2005年11月13日日曜日

風潮が容認する常識

 山本七平さんの(常識の非常識)と言う本の中に、 (根拠の無い前提がいつの間にか「常識」となって、人々の 考えを拘束すると、社会の通念に従って行動しているつもり が、結果としてとんでもない非常識になる)とある。

 殊更、文化的、文明的になると、ある固有の文化、文明を、 国や社会のエゴや都合で、否定しがちになり、自ずと差別が現れてくる。
美を美と決める事、そのことから、必然的に醜が生じる。
そして固定観念は、全てを閉ざし、閉塞してしまう。 自然だけが、成長する。 社会の二元性は仕方が無いが、二元性の陥る罠と言っていいだろう。
真実は世の善悪に穢れず。
イデオロギーの時代は終わり、自然と言う言葉が、自然によく聞かれるようになってきた。
時代は形式主義から実質主義へと移り変わろうとして いる。
今は、面白い時代だ。

 有名な話で、もうご存知と思うのだが、こんな話がある。
イギリスの皇太子が、インタヴューを受けた。
「文明についてどうおもわれますか?」 と言う問いに、

「それは、いい考えだ、誰かが始めるべきだね。」

 この一言で、彼は単なる飾り物から、リアルな存在になった。
それは、実に、クール(格好よい)で、見事な、ウィットに富んだ反逆だった。
「 皇太子にしておくのは、もったいない。」とも言えるし、さすが真の皇太子と 言う意見もでた。
彼は、真の文明はまだ始まっていないと言う事で、王室 も国も、世界をも皮肉っている。
創造性、クリエイティヴィティーに必要なのは、くつろぎ、そして、あらゆる条件 付けを取る事。
別に世界を変えようって言うのではない。
既に変わっている。 ただ、そのことに気付くだけでいい。
人は、無意識のうちに,様々なラベルを貼ることを習慣にしてきた面が多々 ある。
人は有名なブランドと言うラベルには弱いし、また、常識面、生活面 於いても、あれは善い、これは悪い、あいつはダサイ…。 安易に、物事を固定概念的に、自分で確かめもせず、世間的知識や常識 にスタンスを預けてしまう。
例えば、白がよい時も有れば、黒がよい時もある。
どちらが良くて、どちらが悪いと言うことはない。
本来、色に良し悪しはない。
それは、見る人の好み、都合だ。
それはそれでいいが、真実は、世の善悪に汚されずなのだ。

  江戸時代の粋人の言葉に、素晴らしいのがある。

「色を求めるにあらず、色合いのみ」

中々、深い。

 世間では、真実は歪んで見え、虚偽、偽善は真っ直ぐに見えると言う。
全ての知的見解は、一時的で、部分的で、相対的二元論に基いているからだ。
どんなに完璧に見えるものでも、それは料理と同じで、料理人の腕、つまり,構成 が見事なのであって理論の多くは二元論に基いている以上、又、生きている以上、 いずれ、ほころびが出てくる。

  理論や倫理、論理を通して、物事、世界、宇宙を見る人は、非常に込み入った、複雑な見方をする。
時々、そんな話を聞いて、笑ってしまう。
しかも、的を得る事は、稀。
木を見て、森を見ず、だ。
 明晰な人は、シンプルに状況を見る。
心の鏡に映ったままを言う。
知らない事は、知らないといい、 出来ない事は出来ないという。
彼(彼女)は自分の事をよく知っている。
人は、あまりに鯱ばって、いい格好しようとしたり、正しくあろうとする努力をす てた時、 行きつまりから、解き放たれることがよくある。
そして、成長が始まる。

  自然は成長し、不自然は衰弱、もしくは凝固してしまう。
自然は本来、美しいわけでも醜いわけでもない。
自然は、自ずと、然るべく。

自然が美しく見えるのは、私達が余りに醜いものを見すぎたからかも知れない。
自然といっても、原始の森とか、人の立ち入らない深山幽谷と言う意味ではない。
例えば、書けなくなったボールペン、切れないかみそり、ガス欠の車とか、余りに酷 い公害とかは、生活にとっては、不自然の部類に入ってしまう。