以前、ネイティウ・アメリカンの人々に、言われた事がある。
「タバコが身体に悪いのは,その人の生き方が、間違っているからだ。」、と。
煙草は、自然とともに生きるものに取っては、吸いすぎなければ、力となるという。
一方、不自然な人に取っては、有害にも成りうるのかもしれない。
ネイティウ・アメリカンにとっては、パイプは宇宙を表すという。
パイプは、彼らの世界の象徴と成っている。
命の次に大切なもの。
パイプを通して,全てが一つに成るからだ。
それは、タバコをつめるボウルの部分、パイプストーンは石、鉱物で出来ている。
口でくわえるマウスピ—スも石か、琥珀(アンバー)が使われる。
アンバーは植物の樹液が化石になったもの。鉱物ではないが、植物のストーンだ。
そしてパイプ,柄の部分は木で出来ているから,植物だ。
勿論,つめるタバコは、聖なる植物だ。
パイプに飾られる、毛皮や、羽飾りは、動物の世界からやってきている。
パイプを使う人は、人間だから,人の世界を表している。
煙草を吸う事、パイプを吸う事は、四つの世界、全てが一つに成る事。
ミタクエオヤシン、全ての、私に繋がるもの達へ・・・・・・。
儀式を始める際の、マントラだ。
タバコをパイプにつめる時,四つの世界、先祖の霊、グレート・スピリッツ、空と大地に感謝の祈りを捧げる。
煙には、浄めの力があり、ネガティヴなエネルギーを遠ざける、という信仰がある。
火や煙には、聖なる力がある。
この信仰は、今でも生きていて、世界中に見る事が出来る。
浄めには、煙草の他に、セージ、スイートグラス,菖蒲等が使われる。
燻製という食べ物にも、煙が使われる。
煙は,聖なる物質。
彼らは、肉や、鮭,鱒を燻製にして保存食にした。
煙は物質界と精霊界を自由に行き来できる特別な物質、エーテルのような物として,祈りを運ぶ媒体に成るという。
子供の頃、落ち葉を掃き集めて、よく焚き火をしたが、似たような効果があると思う。
最近でも、懐かしくなって、ヒマラヤとか、海岸等で、キャンプ・ファイアをしたことがある。
ヒマラヤ辺りの山小屋には、竃(かまど)があって居心地がよい。そこが、家の中心となる。
焚き火は、今でも楽しみの一つなのだが、最近では、中々そのような場所がないのが、難点。
原初的な、一つの祈りの形ともいわれる。
今も,インドに生きているゾロアスター教などは、その一例だ。
祈りは,人間の為ばかりではなく,動物、植物、鉱物、全ての生きている物の為にも祈るという。
その儀式に参加したもの達は、心に感じた事,思う事を,皆と分かち合うようにする。
タバコの儀式が終わると,皆、晴れ晴れとした様子になって来る。
タントラにも、吸う事の瞑想がある。
インドでは、喫煙に際し、チロムというパイプを使うのが,正式だ。
素焼きのもの、石を削ったもの,大理石、骨を削ったもの、象牙、木でできたもの、チーク、紫檀や黒檀と色々とある。
やはり、ネイティヴ・アメリカンの煙草や、日本の茶道のように作法があって、今でも続いている。
「草道」とでも言ったら良いだろうか。
主に、瞑想への導入を効果的にしたり、瞑想を深める為に使われる。
もっとも、紀元前からの話だから、タバコではなく,何か他の物を吸っていたに違いない。
タバコが世界に広まったのは、つい200年程の、ごく最近の話だ。
コロンブス以降という事だからだ。
昔はソーマというものがあったらしいが、今では、タントラの伝統では、タバコとガンジャ(大麻)、ハシシ(チャラス、大麻樹脂)等を、良く揉んで混ぜてチロムで吸う。
瞑想への導入や,神々への祈りの儀式となる。
そして、知覚の扉が開き始め、情報は、何時もと違う経路、経絡によって,意識に「直」に至り、物事が、「本来の姿」で見え始める。
『新たな通路を開く』と、いう事なのだ。
普段なら,無視してしまうような,複雑で微妙な、聴覚、視覚、感覚,知覚が目覚めだす。
禅で言う所の、「本来の面目」である。初めて、視力、聴力、感触が新鮮味を帯びて来る。
あらゆる、幻想やまやかしが消えていく。
真実を目の当たりにする事が出来る
「意識に目覚める」(仏性)という事を知る。
ここの所が、大切だ。
柔らかく、そっと、内なる静かなスペースに触れる。
いつしか、そのスペースは、空のように大きく広がって来る。
一切皆空。
全ての,根本的な疑問,不安、そしてその原因となるものが消える。
それは意識の広がり、幻想ではなく、意識そのものが、広がるのだ。
ヒマラヤとか、海岸、自然の中や,寺院で、一人でユックリ瞑想しながら吸うのも良いが、車座になって、チロムを回すのが、アジア風。
