2005年11月14日月曜日

瞑想(ディアン)

 瞑想(ディアン、サンスクリット語。中国では、チャンと呼び、日本に渡って,禅と呼ばれるようになった)。それは、所謂、信仰ではない。技法はあっても、形式でも、倫理でも、主義でもない。むしろ、「無形なものへの信頼」と行ったらいいだろうか。

 人は,香も焚けば、放屁もする。腹が減ったら食べ、疲れたら休む。それは、決して深刻なものではない。
 本来、瞑想は、世間的な常識、形式、条件ずけを落とす事に意味がある。気楽なものでありたい。その気楽さから、集中力、洞察力、展開力、様々な知恵、力、エネルギー、悦びや楽しみが生じてくる。

 一日中、無心でいたり、瞑想する必要は全くないが、時には1-2時間程でも、そんな特別な時間を持ちたい。言葉を変えると、これは、ライフ・チューニングなのだ。
それは、対極を理解する洞察力を与えてくれる。
その時点で、すでに、新たな次元にきずくはずだ。

 世界中のあらゆる争いが、思い込み、誤解に因っている。瞑想とは、自分自身に落ち着くために、自分と言う存在の、最深部にある核を見つけ出す事。自分の存在の中心が見つかれば、人は、自らの「根源」と「翼」との両方を手中にする事ができる。それは、よりトータルな人間へと脱皮する事なのだ。

 一つ,判っていて欲しいのは、思考はマインドからやってくる。理解とは、超えたところからやってくる。根源に戻れば、人は意味を見出す。形、見かけを追えば、源を失う。人は、未来に希望を託している。未来の本質が、希望、夢のようなもの。未来は、今、現在のなかにその種子がある。だが、未来はまだ起こっていない。過去はもう終わっている。

 形あるものは、役に立てたり、楽しめればよい。頭も身体も使えばよい。心は生きる為にある。

 心が生き生きとすれば、身体も行為も喜ぶ。だが、これらの機能や生命力をチャージ出来るのは、形の無いものである事を覚えておきたい。
その意識を目覚めさせる次元を、「無心」と言う。そして「心」は「無心」から生じてくる 。それは、常に、今、ここにある。
 それは、より生に直に触れようとする「コツ」であって、ある種の遊びのようなもの。どこにいてもできる。贅沢な遊びではある。「生」とは、神秘であると同時に、動詞なのだ。

 ここで、フォーチュニングと云う言葉を紹介しよう。これは、fortune(福、幸)と、for tuning(調整)とを合成させた言葉。これは、新語だ。
フォーチュニングの意味は、きずき、豊かさ、創造性、イマジネーション、インスピレーションを深める道筋を開く事としたい。

 イデオロギーの時代は終わり、「自然」と言う言葉がよく聞かれるようになってきた。時代は形式主義から、実質的な方向へと、向きを変え始めている。

 ほらっ、空が降りて来た!