よく、空の下に新しいものは何もない、といわれる。
だが、実際には、私達の目だけが古くなっている。
そして何もかも、新鮮味を失ってしまうのだ。
見慣れてしまうと、目新しいものは、極端なもの、偏ったものだけになってしまう。
いずれ、それすらにも退屈してしまう。
それは、麻痺して、老化している証拠。
それとも文明ぼけ?
真実よりも、虚偽でもいいから、興味本位に目を奪われる。
目の前にあるものが見えなくなるのだ。
そうなると、グッド ヘヴン(世も末だ)!
観念化、物質化のフィルターが、覆ってしまうのだ。
子供のように、生き生きした目をもっていれば、それこそ、箸が落ちても、笑い出してしまう。
習慣が、人の目を、感性を古くしてしまう。
そうやって、精神の老化が始まってしまう。
何事にも、うんざりしてしまう。
マンネリ化した状態でものを見るから、刺激や驚き、新鮮さがうしなわれてしまう。もう一度、初めて見るような新鮮な目で、静かに世界を見てみよう。
すると、目そのものも、新鮮に蘇って来る。
全てが一新される。
朝日は、毎日新しい。
夕日も毎日新しい。
月は毎晩、新鮮に見える。
人は毎日死に。毎日生まれる。
そんな目で生きるのも、知恵の一つ。
世界はそのように動き出している。
それが、新たなる豊かさなのだ。
知覚、感覚、頭の機能が退化しているかよりも、周りの環境を新鮮な目で見ていられるかどうか?
人は誰でも、物事を見る時、無意識の内に自分のスタンスをきめる。
それは、自分が混乱しないようにする為だ。
それで、どうしても、主観的で固定的な性質がでてきてしまう。
そこで、そういう自分の画一的な見方に、挑戦することも大事だ。
結果的に、良い刺激になるからだ。
この地球という惑星のうえで、様々なエネルギーの複合体として人も生き物も生きている。天候も宇宙の状況も環境も、刻々と、或は、悠々と変化する。
この世とは、変化の事だ。
一つとして、何もかも同じ状況は、まずあり得ない。
そういう意味では,一瞬一瞬が貴重な時なのだ。
様々な思考、言語、感情、様々な行為、そこからも波動がどんどん作られている。
結果的に、人のマインドは情報、表面的な様子、アイディア、知識、記憶、信念のようなものにプログラムされている。
マインドとは、「条件づけ」の事だ。玉葱のように向いていけば,実体はない。
多くの人は、毎日,同じ想念を繰り返している。
それは,実に古ぼけている。
使い古しの骨董品のようだ。
習慣が,人を条件づける。
それは、人を,現在から遠ざける。
過去か未来へしか行けなくなってしまう。
意図的というのではなく、知らず知らずのうちにである。
従って、通常、見るものの中心にあるのは、知識や情報、観念であって、生きているものではない事に成る。
そのようなフィルターを通して見てしまう。
だから、こういう風にも言える。
『私たちは、物事の有り様を見ているのではなく、私達の有り様を通して物事をみている。』という事になる。
結局,堂々巡りに成ってしまう。
この世は,形あるものと、形の無いものとが、うまく絡み合って成り立っている。
形あるものだけ見ているとしたら、その人は何も見ていない。
形なきもの,ものでない事、無、を知らないという事だ。
余りに対象だけに同化しすぎているのではないだろうか。
観念的過ぎないだろうか?
