2006年10月25日水曜日

ストーン・メディスン 4


 以前、ネイティウ・アメリカンの人々に、言われた事がある。

「タバコが身体に悪いのは,その人の生き方が、間違っているからだ。」、と。

煙草は、自然とともに生きるものに取っては、吸いすぎなければ、力となるという。

一方、不自然な人に取っては、有害にも成りうるのかもしれない。

 ネイティウ・アメリカンにとっては、パイプは宇宙を表すという。

パイプは、彼らの世界の象徴と成っている。

命の次に大切なもの。

パイプを通して,全てが一つに成るからだ。

 それは、タバコをつめるボウルの部分、パイプストーンは石、鉱物で出来ている。

口でくわえるマウスピ—スも石か、琥珀(アンバー)が使われる。

アンバーは植物の樹液が化石になったもの。鉱物ではないが、植物のストーンだ。

そしてパイプ,柄の部分は木で出来ているから,植物だ。

勿論,つめるタバコは、聖なる植物だ。

パイプに飾られる、毛皮や、羽飾りは、動物の世界からやってきている。

パイプを使う人は、人間だから,人の世界を表している。

煙草を吸う事、パイプを吸う事は、四つの世界、全てが一つに成る事。

 ミタクエオヤシン、全ての、私に繋がるもの達へ・・・・・・。

儀式を始める際の、マントラだ。

タバコをパイプにつめる時,四つの世界、先祖の霊、グレート・スピリッツ、空と大地に感謝の祈りを捧げる。

煙には、浄めの力があり、ネガティヴなエネルギーを遠ざける、という信仰がある。

火や煙には、聖なる力がある。

この信仰は、今でも生きていて、世界中に見る事が出来る。

浄めには、煙草の他に、セージ、スイートグラス,菖蒲等が使われる。

 燻製という食べ物にも、煙が使われる。

煙は,聖なる物質。

彼らは、肉や、鮭,鱒を燻製にして保存食にした。

煙は物質界と精霊界を自由に行き来できる特別な物質、エーテルのような物として,祈りを運ぶ媒体に成るという。

子供の頃、落ち葉を掃き集めて、よく焚き火をしたが、似たような効果があると思う。

最近でも、懐かしくなって、ヒマラヤとか、海岸等で、キャンプ・ファイアをしたことがある。

ヒマラヤ辺りの山小屋には、竃(かまど)があって居心地がよい。そこが、家の中心となる。

焚き火は、今でも楽しみの一つなのだが、最近では、中々そのような場所がないのが、難点。

原初的な、一つの祈りの形ともいわれる。

今も,インドに生きているゾロアスター教などは、その一例だ。

 祈りは,人間の為ばかりではなく,動物、植物、鉱物、全ての生きている物の為にも祈るという。

その儀式に参加したもの達は、心に感じた事,思う事を,皆と分かち合うようにする。

タバコの儀式が終わると,皆、晴れ晴れとした様子になって来る。

 タントラにも、吸う事の瞑想がある。

インドでは、喫煙に際し、チロムというパイプを使うのが,正式だ。

素焼きのもの、石を削ったもの,大理石、骨を削ったもの、象牙、木でできたもの、チーク、紫檀や黒檀と色々とある。

やはり、ネイティヴ・アメリカンの煙草や、日本の茶道のように作法があって、今でも続いている。

「草道」とでも言ったら良いだろうか。

主に、瞑想への導入を効果的にしたり、瞑想を深める為に使われる。

 もっとも、紀元前からの話だから、タバコではなく,何か他の物を吸っていたに違いない。

タバコが世界に広まったのは、つい200年程の、ごく最近の話だ。

コロンブス以降という事だからだ。

 昔はソーマというものがあったらしいが、今では、タントラの伝統では、タバコとガンジャ(大麻)、ハシシ(チャラス、大麻樹脂)等を、良く揉んで混ぜてチロムで吸う。

瞑想への導入や,神々への祈りの儀式となる。

 そして、知覚の扉が開き始め、情報は、何時もと違う経路、経絡によって,意識に「直」に至り、物事が、「本来の姿」で見え始める。

『新たな通路を開く』と、いう事なのだ。

普段なら,無視してしまうような,複雑で微妙な、聴覚、視覚、感覚,知覚が目覚めだす。

禅で言う所の、「本来の面目」である。初めて、視力、聴力、感触が新鮮味を帯びて来る。

あらゆる、幻想やまやかしが消えていく。

真実を目の当たりにする事が出来る

「意識に目覚める」(仏性)という事を知る。

ここの所が、大切だ。

 柔らかく、そっと、内なる静かなスペースに触れる。

いつしか、そのスペースは、空のように大きく広がって来る。

一切皆空。

全ての,根本的な疑問,不安、そしてその原因となるものが消える。

それは意識の広がり、幻想ではなく、意識そのものが、広がるのだ。

 ヒマラヤとか、海岸、自然の中や,寺院で、一人でユックリ瞑想しながら吸うのも良いが、車座になって、チロムを回すのが、アジア風。

