禅は信仰を持たずに真理を見る唯一の道といわれる。殆どの宗教は、何らかの仮説に基ずいているようだが、禅、タオ、タントラは、仮説には無関係。信仰においては、人はその時点で止まってしまう。創造性とは無縁になってしまう。
禅は、信仰ではない。信心する対象ではない。何らかの信頼は生じてくる。禅という言葉は日本語だが、サンスクリット語のディアンが語源。瞑想する事を意味する。
元々、5000年もの大昔、シバ神によって始められた瞑想は、インドでのみ発展してきた。禅はインドで起こり、中国を通じ,日本に伝わり発展させてきた。そして20世紀に入って、インドにリバイバルした。禅は、2500年かけて、東アジアを一回りしてきた事になる。
現代の禅は、かつての日本の禅がそうであったような、サムライを意識した、果たし合いにもにた、厳しい禅ではない。本来、究極という事はありえないといわれる。一切に実態はない、空なるもの。そして、空が極まる事はあり得ない。
現代の禅は、より脆弱で知的な現代人にフィットする、粋で、タントラ的な、コンテンポラリーな禅と言えるかもしれない、と、言うのは、女性にも人気があるからだ。だが、はたして瞑想を通じて、人にはどんな事がおこるのであろうか?
大きく分けて、三つある。一つには、人に満足感、幸福感を与える。自分が、本来の自分である以上の喜びはないと思う。
そして、禅は、今、という次元にとどめる。今だけが、唯一リアルで、永遠と繋がっているからだ。
三つ目は人の自我を滅して、真の自己を目覚めさせる。本当の所、自己の目覚め、開悟から、禅は始まる。一言でいえば、自己を学ぶという事である。
もう一つ付け加えると、愛と瞑想とは相関関係にあり、互いに扉となりうるのだ。
何よりも信仰を持たずに、真理を見る道故か、世界中の人々からも注目を浴びている。それが、今や、流行語になり、ファッションになり、自動車になり、デパートやレストランになり、コンピュータの部品になり、禅の持つセンスと自由さにあやかろうとし始めている。そこから、新たな「粋」が生じてくるやも知れない。