ストレスや疲労、無理はそこから生じて来る。
それは、やはり不自然だ。
それは、自然ではない。
リスポンシビリティー、責任。
だが本来の意味は、リスポンス、感応という意味が語源。
それが、生きる為の基軸となる。
感応するためには、自然であるしかない。
自然になって、人は初めてリスポンスする事、感応する事が出来る。
感応とは、機械的ではなく、その瞬間に起こる、生の体験の事だ。
知識、習慣、観念は脇に避けられている。
それは、心が生きる事。
場合に依っては、言葉が不要になる事もある。
それは、フィーリングであって、思考ではないからだ。
そこから、元気が生じて来る。
自然でない人は、感応しない。
機械的な反応はあるかもしれない。
反応は心からではなく、頭からやって来る。
或は、習慣からやって来る。
白隠禅師の師に正受という禅師がいた。
素晴らしい言葉が残っている。
曰く。
「今日、一日暮らす事の努めを、励み、努べし。
如何程の苦しみも、一日と思えば、耐え易し。
楽しみもまた、一日と思えば、ふける事もあるまじき。
一日、一日と努めれば、100年、1000年も努め易し。
『一大事』という事は、特別の事ではなく、『今日、ただ今の心』なり。
翌日、ある事なし。」と。
一日、一日を切に生きる。『一日暮らし』と言う。
その日暮らし、というのではない。
意味が全く違う。
昨日も明日も無く、今日一日に集中する、という事である。
この言葉で、とても気が楽になる。
これなら、誰でも出来る。
何にでも、応用が利く。
アジアを歩いていると、やはり自分の家に帰ってきたなあという,安心感が心を占領する。
大地が、何時も明るい光りに満ちた世界に見えるからだ。
例え天気が悪くとも,人々は明るい。
この事だけでも,豊かな気持ちになれる。
自分も生き返る。
自ずと、見方も新鮮になる。
生き生きとしていても、めまぐるしさはない。
自然なのが良い。無理がない。
とても、ストーンな気分。
ストーン、それは、静かに寛いで、心が開き,澄んで、知覚力が冴えている事。
リアルである事に他ならない。
元々は,賢者の石という事から生じた,くつろぎの状態を指す言葉。
頭の上に。何時も青空がある感じだ。
静かなうちに、全身に、力が漲って(みなぎって)来る。
何の理由もなく、喜びが溢れて来る。
それは、何か原因があっての喜びではない。
自然に湧いてくるのだ。
せせらぎや、滝の水の落ちる様、海岸で潮の満ち干を見ていても、飽きる事は無い。
同じ事の繰り返しを見ていても飽きないのだ。これは不思議だ。
それは、きっと、自分が新鮮になっているからなのだ。
汽車にのっても、お茶やコーヒー、弁当売りが、浪花節のような渋いのどを響かせながら、風のように動いて行く。
最近では、日本では聞かれなくなってしまった。
古いと言えば、確かに古いかもしれない。
だがどんな物事もいずれは古くなる。
古くならないものはない。
よって、常に新しきものはない。
だが、いつも新鮮な目でみるように、感じられるように心がけている。
それは、自分を新しくする事。
すると、何事も新鮮に見えて来る。
どんな古いものも,新鮮に見えて来る。
普通と言う魔法が見えて来る。
柳の下に,いつも泥鰌(どじょう)入るかは,判らないが、往々にして,浄土はあるかもしれない。
柳下浄土。
世界を変えるのではない。
自分を変えるのだ。
すると,結果的に,世界は新しくなる。
それが、禅やタントラからの提案だ。
宇宙に調和がとれていて、人々はそれに無心にチューニングしている。
人々は、自分を新鮮にしてくれる、スピリットやこつを知っている。
そうすると、イスラム世界であろうが,ヒンドウーであろうが,仏教であろうが、人々は、流れるようにいきていく。
といって、流されている訳ではない。
ゆとりがある。遊びがある。それが普通。
皆、生きているなーと感じて、嬉しくなってしまう。
あるイスラエル人が、タイに来て、初めて生きるという事を知ったと言う。
彼に依れば、今までの生は、本物ではなかった、かりそめの生だったと言う。
只,生かされている,不自然な生だったと言う。
本気になったのだ。
そして、手始めに、彼は僧侶に成った。
勿論、勉強する為だ。
うまい飯,ぶっかけ飯の旨さは、屋台にある。
あの、パンチの効いた辛さと旨味が、目覚めさせてくれる。
天秤棒を担いでソムタム(サラダ)や、カノムチーン(カレー味のビーフンのラーメン、ミントやバジル、野菜がいっぱい)、ちまき、みつ豆を売る、兄ちゃん、
ねーちゃん、おばさんやおじさん、爺ちゃんや婆ちゃんが今日も楽しそうに頑張っている。
きっと、キャパシティーが大きいんだろうね。
そんな人たちからも、力をもらっている。
目には見えない何か素晴らしいものを、皆が共有している。
そこから、寛容さが生まれ、個人主義が自然に発生して来る。
それは、エゴイズムではない。
ここの所が、素晴らしい。
運河に船を浮かべて、今日もいつものおばさんが,ゆっくりと舟を漕ぎながら,元気な声でバナナを売っている。
新しい一日。
何千年と変わらない営み。其れが普通。
あと何千年続くのだろうか?
悠久という安心感、その厚みというか、信頼が心地よい。
ここは、生き物が、人が生きていく所。
理屈や理論を超えて、波動で生きている。
気で生きている。それが普通。
「見る」と言う事が出来れば、空の下、古い事はなにもない。
楽園とは、きっと特定の場所、と言うよりは、見方、感じ方,在り方次第ではなかろうか?
生きるのを怖がっていたら、何も始まらない。
そう、あなた次第だ。