飛び入りも歓迎なのが普通。

次元は,深くなく、異なるが,悪くはない。

心が一つになる。共有意識に目覚めるのだ。

 特に、フルムーン(満月)の時には、盛んに行われる。

又、2月の、アクエリアス(水瓶座)に太陽が入るとき、「シヴァ・ラトリ」といって、ヒンドウー世界では,大変なお祭りになる。

紀元前から続いている、最古の祭りである。

ベルや太鼓が鳴り響き、未熟なものの意識をも、その現実に集中させる。

人々は,時間から、マインドから解放される。

 ここから、春が始まる。

特に,アクエリアスの神、クンブー(水瓶)の持ち主、シヴァ神の寺院や聖地、ヒマラヤ、ガンガーでは、チロムが回るのは、当然の事。

場所に依っては、20万もの人々が集まって来る。

ヴァラナシ、ヒマラヤの各地、カジュラホ、アラハバード、ハンピー、カトマンドウー、ブバネシュワール・・・・・。

 吸うという事は、人生に於ける、最初の行為だ。

最も重要な行為だ。

人は、生まれると、すぐに泣き始める。

泣く事は、吸う事の反作用、そこで息を吸う事、スピリットを身体に呼び込む事、が出来るようになるのだという。

泣かないと,息が出来ずに、数分で死んでしまう事もある、とさえ言われる。

「啼くまで待とう、ホトトギス」、という訳にも行かない。

 赤ん坊が、母の胎内にいる時には、吸う必要がなかった。

だから、最初に先ず「吸う」という事は,赤ん坊にとっては、生きるか死ぬかの、初めての、一大事業なのだ。

臍の緒、で繋がっていて,呼吸する必要がなかったのだ。

呼吸する事なしに,母親から、プラーナを、栄養を受け取っていたのだ。

 何かを吸ってみる。

吸う事そのものに成る。

日本では、椀に入った汁を、吸い物という。

汁でも、ココナッツ・ミルクでも,乳房でも、空気でも、タバコでも,好きな物を吸ってみる。

そこには、対象,つまり、タバコなり,ジュースなり、ミルクなり、乳房なりがある。

そして、吸う人、自分がある。

両者の間に,関係性、即ち、プロセスがある。

 プロセスそのものに成る。

対象、そして自分を忘れる。

タントラ(技法)として、ここの所が大切なのだ。

 例えば、コーヒーを飲む、その時,飲む事に、意識的に同化する。

無意識な同化は、混沌を増長させる。

無意識な同化が、人に於ける、最大の罪の原因だともいわれるからだ。

意識的な同化は、瞑想と成る。

 コーヒーを忘れ,自分を忘れる。渇きを忘れる。言語を忘れる。

コーヒーの感触、味わい、そのものに成ってしまう。

これは、食事にも,応用出来る。センスを学ぶにも応用出来る。

新たな,旨味を発見出来る。

『吟味』と言ったら良いだろうか。

 エネルギーがある時、流れている時、恐れて、其れをブロックしてしまわなければ、横道にそれる事は無い。そこに,吟味は成り立って来る。

無意識の内に、ブロックしてしまう人も多い。

そう成ると、まともな判断が下せなくなるのだ。

生から、逃げているといわれても仕方が無い。

死ぬのも怖いんだろうが、生きるのも怖いのだろう。

勇気がないと、スピリットもやってこない。

 聞いた話だが、在る時、指揮者のレナード・バーンシュタインが、マーラーの「第六」の第二楽章が終わった所で、指揮台を降り、勝手に、舞台の袖に引っ込んでしまったという。

煙草を一服する為だったという。

さもないと、音楽そのものが、緊張して、窮屈で退屈なものになってしまうからとか・・・・・・。

 最後に、一寸、ジョークを一つ。

弟子が、師匠に訊ねる。

「瞑想中に煙草を吸うのは、かまいませんか?」

「何を馬鹿な事を言っておる、とんでもない!」

「では、煙草を吸っている最中に、瞑想するのはどうでしょうか?」

「それはいい、大いにやりなさい。」

 やがて、吸い方一つで、人は無垢なる自分を取り戻す。リラックス出来る。

煙草が好きなら、吸えば良い。

うわべを飾る事に興味が無ければ、吸えば良い。

特別な人であろうとする為に、無理に我慢する必要は無い。

それは普通の事だ。

お茶やコーヒー、絞り立ての、ココナッツ・ミルクやライム・ジュースを嗜む。

私は飲めないのだが、飲める人ならアルコールを嗜む。

トウー・マッチでなければ、良いと思う。

 何も、特別な事ではない。

もし我慢したとしたら、その欲望は何処かにかくされ、生きる事の妨げになってしまう。

当然、健康にも悪い。

又、好きでもないのに、無理に吸う事も無い。

もっと「素直になる事」の方が、何倍も「生きて」いる。

全ては、貴方次第だ。

この事は、様々な事に、応用が効く。

 吸う事、その感覚は、静かで、満ち足りて、力を与えてくれるものと成っていく。