<?xml version='1.0' encoding='UTF-8'?><?xml-stylesheet href="http://www.blogger.com/styles/atom.css" type="text/css"?><feed xmlns='http://www.w3.org/2005/Atom' xmlns:openSearch='http://a9.com/-/spec/opensearchrss/1.0/' xmlns:georss='http://www.georss.org/georss' xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307</id><updated>2011-11-15T17:21:31.202+09:00</updated><category term='タイ'/><category term='ラオス'/><category term='管理者からのお知らせ'/><title type='text'>shambhala cafe</title><subtitle type='html'></subtitle><link rel='http://schemas.google.com/g/2005#feed' type='application/atom+xml' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/feeds/posts/default'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default?max-results=100'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/'/><link rel='hub' href='http://pubsubhubbub.appspot.com/'/><link rel='next' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default?start-index=101&amp;max-results=100'/><author><name>fortunesawada</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05592192894946341165</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><generator version='7.00' uri='http://www.blogger.com'>Blogger</generator><openSearch:totalResults>270</openSearch:totalResults><openSearch:startIndex>1</openSearch:startIndex><openSearch:itemsPerPage>100</openSearch:itemsPerPage><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-5198346351050120268</id><published>2011-01-08T00:00:00.000+09:00</published><updated>2011-01-08T15:27:37.742+09:00</updated><title type='text'>シズル（sizzle)</title><content type='html'>　 シズルって何だろう？&lt;br /&gt;それはね、肉や焼き鳥、海老や魚介類を炭火で焼くとき、或いは、厚い鉄板でベーコンやハンバーガー、ステーキを焼くときの音を、日本語だと”ジュージューと言う音を立てる”、と表現するだろう？&lt;br /&gt;或いは、ジュージューと焼く・・・・・。&lt;br /&gt;何ともいえなくいいトーンだ。おいしい料理屋さんの雰囲気に、現実感が生じてくる。&lt;br /&gt;今日は、一寸、美味しい話にしよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その時のトーンを、英語で”シズル”という。&lt;br /&gt;誰もが好きなトーンなのだ。音感を言葉にすると、その言語によって文化や言葉のニュアンスに違いがあることが判る。&lt;br /&gt;でもそこに面白さがある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この前、近くのミスター・ドーナッツに行ったところ、日本ではオールド・ファッションとかチョコ・ファッションと呼ばれている、粗引きの小麦粉を使った、一寸、甘みを抑えた、ぼそぼそした、硬めのドーナッツがある。&lt;br /&gt;それが、タイでは”サクサク”という名称に変わって新発売になった。&lt;br /&gt;オールド・ファッションがやっと食べられる。&lt;br /&gt;以前は、甘いのばっかりで、甘味の少ない、ドライで硬いタイプは売ってなかったのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　サクサクと言う言葉が、その食感にぴったりの名称とは思えないが、日本語の音や状況に対する音感や情景、そして様々な動きや行為を表現した言葉には、面白くバラエティーに富んでいる。&lt;br /&gt;さらさら、そよそよ、しんしん、じんじん、ざくざく、ころころ、ふらふら、ちょろちょろ、むずむず、とんとん、ぶんぶん、さっさと、びんびん、そうっと、ぎんぎん、じゅーじゅー、そろそろ、うはうは、だらだら、ばたばた、ぶらぶら、がっちり、とろとろ、どんどん、ふわふわ、ゆるゆる、・・・・・・いろいろあるね。無限にあるようだ。日本語は感性が豊かなのだ。宇宙的なのだ。&lt;br /&gt;”波動”と言う言葉は、割と耳新しいかもしれないが、それらは日本では古来から、波動、趣、風味といったものを表す言葉になっている。