シェムリアップといえば、カンボジア第4の都市。寺院のある町だ。此の町が有名なのは,アンコールワット、バイヨン、バンテアイスレイと言った,古代の仏教、ヒンドウー教の遺跡がある故である。メインストリートには,高級ホテルや、その見事な庭園が立ち並び,世界中からの観光客を受け入れる。
数年前に,遺跡は見物したのであるが,実は,子供の頃からのあこがれであった。欧米やインドに長くいた関係で,中々訪れるチャンスが無かったからだ。数年前にやっと訪れる事が出来た。何十年もの昔からの夢が叶ったのだ。
ところで、インドのカジュラホという遺跡の寺院群は、1000年以上もの昔、月の神、チャンドラの子孫とされる,チャンドラ・バルマンというマハラジャが建造したとされている。
一方、アンコールワットやバイヨンは,スーリア・バルマンという王が建造した事になっている。スーリアは、太陽神を表す言葉だ。そして、姓のバルマンは、共に共通である。何か繋がりがあるに違いない。バルマンという姓が共通の上、スーリア(太陽神)とチャンドラ(月の神)という,まるで兄弟のような名前に,何かの因果関係があるのかと思った事も,訪れたい理由の一つであった。
町から遺跡迄は,タクシーで行かねばならない。タクシーと言っても、小型のバイクタクシー、通称、バイタクである。自動車のタクシーよりは安い。一日、二日と遺跡を廻ってくると、四月の暑さもあって、さすがに疲れて来る。35度は超えている。特にアンコールワットの祭壇,階段と言ったら善いんだろうか,角度が急で、登るのも大変だが、下るのは,怖い程の急角度だ。 バンテアイ・スレイやバイヨンに関しては、そんな事は無かった。見回っているうちに,何時しか、ストーンな意識に入ってしまう。蓮の花が美しい。此処は楽園だ。
注意が何かに留まるとき、その瞬間に、体験する事がある。見ているものを,見ている事に、気付く事がある。知る事以前には、言えない事がある。知れば初めて,「在る」という事に気付く。
過去を忘れ,自分も忘れてしまう。インドの遺跡との因果関係も忘れてしまった。だが、何時しか,平常とは違った意識にいる自分を発見する。客観的に、自分の「素」の部分が見えて来た。
さすが,アンコールの遺跡群は、宇宙の中心とも言われるだけあって、その存在感は並のものではない。
身体は疲れても,気分は寛ぎ、食堂のベンチでも眠ってしまいそうになってしまった。
クメールの米、これは、日本語の米という言葉の語源らしいのだが、米そのものも,日本の米に近い。食べ比べても,きっと判らないかもしれない。ご飯はおいしい。夜のディナーが楽しみになる。 シェムリアプの町から、一本裏の道に迷い込むと、昔ながらの人間らしい生活が、今も変わらずに続いている。朝の散歩には,こんな裏道が楽しい。
道沿いに在る,屋台のカフェでビニール袋に入ったコーヒーをストローで啜りながら、川沿いにゆっくりと歩いてみる。皆元気がよく,その元気さが身体に滲み出ている。何十年も戦争で,限界を通り越した。そして、何とか、生き延びた。二度と戦争は御免だ。こんな楽園で、人々は何故戦ったんだろう? 無言のうちから、そんな言葉が聴こえて来そうだ。
表情も明るい。生きる喜びがある。それこそが、人や地域や国の宝であると思う。生きる喜びを知的に説明するのは不可能だ。論理も、哲学も、ガラクタも関係ない。全身全霊が生きている。
生きる喜び、それが本物なら、これ以上のものは無い。そこに、理由は無い。理由の無い喜び。無因の喜び。コンフィデンス、自信のようなもの。生への信頼。それが根源。此処の所が訪れてこないと,二次的な目標も,夢も成立しなくなる。時、所によっては、人々はイライラし,集中もならず,安易に不満を他のものに転化してしまう。視力がなくなってしまう。
物事は動いて行く。世界は動き続ける。生きているものは、多少の差はあれ、全て動いて生きている。喜びがあれば、どんな事にでも対応して、和していく力がある。それは、超越のエネルギー現象だ。豊かな現象だ。
それが、本来の人生の目的であったような気がして来る。生きる事は、単純な事なのだ。自分という山を越したような気がして来た。夢の意味が分かったような気がした。
そこから、二次的なものが動き出す要となっていく。普遍性という宇宙が、自ずと生じて来る。夢が生じて来る。そんな、気がしてきた。
それを現実化する。