朝の一雨が上がり、庭の樹木に日が差し始め、雨に濡れた、緑の葉の瑞々しさを、煌かす(きらめかす)。一斉に目を覚ましたかのように、金木犀の小さな黄色い花が咲き乱れ、その薫りが当たり一面に拡がって行く。日が差すと同時に、げんきんなもので、鳥達があちこちから、声を掛け合う。朝ならではの、静かなはなやぎ。日毎に、秋色が深まっていく。家の中では、朝餉の用意が終わり、禅師と弟子達が、食卓につこうとしていた。部屋の中には、湯気が立ち昇り、旨そうな、香りが部屋に充満する。
弟子が師に尋ねる。「知(インテリジェンス、仏性」を働かせるにはどうしたらいいでしょうか?」
暫くして、師はおもむろに、口を開いた。「飯がさめてしまうぞ」
「知」を働かせるには、情報は要らない。瞑想が必要。今、ここにいる事が必要。静かになる事、無心になる事。レス・マインド、モア・ハート。師は、「飯がさめてしまう」と言う一言で、次元を今、ここ、にひきもどしている。「知」は、そこにあるからだ。他には、何処にも無い。それは、知識のことではない。明晰さのことなのだ。
師が立ち上がって、ガラス戸を開けると、庭の薫りが、ここぞとばかり、部屋の中へ入って来た。皆、顔を見合わせて、笑った。光の声が聞こえたような気がした。
2005年11月10日木曜日
金木犀のある庭
時刻: 23:34