人類、群衆、と言う言葉は、虚構にすぎない事だと気付く事がある。
それは,言語上のものにすぎない。決してリアルなものではない。
まず群衆と言う言葉を自分の中から無くしてみる。
群衆とは,多数の思考、多数の精神のことでもある。烏合の衆のことだ。
眺めていれば,よく判る。ほっておくと、始終らんちき騒ぎを繰り返している。
それは自分をリアルなもの,リアルな状況から分割してしまう。
それは、視力を奪ってしまう。
人が、精神的に窮している原因は、余りに多くの思考、ああせい、こうせい,こうすべき、ねばならないと言う事に振り回されているからだ。それを抑圧する事から、緊張は生まれて来る。
愛は寛ぎを生む。だが、緊張している人間は愛する事が出来ない。瞑想を知らない。肝腎なものを見過ごしてしまう。
それがどんな正しいとされる事であっても、結果的には、頭も心も毒されてしまうのだ。
思考の一つ、一つが,自分を分割し,引きちぎって、混乱を作り出す。
何かを決めても,何かを考えても、相反する要素が必ず頭をもたげて来る。
正しさは、時には、誤りともなるのだ。
生は、正しくもなく、誤りでも、悪いものではない。
生に善し悪しは無い。
幻は人を欺く。様々な形や色が周囲を囲む。時には、あらゆるものをごっちゃにしてしまう。
幻の原因は、その人自身に在る。
多数の精神を,一つにすればいいのだ。その為には、いいとか悪いとかの選り好みをしなければ良いのだ。
さすれば、生という見えない流れは流れ始める。意識が目覚め始めるのだ。
人、それぞれが個人として生きている事にも気付く。モヒカン刈り、弁髪、入れ墨,臍だし、ルンギー(巻きスカート)、超ミニスカート、短パン、Tシャツ、老人、若者、男と女、どんな形をとっていようが、一人一人と会ってみると、人は一人の個人である事が面白い。
見た目と実質とには、大きなギャップが在る。
それに気付くだけでも、面白い。
年取った若者もいれば、若々しい年配者もいる。
群衆と言う言葉は,何か粗雑な全体主義的な言葉だ。時には、人権無視も甚だしい。人を物質に、死体に変えてしまう。
群衆等何処にもいない。人類等何処にもいない。
全ては,明らかで、何も隠されていない。
隠しているものが在るとすれば、それはきっと自分だ。
選り好みをしなければ、生は流れる。内なる視力も冴えて来る。
それは、機能する。色も形もリアルに見える。それは幻想ではない。
此処は、何の支えも無く、永遠で、静かな空間だ。
此処に入る。真理に善し悪しは無い。
それは、只、在るだけだ。
暫く此処(此の次元)に寛いではどうだろうか?
タントラ曰く、
“真理の中では、それぞれの形は分離していない。
偏在する存在とあなた自身の姿は分離していない。
各々のものは、此の意識に依って出来ている。
それを、認識する。“
ゆったりとした時の流れ、人も川も森や海も緩やかに生きている。
生という大河にどっぷりと浸る。
何か特別のものや事が無い訳ではない。
だが,根源的には、それ以上に素晴らしい次元が在る。
強いて言えば、そこには何事もない。
無事と言う次元が在る。
“事無きを持って、良しとすべしだ。”
そこに、イエローネイション、タイの魅力が在る。
そこに、“Unseen、見えないタイ”の魅力がある。何処でもない国の魅力が在る。
どんな人も、普通に生きて、しかも楽しんでいる。それは、魔法の様だ。
高温多湿の暑い国。確かにその通りだ。暑い時には、40度近くなる。超す事も在る。
だが,一歩木陰に入り、そよ風がすーっと通り過ぎれば、暑さなんかは何処かへ行ってしまう。
水に波があらわれ、火に炎が現れ、空気に風が現れる様に、普遍という宇宙は、私という宇宙を通じて波立って来る。
それは、何時しか再びタイの宇宙と大地に吸収され、そして次第に,タイの魔力に取り込まれてしまう。
それはフィットネス、馴染んでくるのだ。 人は、納得して初めて理解する。
それは、言葉や、理屈や、論理とは無縁の世界。頭では理解不可能だ。
それは究極の理解、究極のセンス。あらゆる探求や努力が落ちたとき、初めて訪れる。
最も大切で肝腎な物事は、目には見えない。
それは、探して見つかるようなものではない。
容易の出来た人にだけ、向こうの方から、訪れて来る。
タオ(道)の方から、あなたを歩いて行く。
本物が見えないのは、人が、いいとか、悪いとか、意見、偏見を持つからだ。
只、素直に見ればいい。心が澄んでいればいい。無心であればいい。
どんな考えもなしに、判断も、批判もなしに、只、見ればいい。
五感の全てで見ればいい。只、在ればいい。
心の本性は,心を超えたところに在る。
実は、こんな簡単な事は無い。
そして気付けば、いい波動に包まれている。
物事の深い意味が分からないうちは、心はいたずらに乱される。そこに終わりはない。
だが、理解すれば、そこに平安は、“自ずと”生じて来る。
足りないものも、余計なものも無い。
サイレント・ジョイ、平安とはそのような状況だ。そこに力が湧いて来る。
理由なく、喜びが湧いて来る。心の底すらも開き,澄んで,知覚はより鮮明になって来る。
こんな素晴らしい事は無い。
そこには何の問題も無い。何の葛藤も無い。全ては明らかだ。何も隠されてはいない。
全世界が,明るい光りに包まれる。
“新羅泰国”の意味は其所にある。
人は、只、生きて、楽しむだけなのだ。それは、生きる喜び。その事を基盤にしている。
タイの人々は,その事を、法則(ダルマ、タオ)を良く知っている。その為に働く。
その意味では,此の国はディープな生活文化大国だ。
それが,タイの文化の、直接、目には見えにくいが、最高のエッセンスなのだ。
力は無から生じ、心は無心より生ず。
お茶にしようか。