緊張には大きく分けて、二つある。
一つは体の緊張。もう一つは、マインドの緊張だ。
もし、自分の見ている光景や、ヴィジョン(展望、夢)が、外からの知識、過去の記憶、外圧、緊張だけで成り立っているのだとしたら、その人は、何も見ていない。
それは、ヴィジョンとはいえない。
闇の中の、堂々巡りだ。
思考は、一方の極端しか見よることはできない。
だが真実は、双極で成り立っている。
つまり、内なる視力が欠けている。
キャパシティーがたりないのだ。
本当にリラックス、くつろいで、初めて、見え始めてくる。
そのためには、緊張を、解き放たねば、何もおこらない。
リラックスは目覚め(Awareness)をもたらし、両者は、寛ぎと目覚めは、不可分の一体性(シヴァとシャクティー)にある。
だが、技法的(タントラ)には、目覚めから、始めるほうが、イージーだと言われる。
何故かというと、緊張度の残っている人にとっては、リラックスしようとする努力が、新たな、緊張を生んでしまうからだ。
生に対して、微妙に、繊細になればなるほど、変容の可能性は大きくなる。
最初に、まず、自分の体から始めてみるといい。
目を瞑って、自分の体を内側から、眺め、見て、感じる。
足のつま先からはじめる。
徐々に、足、桃、腹、胸へと、5-6分かけて、丁寧に、意識の光でぐれるようにする。
最初の内、ちんぷんかんぷんでも、少し、なじんでくると、その、意識の光がわかるようになってくる。
体の内側をつぶさに見ることができれば、体はリラックスしてくる。
目を開ける。
目覚め、きずきが起こると、自然に、緊張は落ちていく。
時空は、自ずと、その箍(たが)を解き放つ。
新たな次元にターン・オンしている。
そこには、何の境界もない。
西洋には、「原罪」と言う、観念があって、西欧世界は、長い間苦しんできた。
幸い、東洋には、そんな仮説はない。
人は、生まれながらにして、無垢であり、仏性(ブッディー)がある。
すでに、2500年前に、ゴーダマ・ブッダが、見つけ出したことだ。
このことは、今や、欧米人でも知っている。
時には、洗濯する必要があるだろう。
1976年に「イーグルス」(ロック・バンド)が、「ホテル・カリフォルニァ」と言う、名曲を発表した。
内容は、とても、ディープだ。
「アメリカは、無垢な魂を失ってしまった。」という歌であった。
それは、ナイス・サプライズであった。
確かに、現実社会では、それほど、実用的ではないかもしれない。
合理主義からみれば、不要のものかもしれない。
だが、魂が無ければ、生は意味を失う。愛を失ってしまう。
もし、自分を変容、或いは向上させたいのなら、目覚めと寛ぎが、必要条件だ。
本来の自己に目覚める。
これ以上のエクスタシーは、ない。
やがて、生、そのものが、人を向上させていることにきずくこともあろう。
そこから、意欲も、集中力も、寛ぎも、そして心も、愛も生じてくる。
目覚めた人は、周辺から、中心へ、中心から、周辺へと自由に動き、自在に在る。
市場から、深山へ、渓谷から、海へ、中心から、又、別の中心へ・・・・・。
外向的であったり、内向的であったりする。
が、どちらにあっても、それらは、対立するものではない。
そのことが、バランスとなり、翼となっている。
テイク・イット・イージー!
2006年8月31日木曜日
Have a cup of sky! (カップ一杯の空)
時刻: 15:23