感応は心から生まれる。
それは,フィーリングであって,思考でも,マインドでもない。心ある人は、意識的、或いは無意識的に、思考は現実ではない事を知っている。それは、現実にある状況に対する仮説である。
その事に,善い悪いは言えないが、思考は人のエネルギーを消耗する。
習慣的に、人の感覚は常に外界の情報についての情報源となっている。事実は事実であって問題は何もない。
だが感覚への執着は,結果的に外的な現実のみが全てであるという錯覚を生んでしまう。
人は習慣的に,様々な物事にラベルを貼り,自分の知識、観念の枠組みに入ってこないものを理解できなくなってしまう。
知性は,自らが心そのものであると信じ込ませてしまう。
此の時点から,視力が失われていく。目に見える現象(思い込みの力の作用)と,現実とは混同されてしまう。
思考が静止して,やがて、エネルギーが溜まってきて,飽和状態に近づくと、その満ちている状態で,初めて心が感応する。
それは、プログラムされていない,生(なま)の体験だ。
それは、反応とは違う。反応は機械的だ。訓練された条件反射、いわば虚構であって、決してリアルではない。反応はマインドの、頭の働きだが,感応はそれを超えた所から生じて来る。
条件付けが解除され、生(なま)の自然の体験であれば,心は軽やかになる。心が静まる程に、呼吸も軽やかになる。生は詩の様になる。音楽になる。走れば,呼吸は速くなる。静かになれば,呼吸も軽く,静かになる。光が体中を巡りだす。
澄んだ意識を歪めるものはもう無い。もう自分は誰でもない。知覚は冴え,寛ぎと喜びがある。町の雑踏にあっても、内なる中心と常に接触を保つ事が出来る。ゆとりが生じてくる。
内なる視力が付いてくれば、自分のあり方に満足できる様になって行く。神秘は至る所に見る事が出来る。何も隠されてはいない。
“感じてみよう、自分の思考を眺めて見よう、
私というものを,宇宙を、内蔵の働きにも,気を配ろう。
私とは?“
2007年2月9日金曜日
感応
時刻: 13:43