太陽と月とどっちが好き?
と問われて、応えられる人と、応えられない人がいる。
そのときの気分や都合で、どちらか決める事もないではない。
朝日も夕日も、満月も素晴らしい。
本当の所は、どちらも好き。光りも闇も、両方好き。
物質も精神も両方が必要。
どちらか、片方だったら、闇無くして、光りなし、この世は無いし、恐らく、人は生きてはいない。
天気さえ良ければ、朝の日の出、赤い夕焼け、そして、夜空の満天の星。そして、名月を見る日々。
ごく日常的な、楽しみ。
しかも、ただって言うのが良い。
太陽と月とは、昼間と夜の象徴。
昼と夜とで一日である以上、どちらがかけても成り立たない。
不可分の一体性、シヴァとシャクティー、分ける事は出来ない。
コインの裏表,棒には両端がある。地球には、二極がある。
相互依存に片方だけはあり得ない。
タオ(道)。
人がその上を歩くかどうかに関わらず、それは存在している。
そうとは知らずに、タオに従っている。
もし、心して、タオに従えれば、それは喜ばしいことになる。
新たな意味が見いだせる。
気づかずに、無意識であれば、どうしても、物に執着が強くなる。
そして失敗は多くなる。
タオ、それは私達を取り巻いている、生命の大海。
それは、目には見えず、形も無い。
魚に、海とは何か? と聞くようなもの。
それ自らに依って存在し、分たれていないもの。
不可分な、ひとつ。
私達は、そこに,その無形性に生きている。
その外というのはない。
その中には、互いに矛盾する対立物が存在する。
同じものが、二つの形になって見える事もある。
ヒマラヤとか砂漠、南海の孤島といった、自然そのものの環境に於いては、時に、暑さと寒さを同時に感じたりする事がある。
同時に、新たな次元に入り込んでいる事にも気がつく。
時間の流れ方が、違う。
そして、自我意識が消えると同時に、精神が研ぎすまされてくる。
見えなかったものが、見えてくる。
電子は、波に見えたり、粒子に見えたりもするという。
この二つの関係を「相補性」というそうだ。
精神と肉体についても言えるかもしれない。海と氷山の関係にも似ている。
タオに、気づけば、自分が生まれ変わったような気がしてくるのだ。
その状況で、それは、非常にクールで、しかもエキサイティングなのだが、「人は、少なくとも、現実そのものと、人が現実に対して抱く(思い込み)とのずれを、少なくする事が出来る。」ということを学ぶ、と言う事なのだ。
そこから、自然発生的に、ある種の楽観、というか、安心、至福感が生じて来る。
自我が消えると、苦しみも、思い込みも消える。そして、成長が始まる。
自我が落ちれば、苦も軽くなる。
至福は、全くの自然な現象。
起こるべくして起こる。
生きていてよかったとか、生の真の姿は素晴らしいと思えるのだ。
『生の目的』とは、二次的な目的を別にすれば、又、どう生きるかはその人次第だが、『生きる事』なのである。
人はネガティヴなものと争う事無く、ポジティヴなものに変換出来るようになってくることを学ぶのだ。
それを学ぶには,やはり生きるしかない。
効果的行為は、時として、一見、尻込みのようにしか見えない事もある。
人がどう思おうが,何と言おうが、かまう事は無い。
I can’t tell you why. なのだ。
説明したら、何ヶ月もかかってしまうかもしれない。
人は人、他人には,判らないからだ。本人だって判っていないのに・・・・・。
もし判っていたら、その人は、ブッダなのだ。
人を批判するという事自体、ナンセンスなのだ。
朝の良い目覚めのためには、夜の深い眠りが必要。
昼間の活動には、夜の休息が不可欠となる。
あるお相撲さんが、「ぐっすり寝るのも、稽古のうち」という名言をのこしている。
どんな物事にも、必ず、陰陽が働く事で、生は成り立っている。
他に道はない。
腹が減ったら食べ、疲れたら休む。
白は黒と成り、黒は白にもなる。
1+1=2だけではない。
それは、数学上での事。物質には当てはまる。
だが、生においては、答えが3に成ったり、1や4だったりもする。
緩急、強弱はあるものの、変化、変化、それが生の姿。
その事だけが,唯一不変。
あらゆる、錬金術においても、太陽と月、金と銀、陽と陰、智と霊、意識と無意識、その双極性の調和した事からスピリット・エナジーが生じてくる。「
タオが見えて来ると、スピリット・エナジーも見えて来る。
象徴的に言えば、太陽はマクロに、宇宙に、最大限に反応している。
一方、月はミクロに、体という小宇宙に、最小限に反応するとも言われる。
インドなどでは、太陽は肉体に、月は精神に影響を与えるとも言う。
目に光りがあるように、『サイレント ジョイ』、『エッセンス』のところで、前にも述べたが、耳にも『光り』がある。
タオにおいては、目は外向的、耳は内向的だ。
それらはまた、明晰さ、そして理解という事の象徴にも成っている。
それらはともに、太陽と月とが、内側で合体したものと理解されている。
明晰さとは、知識の多い事や、頭が切れる事ではない。
無心で、クリアである事なのだ。
理解とは、耳の光り、腑に落ちる、納得する、という事だ。
全ての要素、エレメントは、空というステージで、風、火は陽、水、地は陰として、男と女が絡み合っているように、エナジーを構成している。
もう一つの構成要素が、エーテルにあるスピリット・エナジー。
エーテルは光の波動を伝える媒質、有機化合物の総称とは別のもの。
物理学者や科学者は五番目としているが、エーテルは、前記の四つの要素に融合してエナジーとなる、とするのが、古代からの(ヒンドウー、タオイズム、仏教、或はタントラ)の科学思想である。
仏教では、風(フウ)と呼ぶ。宇宙エネルギーのことだ。
電磁波動(スピリット)は、原子構造に働きかける光の放射であるとされている。
難しい話は、このくらいにして、タオに戻ろう。
双極性は大切な原理である。
タオの道はゆっくりとした成長の道だ。
人生は、振り返ってみれば、あっという間だが、前を見れば、まだまだ永い。
「存在」と歩調を合わせて、物事を自ずと、起こらせるようにする。
無為が基本。タイミングと間合いが大事。
物事の、自然の動きを、邪魔しないようにする。
キャパシティーの大きさが重要。
適切な時、種をまき、時々,水をやり、あとは待てば良い。
タイミングが大事である。
いずれ春はやって来る。
物事は、一見気まぐれにも見え、決まったやり方で起こるとは限らない。
正しくあろうとすればする程、人の判断力は曇って来る。
何かをこれでもかと言った具合に強引に押し進めようとすると、その反対のことが起こりやすくなってしまう。
あまり世間に振り回されないようにする事だ。
生はそこに在る。
むしろ、プロセスが自然に進展するのを助ける事で、見えてくる事が多い。
有為(行為)によって、無為(非行為)に至れば、物事は理解される。