飛び入りも歓迎なのが普通。
次元は,深くなく、異なるが,悪くはない。
心が一つになる。共有意識に目覚めるのだ。
特に、フルムーン(満月)の時には、盛んに行われる。
又、2月の、アクエリアス(水瓶座)に太陽が入るとき、「シヴァ・ラトリ」といって、ヒンドウー世界では,大変なお祭りになる。
紀元前から続いている、最古の祭りである。
ベルや太鼓が鳴り響き、未熟なものの意識をも、その現実に集中させる。
人々は,時間から、マインドから解放される。
ここから、春が始まる。
特に,アクエリアスの神、クンブー(水瓶)の持ち主、シヴァ神の寺院や聖地、ヒマラヤ、ガンガーでは、チロムが回るのは、当然の事。
場所に依っては、20万もの人々が集まって来る。
ヴァラナシ、ヒマラヤの各地、カジュラホ、アラハバード、ハンピー、カトマンドウー、ブバネシュワール・・・・・。
吸うという事は、人生に於ける、最初の行為だ。
最も重要な行為だ。
人は、生まれると、すぐに泣き始める。
泣く事は、吸う事の反作用、そこで息を吸う事、スピリットを身体に呼び込む事、が出来るようになるのだという。
泣かないと,息が出来ずに、数分で死んでしまう事もある、とさえ言われる。
「啼くまで待とう、ホトトギス」、という訳にも行かない。
赤ん坊が、母の胎内にいる時には、吸う必要がなかった。
だから、最初に先ず「吸う」という事は,赤ん坊にとっては、生きるか死ぬかの、初めての、一大事業なのだ。
臍の緒、で繋がっていて,呼吸する必要がなかったのだ。
呼吸する事なしに,母親から、プラーナを、栄養を受け取っていたのだ。
何かを吸ってみる。
吸う事そのものに成る。
日本では、椀に入った汁を、吸い物という。
汁でも、ココナッツ・ミルクでも,乳房でも、空気でも、タバコでも,好きな物を吸ってみる。
そこには、対象,つまり、タバコなり,ジュースなり、ミルクなり、乳房なりがある。
そして、吸う人、自分がある。
両者の間に,関係性、即ち、プロセスがある。
プロセスそのものに成る。
対象、そして自分を忘れる。
タントラ(技法)として、ここの所が大切なのだ。
例えば、コーヒーを飲む、その時,飲む事に、意識的に同化する。
無意識な同化は、混沌を増長させる。
無意識な同化が、人に於ける、最大の罪の原因だともいわれるからだ。
意識的な同化は、瞑想と成る。
コーヒーを忘れ,自分を忘れる。渇きを忘れる。言語を忘れる。
コーヒーの感触、味わい、そのものに成ってしまう。
これは、食事にも,応用出来る。センスを学ぶにも応用出来る。
新たな,旨味を発見出来る。
『吟味』と言ったら良いだろうか。
エネルギーがある時、流れている時、恐れて、其れをブロックしてしまわなければ、横道にそれる事は無い。そこに,吟味は成り立って来る。
無意識の内に、ブロックしてしまう人も多い。
そう成ると、まともな判断が下せなくなるのだ。
生から、逃げているといわれても仕方が無い。
死ぬのも怖いんだろうが、生きるのも怖いのだろう。
勇気がないと、スピリットもやってこない。
聞いた話だが、在る時、指揮者のレナード・バーンシュタインが、マーラーの「第六」の第二楽章が終わった所で、指揮台を降り、勝手に、舞台の袖に引っ込んでしまったという。
煙草を一服する為だったという。
さもないと、音楽そのものが、緊張して、窮屈で退屈なものになってしまうからとか・・・・・・。
最後に、一寸、ジョークを一つ。
弟子が、師匠に訊ねる。
「瞑想中に煙草を吸うのは、かまいませんか?」
「何を馬鹿な事を言っておる、とんでもない!」
「では、煙草を吸っている最中に、瞑想するのはどうでしょうか?」
「それはいい、大いにやりなさい。」
やがて、吸い方一つで、人は無垢なる自分を取り戻す。リラックス出来る。
煙草が好きなら、吸えば良い。
うわべを飾る事に興味が無ければ、吸えば良い。
特別な人であろうとする為に、無理に我慢する必要は無い。
それは普通の事だ。
お茶やコーヒー、絞り立ての、ココナッツ・ミルクやライム・ジュースを嗜む。
私は飲めないのだが、飲める人ならアルコールを嗜む。
トウー・マッチでなければ、良いと思う。
何も、特別な事ではない。
もし我慢したとしたら、その欲望は何処かにかくされ、生きる事の妨げになってしまう。
当然、健康にも悪い。
又、好きでもないのに、無理に吸う事も無い。
もっと「素直になる事」の方が、何倍も「生きて」いる。
全ては、貴方次第だ。
この事は、様々な事に、応用が効く。
吸う事、その感覚は、静かで、満ち足りて、力を与えてくれるものと成っていく。