒマラヤとか、ガンジスやメコン、或いはナイルの岸辺、タイの島、スマトラの海岸等で、深い瞑想に入っていくと、時の質そのものが一変して異次元にに入り込んでしまっている事に気がつく。その、あるがままの状況が、この上なく素晴らしく、そこから、「二ユータイム」と言う言葉が生まれ、「ニューエイジ」、或いは、瞑想の神。シヴァ神(水瓶を持つ神)にちなんで、「アクエリアンエイジ」となっていく。

 時間を感じる原因を探って見ると、外的な要因と言うよりも、マインド、思考に原因があったと気付くようになる。思考と思考との間にも、無音、
無思考の状況がある。その無の次元、無思考の次元を拡張していくにつれ、時はその性質を変え始め、やがて、時は、「今」と言う次元そのものになってくる。 
 一方で、自分の波動に注意すると、波動、或いは振動数と’言ったらいいだろうか、粗雑で荒々しいと、物事は、早く起こりすぎて、コントロールが難しくなる。とてつもないエネルギーが必要だと感じられる。言葉も思考も極端になり、過激になってしまう傾向がある。

 自分の波動のキメが細かいと、別に何をせずとも、必要な情報が入り、物事もゆったりとリズムを伴って、この世の動きが、まるで音楽のように見える。今朝もガムラン音楽を聞きながら、郵便局へと出かけた。ゆっくりと、踊るように歩いていった。出合った人々も素晴らしかった。 
意識が拡がって、スペーシーになればなるほど、内と外との境界が無くなっていく。

 21世紀に入って、私達の目の前には、二つの大きな道が、はっきりと見えてきた。一つは「情報の時代」と呼ばれ、宇宙に向かって、真っ直ぐに伸びようとしている。それは、あらゆる科学のマインドやあらゆる知識を集約し、コンピューターを駆使した、ハイテックハイウェイと呼ばれ、あらゆる物事をグローバルに繋いでいこうとする。
 一方で、「意識の時代」と呼ばれ、無限の宇宙と地球、大地とを繋ぐ、「無限のハイウェイ」がある。情報の時代の道は非個人的だが、意識の道は、日々の生活に根ざしていて、しかも非常に個人的である。タントラ、禅、タオの人が「力」をくれる。これは、自然の道、人の道である。

 又、18世紀から始まった工業の時代が、終わったわけではない。ハイテックルートを模索しつつも、全く問題がない訳ではないが、まずは、うまく着地出来たのではないだろうか。だが、人類は、より深い意味での豊かさ、クオリティを求め始め、かつての物質文明ではとても得られなかった、無形の豊かさを求め始めている。この意識の時代の潮流は、工業にも、農業、食料、情報産業にも、重要な意味を持ち、意識の潮流は、根源的には、生命潮流と同義語であるからだ。

 現代の時代、アクエリアスの時代を一言で言えば、「波動の時代」と言っていいだろう。様々な物事が、同時に世界規模でおこっている。
もし世界がおぞましかったり、テレビや新聞での発表される事や、陰気な事、つまらないと思えてくるときは、自分の波動が粗雑で荒々しい状況に入っていると思っていい。もし自分の環境が、世界が、安全で美しいと思えるときは、波動のキメが細かい、スペーシーな状況で、慈しみが溢れそうになる。

 波動に注意して、気付くようになると、ある意味で時を超越している事もありうるのである。楽しい時間、喜びの時間を過ごす時、一刻一刻が無限のスペースの、ハーモニーの一音一音であるように思えてくる。全ての、生あるものが生き生きとしていると言うビジョンは、何ものにも変えがたい。