2006年10月24日火曜日

シヴァ・リンガ


 アジアを歩いてみると、西はパキスタン、東はヴィエトナム、北はチベット、南はニュー・ギニア、インドネシア、はたまた、アフリカと言った広範囲に、一寸,変わったものが見られる。

シヴァ・リンガといって、ヒンドウー世界、そして仏教界でも、大切な要と成るシンボルである。

古代から、生き残って、今でも力を持ち続ける文明の象徴である。

今日は、セックスについて触れてみよう。

 紀元前から、五千年、一万年ともいわれる石器時代の太古から、波動原理の中枢として、バンヤン(ガジュマル)の樹の下、祠、洞窟、寺院の内部の本尊として、また、街角や,村の入り口、その土地の要のような場所に祭ってある。

陰陽が一つに成ったものとして、仏教やヒンドウー教の、ミトウナ(男女交合のシンボル)や、ヤブ・ユム(歓喜仏)と同様の意味を持つ。

立体的、3次元の形で、最古の伝統として、アジア中で見る事が出来る。

シヴァという神話伝説、瞑想技法、音楽、舞踊、医療に至るまで、ヒンドウー、仏教両方に浸透しているが、シヴァの伝説は、その両者よりも古いといわれる。元々、ヒンドウーのものでも、仏教のものでもない。

おそらく、最古の宗教にして、最新の科学でもあるのが、面白い。

 判り易く言うと、男根(男性の性器)と女陰(女性の性器)が、合体したものである。

神々の性行為を象徴的に、しかも立体的に形にしたもの。

タオイズムでは、「神秘の交合」という。

宇宙は、調和している、と言う意味だ。

判り易いといえば、これほど単純明快に、宇宙観を表したものは無い。

判り易くて、あからさまで、わいせつな感じもしない。

中国の陰陽のマークも知られているが、これほど、立体的ではない。

 それは、どんな教典や聖書にも勝る。

自己と大いなる自己との融合。

文字の読めない人でも、良くわかる。

周辺に、あるゾーンを意識させる。

それは、生命に溢れた、スピリチュアルな、ゾーンである。

それは、シュリ・ヤントラにも現れている。(ブログの『ヤントラ』を参照)

 リンガは、自己創造(スワヤンブーヴァ)の象徴として,祭られていた。

それは、どういう事かというと、自分と宇宙とを繋げる,内的な,瞑想上の中心を見つける事。

自分自身の,根本に目覚めるという事。

それは、一つに成る能力の事、ここから、在る(Being)という感覚が生じて来る。

それは、シヴァ・リンガに瞑想することで、達成されてきた。

知らない人には、単に、石の、『でくの棒』かもしれないが、知るものに取っては、宇宙を開く扉と成る。

二つの要素を持ったものが調和する。

それは、ひとつの意識となる、究極の融合を意味している。

嘗て無かった程,内なるものの存在がはっきりしてくる。 

 我々は、宇宙という途轍もなく大きなものの、一部分として育ってきた。

そこから、人へと成長を遂げたもの,それが私達である。

人間だけが、優れている訳ではないが,人間だけが,エゴを超えた、自分の中心に目覚める事が出来る。

 昔,ネパールのスワヤンブーという所に,タントラの勉強で数年暮らした事があるのだが、そこは、地名が示す通り、天然、自然のシヴァ・リンガが、大地から生えてきた所。

ヒンドウー、仏教の聖地と成っている。

 シヴァ・リンガの他に、ブッダ・リンガというのも,ヴァリエーションとしてある。

これは、ネパールやチベットの発明だ。

やがて,黄金分割の曲線をもった、仏塔(ストウーパ)として、アジア中にその姿を見せる事に成る。

形の中の形、美しい形をしている。

 チベットの仏具に、ドージェ(ヴァジラ、金剛、或は、独鈷)というものがあるが,

それは、シヴァ・リンガを発展させ、陰陽の性質と力を持つものとして形づくったもの。

源は、シヴァ・リンガから始まっている。

 勃起した神の男根は、射精を意味するのではなく、その維持を意味するものであった。

つまり、精子を体外に放出しないということであった。

そこから、エネルギーのコントロールという技法(タントラ)が発展してきた。

産児制限の意味もあったのだろう。

射精はまた、エネルギーの消失も意味していた。

 昔は,今と違い,便利なものはなかった。

其れ故に,様々な,英知や技法が開発されたと見るべきであろう。

(恵まれ過ぎると、人は、無能になってしまうんだろうか?)

