2006年11月1日水曜日

無音と言う神秘


 音が存在する。

音が存在するのは、無音が在るからだ、といわれる。

無音が無ければ、どんな音もあり得ない。

音と無音は、丁度、光りと闇のようなものだ。

波動が形を持つと、光りや音となる。

この世には、両方が在る。

だから、両方とも頂く。光りも闇も、音も無音も、頂く。

 そよ風が起こると、そして耳を澄ますと、様々な音が聞こえて来る。

風が樹々の枝や葉をそよぐ音、落ち葉やさざ波からも音が生じて来る。

干した洗濯物が、風にはためく音。

近所のおばちゃんが洗濯する音。

近所から聞こえて来る、生活の音が在る、

そして、自然の音が在る。

全てが調和しているように聞こえる。

無意識に、人や動物達が、自然に合わせているのだ。

 桶屋が儲かるかどうかは判らないが、そよ風の涼しさにつられて、人々が動き出す。

野鳥達も、心なしか、騒がしくなる。

魚が飛び跳ね、カエルが水に飛び込む。

猫が背伸びを始める。犬があくびをしながら、寝場所を変える。

今日は、春の野のごとく、穏やかだ。

 音も動き始める。

水面にも、波風が立つ。

あらゆるものが、動き始める。

それは,宇宙の揺らぎ。生が動き始める。そこに理由はない。

そして、何時かは、やがて、もとの静けさに戻って来る。

 自然の音であれ、音楽であれ、音を触媒として無音に入る事が出来たら、その事を、知ろうが、知るまいが、人は瞑想にある。

努力はいらない。

一切の努力の無い状態を、瞑想という。

 それは、生きるものにとってのオアシスだ。

自分を意識しない時、源を知る事が出来る。

そこに、安らぎが在り、くつろぎが在り、安心が在り、無心に入れる。

そこから、キャパシティーが大きくなり、力が生まれる。

それは、難しいものじゃない。

 難しいものがあるとすれば、それは人のマインドだ。

とりわけ、テクノロジーが重要になりすぎると、人間関係にも影響を及ぼす。

何でもテクノロジーで片がつくと思い込んでしまう。テクノロジーが悪い訳ではない。

マインドが、同化してしまうと、おかしくなってしまう。

テクノロジーは役に立つ、それに一切反対はしない。

 だが、それは二次的なものなのだ。本質的なものではない。

ここが判らないと、混乱はいつまでも続く。

先ず、源を見つけ出す事。

マインドそのものを見つめ続ければ,マインドは消えていく。

 インドの音楽がユニークなのは、無音を基盤としていることにある、と言われる。

他の音楽との大きな違いはそれだ。

全ては、無音を際立たせる為に、音が、メロディーが、リズムが、ハーモニーが存在するという。

 普通の音楽は、音を際立たせる為に、無音、休みを使うのだと言われる。

何れにしろ、無音があって、音が生き始める。

無音が成長すれば、音も成長する。

今まで聞いた事も無い,微妙な音も聞こえて来る。

それは,無音の音。

間合いが命。

そこまでくれば、誰でも判る。

 無音、沈黙は、光りに対する闇のようなもの。あらゆるものを包み込む。

四六時中、そこにいる訳ではない。

時々、意識すれば良い。

それなら誰でも出来る。

だが、そこがあらゆる,創造性の源。

 だが、少しでも無音に近づけたら、ただ、「気づく」だけでもそれは素晴らしいものになっていく。

無音、静けさ以上の安らぎは無い。

人は、そこで、自己調整する事が出来るからだ。自律神経や海馬(脳の一部)が全てやってくれる。

全ての邪念、疑心が落ちていく。

 それだけではない。

マインドを落とす能力がつけば、マインドを逆に,効果的に使う事も可能となる。

「心は,無心から生ず。」、という。

柳生新陰流の極意と言われている。

 「信頼」とは,共感的な調和。共有意識。それは無意識の中に隠れている。

仏性、それは誰でも持っている,究極のインテリジェンス。

真実はそこから起こって来る。

イン・チューン、同調を感じる事が出来る。

アット・ホーム。我が家のくつろぎ。

それは、信仰ではない。

それは「信頼」なのだ。