私達はものに囲まれて生きている。身体も生きた物質だし、食べ物も有機的なものだ。大地も生きた物質だ。
ものと呼ばれるものには、形がある。気付けば,周囲はものに囲まれている。
形が無いもの、例えば「空」はものではない。光も闇もものではない。「風」も,「火」もものではない。仏教では、「水」は,光が物質化したものだという。その解釈は創造的でとても善い。意識や無意識もものではない。呼吸もものではない。
心も命も、魂もスピリットもものではない。思考も、想念も未だ、ものではない。
現実は、物質的なものと、非物質的なものとで成り立っている。にもかかわらず、物質主義という主義が成立する為には、かなり偏った傾向が必要条件となる。
ある状況として、内容よりも、外形にとらわれる傾向、というのがある。
物事の外側、表面的に現れる現象が、感覚への執着を通して心に届くと、もう知ってしまったと安易に思い込む様になる。
又、外的な現実のみが現実の全てだと思い込んでしまう。何も判ってはいない。
物質主義は、主義という視点で、何時でも、何処の国にでも見る事が出来るが、それは物質的な現実を、非物質的な現実よりも価値を置く傾向の事である。何事も,深刻になってしまう。
それは、あくまで,現実の一部分にすぎないのである。
物質そのものは主義でも何でもないのに、人は主義にする。
主義は、そこら中に掃いて捨てるほど、充満している。
人の感覚は、絶えず外界からの情報をもたらし続けている。
そして、此の情報を餌にしているのが、自我意識(エゴ)である。それは,自己の代用品なのだ。
東洋の,意識に関する考え方は、直の体験を重視する事。
当たり前の事実だが、この世はものだけで成り立っている訳でない。
寧ろ,ものない事、ものでない事が,中心になっている。それは、心の本性は,あらゆる考えを超越しているという事である。
それが,闇雲に,只、押さえつけられれば、何らかの反動が必然的に現れて来ることになる。
平常の情報が断たれると、自我意識は成立しなくなる。
それ故、瞑想状態にはいれば、自我は落ちてしまう。この辺りは表層意識であるが,成り立ちを知っておけば,利用したり,逆利用も出来る事になる。
物質主義への不安は、これは物質のみならず,あらゆる主義に当てはまるのだが、外面的な、表層の現実だけに、因果関係を求めてしまう事にある。
意識と自我とを一緒くたに、ごちゃ混ぜにしてしまう状態が、安易に起こって来る。
知性も意識も、明晰さや直感力、イマジネーションもヘチマも無くなってしまう。
自律神経が先ずおかしくなって来る。混沌としてしまう。波動が粗雑になって来る。
正しい視力がなくなってしまうのだ。
集中する事、言い換えれば,感覚器官から心を解き放つ事、が不完全になってしまう。
集中力とは,雑念の無い事。無心から生じて来る。
結果的に、主義にそぐわない物事は、無意識の内に封じ込められてしまう。
それらは、何時かは、表に出てくる事になり、何時かは,必ず表面化しくることになる。
ものや物質が幾らあっても、何の問題も無い筈だが、主義、イズムとなってしまうと、もう化け物と化してしまう。
損得や表面的な美醜、好き嫌いだけで、二元的に世界を見てしまう事になる。
全てが観念的になってしまう。不安は増大してくる。
主義は人の自我意識から生まれて来る。
自我が落ちれば、主義も落ちる。そこに間が生じて来る。
本来の現実が,クリアに見えて来る。自由とか,自然とかと言われる。
それは,主義でない事だ。
自然主義とか自由主義と言った言葉は,意味をなさない。自然で自由であれば良い。
生に於いては、双極性、互いに矛盾するものごとが、共存しているのである。片方だけで成り立っている訳ではない。
生と死、死なくして生は成り立たない。生は意味を失ってしまう。
闇と光は同じ状況の程度の問題でもある。
ものに光りがあたれば、例え、それが10万光年の彼方の星の上であっても、必ず影が出来る。
地球に日が当たれば,その裏側は夜になる。
2007年2月7日水曜日
イズム
そこには、始まりも,終わりもない。
時刻: 1:45