そこに,瞑想術の発展もあったのだ。

 物質文明の進化とともに,人の意識、知恵の部分には,自ずと、退化が起こる。

だが,人知れずして,知恵を育んできたもの,それが瞑想だ。

今では,多くの人がこの事を知り、不安は解消しつつ在る、というのが,おおくの瞑想家の意見である。

「接して、漏らさず。」

日本にも伝わっている,タントラ的な言葉である。

男根と女陰の極性といえば、欲望、煩悩、そして解脱という事に成る。

そして、輪廻からの解脱。これは仏教と共通の要素と成る。

仏教にも、理趣教という、性を礼賛した、タントラ的なものもある。

インドにおいては、欲望も解脱も、ともに否定するものではない。

永い目で見れば、どちらも良い。

その人次第だ。

 セックスというエネルギー、自然のエネルギーが、変容されると、妙薬にもなる。

変容の中に入ると、コントロールはいらなくなる。

気づきが深まってくる。

そして、新たな次元の扉が開くのだ。

 ブッダとシヴァ、どちらも、完璧に目覚めた人(ブッダ)なのだが、ブッダ(ゴーダマ・ブッダ)の場合、「放棄」という事が起こった。そこから,様々な知恵が生じてきた。

苦と輪廻転生の原因を見いだせば、行為(カルマ)は変えられないものではないという事を発見した。

そして、シヴァの場合、あらゆるものの「受け入れ」が起こった。そこから,様々な知恵や技法が生まれてきた。

どのようなエネルギーも、欲望も、煩悩も、知恵に変容出来るからだ。

両方とも、正しいと思う。

同じ覚醒でも、表現方法が違うのだ。

 男根、女陰、光りと闇、ともに双極的な、二つの力の象徴である。

マインドを通してみれば、光りと闇とは、言語上、二つのものだが、

瞑想を通してみれば、其れは一つなのだ。

一本の棒には、二つの端があるではないか。地球にも、二極がある。

男女それぞれに、男性原理も女性原理も潜在しているのだ。

 瞑想する事が出来れば、一方は、もう一方の中に吸収されてしまう。

シヴァとシャクティー、不可分の一体性、日本的に言えば,不二。

総ての生き物は、否応無しに、この力の影響下にある。

それゆえ、性行為も、瞑想としてしまったのが、タントラである。

 皮膚、血、肉、脂肪、そして骨、これらはシャクティー(女性原理)の贈り物。

そして、骨髄、精子、生命、スピリット、そして自己、これらは、シヴァ(男性原理)からの贈り物。と、いわれる。

有り難い事に、私達には両方とも、恵まれている。

 タントラがユニークなのは、このエネルギーのコントロール、そして、変容という事につきる。

いかに,エネルギーを使うか。

そして、使わないか?

する事、そして在るという事。

この二面が人生を支えている。

 タントラとは、インナー・サイエンス。

エネルギーそのものは、よくも悪くもない,ニュートラルだ。

形を持てば、欲望となる。

セックスであれ,呼吸であれ、クンダリーニであれ、如何に、効果的にエネルギーを制御するか、そこに,タントラの意味がある。

 取り分け、セックスの最中には、容易に瞑想が可能と成る。

ねじ曲げられていず、自然のものだったら、それは、可能と成る。

ただ多くの場合、社会的に、或いは、宗教や道徳、何らかの、都合によって、セックスはねじ曲げられてきた事に注意しよう。

潜在的に、観念づけられているからだ。

もっとも、子供のうち、他の要素が成長しないうちに、性に目覚めさせる事には、問題が生じてくる。

バランスの良い成長が、阻害されるからだ。

 タントラに取っては、煩悩、欲望でも,英知や、知恵に変換する事も出来るのだ。

だから,タントラには、否定するものが何も無い。

もし、セックスが扉と成ったら、性エネルギーの秘密が判る。そして、いずれは、性的ではなくなってくる。

愛という芳香が残るのだ。

そこに、新たな生のエッセンスがある。

 其れ故に、タントラは、最も深い。

そして、対立するものが何も無い。

 一般的には、観念づけられた様々な固定観念が、人々を条件づけているが、

其れを解除する事に依って,初めて人の成長が始まるのだという。

無意識的な観念に、敢えて光を当てる事がタントラの役目。

条件づけや分別を超え、自由に対処する状態、そこから全ては始まる。

勿論、ブッダのように解脱できれば、いう事は無い。

 源を辿れば,全てがシヴァ・リンガに至る。

写真の黄金のシヴァ・リンガは、バンコックにある、ワット・ポー(涅槃仏の寺)の庭園の中央にあるもの。

仏教においても、根本的に,無くては成らないものとなっている。

宗教の根本、生きる為の根本だからだ。

 黄金のシヴァ・リンガ。

それが、女神の女陰に建立し、九重のナーガ(蛇の神、滋養と無限の象徴)が、リンガに巻き付いている

 ヒンドウーの人、タントラの人は当然だが、仏教の人も、結婚するときには,リンガを礼拝する。

今では,シヴァ・リンガを否定する人はいない。

ヒンドウー、仏教を問わず、タントラは根源を伝えてきた。

大きい意味では,仏教はヒンドウー教と密接というよりも、深みにおいて、一つと成っている。

 リンガをみると、恋がしたくなったり、結婚願望も生じて来るそうだ。

子供が欲しくなる人もいる。

少なくとも,生きる,意欲がましてくる。

「シヴァ・リンガ フォー ライフ。」

生ある所,シヴァ・リンガ あり。

そんな、石器時代からの、言い伝えがいまだに残っている。

又、こんな言葉をきいたことがある。

「生在る所に、神はあり、生無き所に,神はなし。」と。

 リンガを、知らない人には,最初のうち、それは性的なものには見えないかもしれないが、言われて、初めてなるほどと思うかもしれない。

だが、男にとっても,女にとっても,性ほど根本的なものは無い。

性、無くして解脱も無い。

ブッダのように、解脱したひとでも、性のエネルギーを昇華させ使っていた、効果的に使っていた、という事なのだ。

 それは、今でも、多くの人が使うタントラなのだ。

性を否定したら,そのときから生は意味を無くしてしまう。

男女の意味も無くなってしまう、