2007年1月30日火曜日

サバイ!(グッド!)


 信念と信頼、此の二つの言葉,似てはいても全く意味が違う。
信頼は、信念も疑念も無い時,起こって来る。
そして.その事,その時の気付きが,本来の自分に直結する様に感じられるからだ。

 魚に,海とは何か? と聞いてみれば,魚に言語がわかったとしても、海の説明は難しい。
昼間の星は,目には見えない。だが、人はそれが見えなくとも、存在している事を知っている。
それは、暗黙の了解だ。
私達も,海の中に暮らしている訳ではないが,大きな意味での海、宇宙、大海に生きている。

 分別を通して、人は悩む。それは、マインドの作用だ。
だが,時として、無分別は、人の目を覚ます。
生という大海に気付くのだ。
大海にも,海と同様に,表層にはさざ波が起きたり,時には、渦巻いたり、動いたり、荒れたりもする。
だが,その深みに於いては,静かにゆったりと寛いでいる。

 信頼とは、最も大きな意味での、究極の理解のことである
ただ、生を信頼している。
生とともにあり、生とともに遊び、生とともに歩き、生を泳ぎ、生とともに休む。
生きるも死ぬも,生に委ねてしまう。
生の流れは、あたかも、永遠から湧きいずる泉のようなものである。
気付けば、そのエネルギーの流れは、ストレスなしに何処までも、いつまでも流れ続けて行く。
それは選択ではなく,生の流れにそって生き、生,そのものに関しては、私達は、無選択である。
それが信頼だ。

 ポジティヴな人は、混沌の中にさえ、秩序を見いだす。宇宙を見いだしてしまう。
それは全体と戦って等いないからだ。
もし、自分に夢があるのなら、その夢を追いかければ良い。
それを追いかける事で、相乗効果で生命力も、あらゆる力がついて来る。
夢がたとえ叶えられなくとも、生を信頼していれば、以外な、良き結果も生じようというものだ。
自由は、此処から生まれて来る。
それ故、生を信頼するものは、未知へ未知へと、何処までも、歩を進める事ができるのだ。

 信仰について一言、言えば、自分の中に在る疑いを隠してしまうという事、しかも、奥深い所では、自分はその事を良く知っているという事でもある。
つまり、疑念はそのままだ。
それ故、ごまかしとも言えるのである。

 それは一向に構わないが、矢張り、何時かは矛盾が表面化して来る事になる。
信頼はその人に未だ起こっていないのだ。半信半疑なのかもしれない。
と言っても、信仰や信念に反対する気は毛頭ない。
旨く機能して,やがて、幸せになる人も少なくないと思う。
そこから様々な文化や多面性,旨くすれば、信頼まで生まれて来るからだ。この点は見逃せない。
ただ通路が一寸違うだけの事だ。
いずれは、ともに海を知る事になる。

 信頼は、信念も疑念も落ちた時、初めて、起こって来る。
自分が何かを信頼する、というのでもない。その時、自分すらも落としているからだ。
その時の不二の気付きが,本来の自己に直結する様に思う。
其所から初めて、人は、力を実感する。

 それは、所謂、神や仏への信仰、信念ではない。それらは、二元的な状況だ。
自分を超えた部分、本来の自己においては、自分と神という二元性が無くなってしまう。
そうなって、初めて、人は視力を,そして生を手の内にする事ができる。

 仏陀が信仰に反対したのはその為だ。神という概念に反対したのはその為だ。
真実は言葉を超えているからだ
自分が何かを信頼するというのでもない。
それは,疑念に対する信念とは違う。
それは、根本的な、誤解を避ける為だ。

 人それぞれ、自由であるから、他人がとやかく言う事ではないが、一切の事、生きるも、死ぬも、生にゆだねてしまう事。
それは選択ではなく、生の流れに沿って動くこと、生そのものに関しては、むしろ無選択。それが信頼だ。至福は、人に内在している本性だと言う。
それを獲得するすべは無いし、その必要も無い、又、対象でもない。
何故なら、私達は既に“それ”だからだ。

 もし,幸いに自分の夢があるのだったら,その夢を追いかけるのは善い。
それを追いかける事で,生命力、あらゆる力が付いて来るからだ。
その時,生を信頼出来ていれば、夢もそうだが、生との信頼関係が良き結果をもたらす。
知らないものにとっては、冒険,危険な事の様に見える事もある。又、全く、理解出来ない事もあろう。
だが、生と信頼関係にあるものには,視力も力も付いているのだ。
それは頭の問題ではなく、魂の問題でもある。

 タオイズム(道教)に依れば、それ自らに依って存在するもの、大いなる一つなるものはタオと呼ばれる。言葉を変えると、タオとは自然の事だ。
そこから、相反する二つの存在原理、光りと闇、陰と陽が現れる。
一方からは創造的な原理、本性が現れ、もう一方からは、受容性、生命が現れるという。
不二を知って、寛いでゆったりとしておれば、両者を共に受け入れる事ができる。
其所から信頼が生まれて来る。

 靴がフィットすれば、人は足の事は忘れてしまう。
春が来れば、草は自ずと生えて来る。
やがて、大地が春を迎えようとしている。