2006年9月3日日曜日

イン ラブ ウィズ ライフ


 若い女性が、川のほとりに寛いで、一弦のヴィーナを奏でている。
ガゼルのカップルが、その調べに魅了され、聞惚れている。

 若い女性の美しさと若さ、そしてその豊饒さは、上からしな垂れかかる、花の房に象徴され、愛を予感させる。 まるで、サラスワティー(弁財天)のようだ。

 ガゼルが、水を飲みにやってくる。
ガゼルは、インドでは、恋人同士を象徴している。
高揚して、静かな感嘆の内に、女性に注目している。

 背景には、家路へと急ぐのだろうか、一羽の鳥。
そして、日はすでに沈み、夕闇が、少しずつ、ヴェールを閉ざそうとしている。
時は、サンディア、日が昇る前、日が沈んだ後の、光源なき光を表している。

 ガゼルの渇きは、現代の人間、私達の渇きを、象徴している。
その渇きとは、愛への憧れ。
「一如」(ひとつである事)への憧れだ。
それは、深みから湧き上がってくる衝動なのだ。

 「愛が執着となるのは、そこに愛が無いからだ。」
これは、近年のある覚者(ブッダ)の言葉だ。

 愛に関して、私達は、大きな誤解をしていたのかもしれない。
愛は、心の状態であって、行為でも、思い込みでもない。
それは、非常に微細な、波動の交流の事。
慈しみ、心の滋養なのだ。
その中で、無言のコミュニケーションが起こってくる。

 愛は、高次元の魂の呼吸と考えると良いかもしれない。
そこに、一如の感覚が生じ、二元性が溶解する。

 もし、愛が、即、行為であったなら、長続きはしない。
こういとは、選択であり、思い込みも選択だ。
だが、愛は部分ではない。

 愛を基盤とした行為、それは好意だ。それは判る。
だが、愛そのものは、好意ではない。

 もし、愛が行うものであったとしたら、常に葛藤を繰り返す。
世間でやっている事は、それだ。
例えば、呼吸が、努力だったとしたら、すぐにへばってしまう。
すぐに、憎しみや、無関係な不満まで表れて来てしまう。

 それは、無為を通して、自然に起こってくる。
執着が消え、自分が何なのか、判ってくると、何かが溢れ出して来る。
それは、エネルギー現象だ。
愛は、甘露(アムリタ)とほぼ同義語。

 もし、心に庭園を造りたいのなら、まず、雑草を取り除かねばならない。
一瞬の間に、愛が感じられたら・・・・・。
一瞬とは、過去、未来、現在をも超越している。
それは、時間の一部ではない。
永遠の一部と言ってもいい。

 そのとき、生の意味を知る。
誤解がとければ、仮説が消えてしまえば、愛はそれ程、難しい状態ではない。

 さて、今日は、どんな日になるだろうか?