2006年10月11日水曜日

普通と言う魔法3(柳の下の浄土)

 よく、空の下に新しいものは何もない、といわれる。

 だが、実際には、私達の目だけが古くなっている。

そして何もかも、新鮮味を失ってしまうのだ。

見慣れてしまうと、目新しいものは、極端なもの、偏ったものだけになってしまう。

いずれ、それすらにも退屈してしまう。

それは、麻痺して、老化している証拠。

それとも文明ぼけ?

真実よりも、虚偽でもいいから、興味本位に目を奪われる。

目の前にあるものが見えなくなるのだ。

 そうなると、グッド ヘヴン(世も末だ)!

観念化、物質化のフィルターが、覆ってしまうのだ。

子供のように、生き生きした目をもっていれば、それこそ、箸が落ちても、笑い出してしまう。

 習慣が、人の目を、感性を古くしてしまう。

そうやって、精神の老化が始まってしまう。

何事にも、うんざりしてしまう。

マンネリ化した状態でものを見るから、刺激や驚き、新鮮さがうしなわれてしまう。もう一度、初めて見るような新鮮な目で、静かに世界を見てみよう。

すると、目そのものも、新鮮に蘇って来る。

全てが一新される。

 朝日は、毎日新しい。

夕日も毎日新しい。

月は毎晩、新鮮に見える。

人は毎日死に。毎日生まれる。

そんな目で生きるのも、知恵の一つ。

 世界はそのように動き出している。

それが、新たなる豊かさなのだ。

知覚、感覚、頭の機能が退化しているかよりも、周りの環境を新鮮な目で見ていられるかどうか?

 人は誰でも、物事を見る時、無意識の内に自分のスタンスをきめる。

それは、自分が混乱しないようにする為だ。

それで、どうしても、主観的で固定的な性質がでてきてしまう。

そこで、そういう自分の画一的な見方に、挑戦することも大事だ。

結果的に、良い刺激になるからだ。

 この地球という惑星のうえで、様々なエネルギーの複合体として人も生き物も生きている。天候も宇宙の状況も環境も、刻々と、或は、悠々と変化する。

この世とは、変化の事だ。

一つとして、何もかも同じ状況は、まずあり得ない。

そういう意味では,一瞬一瞬が貴重な時なのだ。

 様々な思考、言語、感情、様々な行為、そこからも波動がどんどん作られている。

結果的に、人のマインドは情報、表面的な様子、アイディア、知識、記憶、信念のようなものにプログラムされている。

マインドとは、「条件づけ」の事だ。玉葱のように向いていけば,実体はない。

 多くの人は、毎日,同じ想念を繰り返している。

それは,実に古ぼけている。

使い古しの骨董品のようだ。

習慣が,人を条件づける。

それは、人を,現在から遠ざける。

過去か未来へしか行けなくなってしまう。

意図的というのではなく、知らず知らずのうちにである。

 従って、通常、見るものの中心にあるのは、知識や情報、観念であって、生きているものではない事に成る。

そのようなフィルターを通して見てしまう。

だから、こういう風にも言える。

『私たちは、物事の有り様を見ているのではなく、私達の有り様を通して物事をみている。』という事になる。

結局,堂々巡りに成ってしまう。

 この世は,形あるものと、形の無いものとが、うまく絡み合って成り立っている。

形あるものだけ見ているとしたら、その人は何も見ていない。

形なきもの,ものでない事、無、を知らないという事だ。

 余りに対象だけに同化しすぎているのではないだろうか。

観念的過ぎないだろうか?

