2005年11月20日日曜日

エッセンス(その3、錬金術)


 タントラ, ゾクチエン、チベット仏教、タオと言う秘教のメソッド(技法)には、1000をも越す、錬金術(アルケミー)があり、私なりに幾つか纏めてみると、次のような三つのキーワードが、現れてきた。

 まず、「水のヴァィタリティー」、それから「スピリットの煌き」、そして「気ずきの大地」。

 「水のヴァイタリティー」とは、「サイレント・ジョイ」に書いたとうり、原初的な宇宙との一体感。
その宇宙意識から生ずる、エネルギーの流れ(フロー、或いは、甘露、アムリタ)。
これは、永遠から沸き出る泉のようだ。
素晴らしく、爽やかで、気持ちが良きやり、充実してくる。
そして、このことが基盤となる。
それは、とどまる事を知らない永遠の川の流れのようだ。
「天地、相和して福流をなす。」

 「福流」は、中国式に、「フー・リュウ」と呼びたい。
「フォーチュング」と同義語である。
それには、無心が鍵となる。

 「スピリットの煌き」、これについて、言えるのは、水のヴァイタリテイーやエネルギーの流れは、永遠に続く、宇宙のサイクルの状況の変化に応じて、強まったり、弱まったりするが、オリジナル・スピリットは、恒常で、陰陽を越えている。
スピリットは目には見えなく、また形もない。
知覚がセンサーとなる。意識の深い所に起こる光の様でもある。
「スピリットはどんな形、或いは色?」 と問うてみても、丁度、「鏡の色は、どんな色?」と問うようなもの。
或いは、魚に「海とは、何か?」と’問うようなもの。
スピリットは、意識の光、日の光、機能、全ての始まりの鍵となる。

 「気ずきの大地」。
意識の深みに隠れている、天の心、仏性(ブッデイー、英知)。
或いは、気ずきの源、そして特別な空間、または部屋と’言ってもいいかも知れない。

 それは潜在的で、実質的な中心。
しかも、この世の、「善悪にも染まらない」。
それ故、この気ずき、仏性は、いつもは、シャイで何処か深い所、シークレット・ガーデンの何処かに隠れている。
どこにあるかと言うと、国とか、地域、政治や社会といったモードに左右されない、何処でもない所にある。
気ずきと言うのは、ある種の神通力、直感力が冴えてくる。
それは、何気なく、何かの折に、フッと、気ずくのだ。
この気ずきが、、様々な能力の源となる。

 「大地」に入る前に、一寸、閑話休題。

 野球のゲームの中で、ゴロと言う打球がある。意味は判っていても、言語的には、「何なのかな?」と疑問に思っていた。調べて見ると、「ゴロ」は、英語で,[ground]、大地の事。
それが、日本語では、「ゴロ」。
野球では、ゴロを打つ事を、グラウンドと言い。ゴロを打って、アウトになることを、グラウンド・アウトと言う。打球にも、ゴロ、フライ、ライナーとあり、補球となると、ゴロは非常に厄介だ。
打球にも依るが、ゴロを補給するのは難しい。

 その「大地」、グラウンド、ここでは、受容性の事、受け入れる事、受け入れる能力とした。
例えば、壺や花瓶、器や容器についても言えるのだが、内部の空性、窪みがあって、初めて役に立つ。何かで一杯になっていたり、詰まっていたら、もののやくにはたたない。
飛行機や汽車の切符を予約しても、空席があって始めて、席が確保出来る。

 壺は、形と言う外形で、内部の空間は仕切られているが、その空間、「無い事」は、外の空間と別物ではない。
「空性あって光あり。」、形と形の無い事の調和、それこそ、「現実そのもの」でもあるのだが、そこから、未知の可能性、新しさ、意味、機能が生じてくる。
「無は、無窮にして、一切の始原の意味」としたい。

 「受容性と言う能力」なくして、得るものは何も無い。
受容性あって始めて、創造性、発展性が、自ずと生じてくる。
不自然に成長はないが、自然で柔らかい、しなやかなものは、成長する。

 人のインナー・マンダラ(内的宇宙、ひとの身体の微細なエネルギー・システム)は、無、空性のエッセンス、自然な心(ナチュラル・マインド)とエネルギーと一体となって初めて整い始め、本来の機能と力を取り戻し始める。
より、フレキシブルになり、時には、想像していた事が、実際に起こったりすることもままあることとなる。

 「水のヴァイタリティー」、「スピリットの煌き」そして「気ずきの大地」、以上の三つは、相関関係にあり、それぞれがそれぞれの福流となり、エッセンスとなって、新次元の鍵となる。
言葉にすると、ややこしくなるが、一つ、理解出来ると、後の二つは、遅かれ早かれ、ついて来て、トータルとなる。