若い女性が、川のほとりに寛いで、一弦のヴィーナを奏でている。
ガゼルのカップルが、その調べに魅了され、聞惚れている。
若い女性の美しさと若さ、そしてその豊饒さは、上からしな垂れかかる、花の房に象徴され、愛を予感させる。 まるで、サラスワティー(弁財天)のようだ。
ガゼルが、水を飲みにやってくる。
ガゼルは、インドでは、恋人同士を象徴している。
高揚して、静かな感嘆の内に、女性に注目している。
背景には、家路へと急ぐのだろうか、一羽の鳥。
そして、日はすでに沈み、夕闇が、少しずつ、ヴェールを閉ざそうとしている。
時は、サンディア、日が昇る前、日が沈んだ後の、光源なき光を表している。
ガゼルの渇きは、現代の人間、私達の渇きを、象徴している。
その渇きとは、愛への憧れ。
「一如」(ひとつである事)への憧れだ。
それは、深みから湧き上がってくる衝動なのだ。
「愛が執着となるのは、そこに愛が無いからだ。」
これは、近年のある覚者(ブッダ)の言葉だ。
愛に関して、私達は、大きな誤解をしていたのかもしれない。
愛は、心の状態であって、行為でも、思い込みでもない。
それは、非常に微細な、波動の交流の事。
慈しみ、心の滋養なのだ。
その中で、無言のコミュニケーションが起こってくる。
愛は、高次元の魂の呼吸と考えると良いかもしれない。
そこに、一如の感覚が生じ、二元性が溶解する。
もし、愛が、即、行為であったなら、長続きはしない。
こういとは、選択であり、思い込みも選択だ。
だが、愛は部分ではない。
愛を基盤とした行為、それは好意だ。それは判る。
だが、愛そのものは、好意ではない。
もし、愛が行うものであったとしたら、常に葛藤を繰り返す。
世間でやっている事は、それだ。
例えば、呼吸が、努力だったとしたら、すぐにへばってしまう。
すぐに、憎しみや、無関係な不満まで表れて来てしまう。
それは、無為を通して、自然に起こってくる。
執着が消え、自分が何なのか、判ってくると、何かが溢れ出して来る。
それは、エネルギー現象だ。
愛は、甘露(アムリタ)とほぼ同義語。
もし、心に庭園を造りたいのなら、まず、雑草を取り除かねばならない。
一瞬の間に、愛が感じられたら・・・・・。
一瞬とは、過去、未来、現在をも超越している。
それは、時間の一部ではない。
永遠の一部と言ってもいい。
そのとき、生の意味を知る。
誤解がとければ、仮説が消えてしまえば、愛はそれ程、難しい状態ではない。
さて、今日は、どんな日になるだろうか?
2006年9月3日日曜日
イン ラブ ウィズ ライフ
時刻: 14:53