2006年10月13日金曜日

タオ(道)

 太陽と月とどっちが好き?

と問われて、応えられる人と、応えられない人がいる。

そのときの気分や都合で、どちらか決める事もないではない。

朝日も夕日も、満月も素晴らしい。

本当の所は、どちらも好き。光りも闇も、両方好き。

物質も精神も両方が必要。

どちらか、片方だったら、闇無くして、光りなし、この世は無いし、恐らく、人は生きてはいない。

 天気さえ良ければ、朝の日の出、赤い夕焼け、そして、夜空の満天の星。そして、名月を見る日々。

ごく日常的な、楽しみ。

しかも、ただって言うのが良い。

 太陽と月とは、昼間と夜の象徴。

昼と夜とで一日である以上、どちらがかけても成り立たない。

不可分の一体性、シヴァとシャクティー、分ける事は出来ない。

コインの裏表,棒には両端がある。地球には、二極がある。

相互依存に片方だけはあり得ない。

 タオ(道)。

人がその上を歩くかどうかに関わらず、それは存在している。

そうとは知らずに、タオに従っている。

もし、心して、タオに従えれば、それは喜ばしいことになる。

新たな意味が見いだせる。

気づかずに、無意識であれば、どうしても、物に執着が強くなる。

そして失敗は多くなる。

 タオ、それは私達を取り巻いている、生命の大海。

それは、目には見えず、形も無い。

魚に、海とは何か? と聞くようなもの。

それ自らに依って存在し、分たれていないもの。

不可分な、ひとつ。

 私達は、そこに,その無形性に生きている。

その外というのはない。

その中には、互いに矛盾する対立物が存在する。

同じものが、二つの形になって見える事もある。

 ヒマラヤとか砂漠、南海の孤島といった、自然そのものの環境に於いては、時に、暑さと寒さを同時に感じたりする事がある。

同時に、新たな次元に入り込んでいる事にも気がつく。

時間の流れ方が、違う。

そして、自我意識が消えると同時に、精神が研ぎすまされてくる。

見えなかったものが、見えてくる。

 電子は、波に見えたり、粒子に見えたりもするという。

この二つの関係を「相補性」というそうだ。

精神と肉体についても言えるかもしれない。海と氷山の関係にも似ている。

タオに、気づけば、自分が生まれ変わったような気がしてくるのだ。

 その状況で、それは、非常にクールで、しかもエキサイティングなのだが、「人は、少なくとも、現実そのものと、人が現実に対して抱く(思い込み)とのずれを、少なくする事が出来る。」ということを学ぶ、と言う事なのだ。

そこから、自然発生的に、ある種の楽観、というか、安心、至福感が生じて来る。

自我が消えると、苦しみも、思い込みも消える。そして、成長が始まる。

 自我が落ちれば、苦も軽くなる。

至福は、全くの自然な現象。

起こるべくして起こる。

生きていてよかったとか、生の真の姿は素晴らしいと思えるのだ。

 『生の目的』とは、二次的な目的を別にすれば、又、どう生きるかはその人次第だが、『生きる事』なのである。

人はネガティヴなものと争う事無く、ポジティヴなものに変換出来るようになってくることを学ぶのだ。

それを学ぶには,やはり生きるしかない。

 効果的行為は、時として、一見、尻込みのようにしか見えない事もある。

人がどう思おうが,何と言おうが、かまう事は無い。

I can’t tell you why. なのだ。

説明したら、何ヶ月もかかってしまうかもしれない。

人は人、他人には,判らないからだ。本人だって判っていないのに・・・・・。

もし判っていたら、その人は、ブッダなのだ。

人を批判するという事自体、ナンセンスなのだ。

 朝の良い目覚めのためには、夜の深い眠りが必要。

昼間の活動には、夜の休息が不可欠となる。

あるお相撲さんが、「ぐっすり寝るのも、稽古のうち」という名言をのこしている。

どんな物事にも、必ず、陰陽が働く事で、生は成り立っている。

他に道はない。

腹が減ったら食べ、疲れたら休む。

白は黒と成り、黒は白にもなる。

 1+1=2だけではない。

それは、数学上での事。物質には当てはまる。

だが、生においては、答えが3に成ったり、1や4だったりもする。

 緩急、強弱はあるものの、変化、変化、それが生の姿。

その事だけが,唯一不変。

あらゆる、錬金術においても、太陽と月、金と銀、陽と陰、智と霊、意識と無意識、その双極性の調和した事からスピリット・エナジーが生じてくる。「

タオが見えて来ると、スピリット・エナジーも見えて来る。

 象徴的に言えば、太陽はマクロに、宇宙に、最大限に反応している。

一方、月はミクロに、体という小宇宙に、最小限に反応するとも言われる。

インドなどでは、太陽は肉体に、月は精神に影響を与えるとも言う。

 目に光りがあるように、『サイレント ジョイ』、『エッセンス』のところで、前にも述べたが、耳にも『光り』がある。

タオにおいては、目は外向的、耳は内向的だ。

それらはまた、明晰さ、そして理解という事の象徴にも成っている。

それらはともに、太陽と月とが、内側で合体したものと理解されている。

 

 明晰さとは、知識の多い事や、頭が切れる事ではない。

無心で、クリアである事なのだ。

理解とは、耳の光り、腑に落ちる、納得する、という事だ。

全ての要素、エレメントは、空というステージで、風、火は陽、水、地は陰として、男と女が絡み合っているように、エナジーを構成している。

 もう一つの構成要素が、エーテルにあるスピリット・エナジー。

エーテルは光の波動を伝える媒質、有機化合物の総称とは別のもの。

物理学者や科学者は五番目としているが、エーテルは、前記の四つの要素に融合してエナジーとなる、とするのが、古代からの(ヒンドウー、タオイズム、仏教、或はタントラ)の科学思想である。

仏教では、風(フウ)と呼ぶ。宇宙エネルギーのことだ。

電磁波動(スピリット)は、原子構造に働きかける光の放射であるとされている。

 難しい話は、このくらいにして、タオに戻ろう。

双極性は大切な原理である。

タオの道はゆっくりとした成長の道だ。

人生は、振り返ってみれば、あっという間だが、前を見れば、まだまだ永い。

 

「存在」と歩調を合わせて、物事を自ずと、起こらせるようにする。

無為が基本。タイミングと間合いが大事。

物事の、自然の動きを、邪魔しないようにする。

キャパシティーの大きさが重要。

適切な時、種をまき、時々,水をやり、あとは待てば良い。

タイミングが大事である。

いずれ春はやって来る。

 物事は、一見気まぐれにも見え、決まったやり方で起こるとは限らない。

正しくあろうとすればする程、人の判断力は曇って来る。

何かをこれでもかと言った具合に強引に押し進めようとすると、その反対のことが起こりやすくなってしまう。

 あまり世間に振り回されないようにする事だ。

生はそこに在る。

むしろ、プロセスが自然に進展するのを助ける事で、見えてくる事が多い。

 有為(行為)によって、無為(非行為)に至れば、物事は理解される。