信念と信頼、此の二つの言葉,似てはいても全く意味が違う。
信頼は、信念も疑念も無い時,起こって来る。
そして.その事,その時の気付きが,本来の自分に直結する様に感じられるからだ。
魚に,海とは何か? と聞いてみれば,魚に言語がわかったとしても、海の説明は難しい。
昼間の星は,目には見えない。だが、人はそれが見えなくとも、存在している事を知っている。
それは、暗黙の了解だ。
私達も,海の中に暮らしている訳ではないが,大きな意味での海、宇宙、大海に生きている。
分別を通して、人は悩む。それは、マインドの作用だ。
だが,時として、無分別は、人の目を覚ます。
生という大海に気付くのだ。
大海にも,海と同様に,表層にはさざ波が起きたり,時には、渦巻いたり、動いたり、荒れたりもする。
だが,その深みに於いては,静かにゆったりと寛いでいる。
信頼とは、最も大きな意味での、究極の理解のことである
ただ、生を信頼している。
生とともにあり、生とともに遊び、生とともに歩き、生を泳ぎ、生とともに休む。
生きるも死ぬも,生に委ねてしまう。
生の流れは、あたかも、永遠から湧きいずる泉のようなものである。
気付けば、そのエネルギーの流れは、ストレスなしに何処までも、いつまでも流れ続けて行く。
それは選択ではなく,生の流れにそって生き、生,そのものに関しては、私達は、無選択である。
それが信頼だ。
ポジティヴな人は、混沌の中にさえ、秩序を見いだす。宇宙を見いだしてしまう。
それは全体と戦って等いないからだ。
もし、自分に夢があるのなら、その夢を追いかければ良い。
それを追いかける事で、相乗効果で生命力も、あらゆる力がついて来る。
夢がたとえ叶えられなくとも、生を信頼していれば、以外な、良き結果も生じようというものだ。
自由は、此処から生まれて来る。
それ故、生を信頼するものは、未知へ未知へと、何処までも、歩を進める事ができるのだ。
信仰について一言、言えば、自分の中に在る疑いを隠してしまうという事、しかも、奥深い所では、自分はその事を良く知っているという事でもある。
つまり、疑念はそのままだ。
それ故、ごまかしとも言えるのである。
それは一向に構わないが、矢張り、何時かは矛盾が表面化して来る事になる。
信頼はその人に未だ起こっていないのだ。半信半疑なのかもしれない。
と言っても、信仰や信念に反対する気は毛頭ない。
旨く機能して,やがて、幸せになる人も少なくないと思う。
そこから様々な文化や多面性,旨くすれば、信頼まで生まれて来るからだ。この点は見逃せない。
ただ通路が一寸違うだけの事だ。
いずれは、ともに海を知る事になる。
信頼は、信念も疑念も落ちた時、初めて、起こって来る。
自分が何かを信頼する、というのでもない。その時、自分すらも落としているからだ。
その時の不二の気付きが,本来の自己に直結する様に思う。
其所から初めて、人は、力を実感する。
それは、所謂、神や仏への信仰、信念ではない。それらは、二元的な状況だ。
自分を超えた部分、本来の自己においては、自分と神という二元性が無くなってしまう。
そうなって、初めて、人は視力を,そして生を手の内にする事ができる。
仏陀が信仰に反対したのはその為だ。神という概念に反対したのはその為だ。
真実は言葉を超えているからだ
自分が何かを信頼するというのでもない。
それは,疑念に対する信念とは違う。
それは、根本的な、誤解を避ける為だ。
人それぞれ、自由であるから、他人がとやかく言う事ではないが、一切の事、生きるも、死ぬも、生にゆだねてしまう事。
それは選択ではなく、生の流れに沿って動くこと、生そのものに関しては、むしろ無選択。それが信頼だ。至福は、人に内在している本性だと言う。
それを獲得するすべは無いし、その必要も無い、又、対象でもない。
何故なら、私達は既に“それ”だからだ。
もし,幸いに自分の夢があるのだったら,その夢を追いかけるのは善い。
それを追いかける事で,生命力、あらゆる力が付いて来るからだ。
その時,生を信頼出来ていれば、夢もそうだが、生との信頼関係が良き結果をもたらす。
知らないものにとっては、冒険,危険な事の様に見える事もある。又、全く、理解出来ない事もあろう。
だが、生と信頼関係にあるものには,視力も力も付いているのだ。
それは頭の問題ではなく、魂の問題でもある。
タオイズム(道教)に依れば、それ自らに依って存在するもの、大いなる一つなるものはタオと呼ばれる。言葉を変えると、タオとは自然の事だ。
そこから、相反する二つの存在原理、光りと闇、陰と陽が現れる。
一方からは創造的な原理、本性が現れ、もう一方からは、受容性、生命が現れるという。
不二を知って、寛いでゆったりとしておれば、両者を共に受け入れる事ができる。
其所から信頼が生まれて来る。
靴がフィットすれば、人は足の事は忘れてしまう。
春が来れば、草は自ずと生えて来る。
やがて、大地が春を迎えようとしている。
2007年1月30日火曜日
サバイ!(グッド!)
時刻: 1:35