ストレスや疲労、無理はそこから生じて来る。

それは、やはり不自然だ。

それは、自然ではない。

 リスポンシビリティー、責任。

だが本来の意味は、リスポンス、感応という意味が語源。

それが、生きる為の基軸となる。

 感応するためには、自然であるしかない。

自然になって、人は初めてリスポンスする事、感応する事が出来る。

感応とは、機械的ではなく、その瞬間に起こる、生の体験の事だ。

知識、習慣、観念は脇に避けられている。

それは、心が生きる事。

場合に依っては、言葉が不要になる事もある。

それは、フィーリングであって、思考ではないからだ。

そこから、元気が生じて来る。

 自然でない人は、感応しない。

機械的な反応はあるかもしれない。

反応は心からではなく、頭からやって来る。

或は、習慣からやって来る。

 白隠禅師の師に正受という禅師がいた。

素晴らしい言葉が残っている。

 曰く。

「今日、一日暮らす事の努めを、励み、努べし。

如何程の苦しみも、一日と思えば、耐え易し。

楽しみもまた、一日と思えば、ふける事もあるまじき。

一日、一日と努めれば、100年、1000年も努め易し。

『一大事』という事は、特別の事ではなく、『今日、ただ今の心』なり。

翌日、ある事なし。」と。

 一日、一日を切に生きる。『一日暮らし』と言う。

その日暮らし、というのではない。

意味が全く違う。

 昨日も明日も無く、今日一日に集中する、という事である。

この言葉で、とても気が楽になる。

これなら、誰でも出来る。

何にでも、応用が利く。

 アジアを歩いていると、やはり自分の家に帰ってきたなあという,安心感が心を占領する。

大地が、何時も明るい光りに満ちた世界に見えるからだ。

例え天気が悪くとも,人々は明るい。

この事だけでも,豊かな気持ちになれる。

 自分も生き返る。

自ずと、見方も新鮮になる。

生き生きとしていても、めまぐるしさはない。

自然なのが良い。無理がない。

とても、ストーンな気分。

 ストーン、それは、静かに寛いで、心が開き,澄んで、知覚力が冴えている事。

リアルである事に他ならない。

元々は,賢者の石という事から生じた,くつろぎの状態を指す言葉。

頭の上に。何時も青空がある感じだ。

静かなうちに、全身に、力が漲って(みなぎって)来る。

何の理由もなく、喜びが溢れて来る。

それは、何か原因があっての喜びではない。

自然に湧いてくるのだ。

 せせらぎや、滝の水の落ちる様、海岸で潮の満ち干を見ていても、飽きる事は無い。

同じ事の繰り返しを見ていても飽きないのだ。これは不思議だ。

それは、きっと、自分が新鮮になっているからなのだ。

 汽車にのっても、お茶やコーヒー、弁当売りが、浪花節のような渋いのどを響かせながら、風のように動いて行く。

最近では、日本では聞かれなくなってしまった。

 古いと言えば、確かに古いかもしれない。

だがどんな物事もいずれは古くなる。

古くならないものはない。

よって、常に新しきものはない。

 だが、いつも新鮮な目でみるように、感じられるように心がけている。

それは、自分を新しくする事。

すると、何事も新鮮に見えて来る。

どんな古いものも,新鮮に見えて来る。

普通と言う魔法が見えて来る。

 柳の下に,いつも泥鰌(どじょう)入るかは,判らないが、往々にして,浄土はあるかもしれない。

柳下浄土。

 世界を変えるのではない。

自分を変えるのだ。

すると,結果的に,世界は新しくなる。

それが、禅やタントラからの提案だ。

 宇宙に調和がとれていて、人々はそれに無心にチューニングしている。

人々は、自分を新鮮にしてくれる、スピリットやこつを知っている。

そうすると、イスラム世界であろうが,ヒンドウーであろうが,仏教であろうが、人々は、流れるようにいきていく。

といって、流されている訳ではない。

ゆとりがある。遊びがある。それが普通。

皆、生きているなーと感じて、嬉しくなってしまう。

 あるイスラエル人が、タイに来て、初めて生きるという事を知ったと言う。

彼に依れば、今までの生は、本物ではなかった、かりそめの生だったと言う。

只,生かされている,不自然な生だったと言う。

本気になったのだ。

そして、手始めに、彼は僧侶に成った。

勿論、勉強する為だ。

 うまい飯,ぶっかけ飯の旨さは、屋台にある。

あの、パンチの効いた辛さと旨味が、目覚めさせてくれる。

天秤棒を担いでソムタム(サラダ)や、カノムチーン(カレー味のビーフンのラーメン、ミントやバジル、野菜がいっぱい)、ちまき、みつ豆を売る、兄ちゃん、

ねーちゃん、おばさんやおじさん、爺ちゃんや婆ちゃんが今日も楽しそうに頑張っている。

きっと、キャパシティーが大きいんだろうね。

そんな人たちからも、力をもらっている。

 目には見えない何か素晴らしいものを、皆が共有している。

そこから、寛容さが生まれ、個人主義が自然に発生して来る。

それは、エゴイズムではない。

ここの所が、素晴らしい。

 運河に船を浮かべて、今日もいつものおばさんが,ゆっくりと舟を漕ぎながら,元気な声でバナナを売っている。

新しい一日。

何千年と変わらない営み。其れが普通。

 あと何千年続くのだろうか?

悠久という安心感、その厚みというか、信頼が心地よい。

 ここは、生き物が、人が生きていく所。

理屈や理論を超えて、波動で生きている。

気で生きている。それが普通。

「見る」と言う事が出来れば、空の下、古い事はなにもない。

楽園とは、きっと特定の場所、と言うよりは、見方、感じ方,在り方次第ではなかろうか? 

生きるのを怖がっていたら、何も始まらない。

 

 そう、あなた次第だ。