2006年10月14日土曜日

ラビリンス(迷路)


 人には,元々生まれついての中心がある。

中心なしでは,生きる事は出来ない。

それを知らずに無意識に生きる事はできる。

多くの人は、そうやって中心を知らずにいきている。

 だが、もしそうなら,人生は、苦になってしまう。

その生は、無意味で空虚なものに成ってしまうかも知れない。

そこに、理由の無い,不安が生じて来る。

中心を知らねば,ただの形式、空しさだけの、よりどころの無い漂流のようになってしまう。

 人には誰にも七つのセンターがある。

そのうち、浄化のセンターも大事だが、大事なのは,特に、頭、心、そして存在のセンターの三つが特に重要だ。

その存在のセンターが、センターの中のセンターと言っていい。

本当のセンターは、頭ではなく,心でもない。

 頭は知る事のセンター、心、ハートは感じる事,フィーリングのセンターである。

存在のセンター、本当の中心は,全ての存在と繋がっている事を意識して,生じてくる。そこにやって来ると、マインドは停止する。

誰でも,無心になり、自分が何か、自分が存在と繋がっている事を知る。

それは、瞑想受胎に入る事だ。

 正確に言うと,生じてくるのではなく,それは、元々あり,ただ発見したのにすぎない。

そこで人は初めて,我が家のような安らぎを感じ,成長を感じ、至福という事を知る。

自由を知る。

生はここから始まる。

 現代文明は,主に頭、知る事のセンターを重要視する。

学校で教える事は、主に其れだ。

無数の矛盾した方向がある。

それ故,この世はまるで迷路のようにも見えるのだ。

意図的に,迷路を造る事も出来る。

次から次へと新たな迷路が作り出される。

中心を知らねば,いつまでも、振り回される。

 人々が,迷路の中で,右往左往しているのは,そのためだ。

まるで、テヘランの町のようだ。日本の城下町にもそのような所があるという。

頭からハートに降りてきて、ハートのセンターでまたまた右往左往して、いつしか、やっと、存在のセンター、臍(へそ)を見つけ出す。

頭も,ハートも周辺のセンター,見かけ上のセンター。

それらはあくまで,表層,周辺のセンターだ。

だがハートは、センターへの扉と成る事に留意しよう。

頭から、直にセンターには無理がある。

 ブッダが悟りを開いて後,彼の人生は苦から無苦へと変容したという。

不安は消えた。

中心を発見したのだ。

宇宙に繋がる根に目覚める。

そうなって初めて,頭も本当に使う事が出来,心も生きる事が出来る。

さもないと,この世は、宇宙は、いつまでも「よそよそしい」ままだ。

 出来る事なら、一度、地上に作られた、フルサイズの迷路を試してみると良い。

もし、出来なければ、この図形をつかって、黒いラインを通って中心に辿り着き、そして、再びもとの場所に戻って来る。

 頭をリラックスさせて、迷路の曲線に注意しながら焦点を合わせる。

右脳、左脳を使い、頭の半球形の隅々まで使ってみる。

このトレーニングは、何か問題が起きた時、答えを見つけるのが、苦にならなくなる。

現実の迷路は、簡単ではないが、少なくとも,この小さな迷路はクリアしておきたい。これならば、簡単だ。

 タントラ、禅、タオがあるのは、その迷路から抜け出す為の、技法、あり方なのだ。私たちのインナー・ウイズダム、内なる知恵は、例え,表層意識が無頓着でも、全てのジレンマを知っている。

それは、私たちの肉体ではなく、それに、オーヴァーラップしているエーテル体に属しているという。

それを、宇宙的な学習塾、図書館、或はアカシック・レコードと呼ぶ人もいる。

だが、人は、簡単には、そこにも辿り着けない。

頭を通じては,辿り着けない。

頭の論理にとっては、まるで迷路だからだ。

あまりに、世間的な雑音が、それを阻害しているからだ。

もし簡単に答えが判ったら、きっとブッダの様な人に違いない。

 そんな時、易、ルーン、様々な占いは、その事自体のリアリティーは別にしても、「少なくとも解決する糸口となる次元」、には連れて行ってくれる。

そういった「精神のスポーツ」も、楽しみになる。

 

 スポーツとは、ギリシャ語で、『楽しむ事』。

サッカーや野球ばかりが「スポーツ」という訳ではない。

カフェでいろいろな人とおしゃべりするのも、スポーツだ。

本を読んだり、散歩したり、瞑想するのも、迷路を楽しむのも、ゲームを楽しむのも、其れが『楽しめる限り』、スポーツである。

スポーツという言霊には、元気がある。