&lt;br /&gt;昔、ある日本のヒット曲がアメリカでもヒットした。タイトルは意味とは無縁の、”すき焼き”である。&lt;br /&gt;意味はともかく、言霊（ことだま）のスピリットが、ユニークに聴こえるのであろう。&lt;br /&gt;日本にも、タイにも、いまや外国語がたくさん入ってきて、言霊の面白さを再認識している。&lt;br /&gt;波動の時代だからね。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　”シーーン”と言うと、日本語では、静けさ、”シーーーンと静まり返った状況”を表す言葉だ。&lt;br /&gt;或いは、英語の”情景”といった意味にも使われる。オーバーラップする面もないとは言えない。&lt;br /&gt;正月には、その”シーン”を聴くためにも、感じるためにも、初日の出、夜明けの朝日、富士の朝日を愛でに行く。&lt;br /&gt;或いは、神社や寺院に、新たな華やぎを求める人もいるだろう。&lt;br /&gt;風景を見るだけではなく、聴く、感じる、味わう、嗅ぐ、そして五感を解き放つためでもある。&lt;br /&gt;目は五感の一つではあるが、目だけで感じるわけではない。&lt;br /&gt;目は映すだけで、解釈するのは他の部分なのだ。&lt;br /&gt;肌で感じ、心で感じ、においで感じ、耳で感じ、味わって解釈するのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　静かな朝、と言うのは、正月に限ったことではなくいいものだ。&lt;br /&gt;気持ちが新鮮になる。朝だけが楽しみではないが、朝はいい。&lt;br /&gt;静まり返った音、無音の音、それは、”創られていない音”という。&lt;br /&gt;インド、チベットでは、意識を目覚めさせ、ハートのチャクラを開く重要なトーンとなっている。&lt;br /&gt;禅では、”隻手の音声”といって、禅の公案（意識を目覚めさせるための、問いかけ）にもなっている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　無音の音は、何も聴こえないわけではなく、無音は無音として確かに聴こえる。&lt;br /&gt;聴く耳、感応する心があれば、思い込みが何もなければ、無音と言う”トーン”として聴こえるのだ。&lt;br /&gt;ヒマラヤは、エナジーも高く、人も少なく、人工物も殆どなく、まさにうってつけの場所なのだ。&lt;br /&gt;瞑想者は、その音を聴きに、ヒマラヤにやってくる。&lt;br /&gt;全宇宙の無音の音、始めなき、そして終わりなき、”究極のトーン”。&lt;br /&gt;それが、全宇宙に響き渡っている。&lt;br /&gt;”絶対音”と言うようである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その無音のトーンをベースに、辺りを感じると、何もないようでも、静かな様でも、音に溢れているものだ。&lt;br /&gt;そこに、自分が呼吸する微かな音、扇風機のまわる音、熱帯魚の水槽の水が、ちょろちょろと循環する音、猫が二匹でふざけあっている音、冷蔵庫の音、遠くから聴こえる鶏の声、車の走り去る表の音、人が歩いて通る音、それらが無音の音の上に立体的に重なっている。&lt;br /&gt;そんな風に、当たり周辺を感じたことはないだろうか？　&lt;br /&gt;無音をベースにしているから、一つ一つの音をよく聴き分けることも出来るし、より三次元的に総合的な広がり、そして立体的な深みを感じることも出来る。何でもない空間が生き生きとしてくる。&lt;br /&gt;それがサイレント・ジョイだ。私の楽しみの一つ。実用的な瞑想なのだ。&lt;br /&gt;バスや汽車を待っているときでも、飛行機に乗っている時でも、町を散歩している時でも楽しめる。&lt;br /&gt;何事もないようでも、気づけば、色々なことが起こっているのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　”静けさや、磐に染み入る、蝉の声”。&lt;br /&gt;芭蕉の有名な一句だが、騒がしい蝉の声が、磐に染込んでいく様子と、静寂さ、とを美味く対比させ、静けさを強調している、&lt;br /&gt;音と無音とが同居している。何とも素晴らしい！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　”古池や、かわず飛び込む、水の音”&lt;br /&gt;此れも、世界的にも、あまりにも有名な句であるが、水の音と言う”唯一の音”が、波紋を広げ、背景の、全体の静けさ、無音を、浮き立たせている。&lt;br /&gt;タオを感じさせる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　無音を意識できると、ステージが変わってくるものだ。深みと広がりが生じ、意識の高みに入ってくる。&lt;br /&gt;新たな、そして豊かな価値観が生じてくる。&lt;br /&gt;無音が音を生かすのだ。無があって、初めて、有を生かすことが出来るのだ。&lt;br /&gt; 一度聴いたら、忘れないのが”無音の音”だ。&lt;br /&gt;タントラでは、”音の中の音”と言う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　音は耳で聴くのではない。耳は伝えるだけなのだ。&lt;br /&gt;情報なら頭に向ければいいし、心に向けたものなら、心に響くようにすればよい。&lt;br /&gt;しかし耳は選択するのだ。どうでもよい音は無視してしまう。&lt;br /&gt;雑音なんかはあまり聞きたくないものだ。&lt;br /&gt;よく出来ているんだよ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　 ところが、無音の音を何処で聴くのか、と言うと、人の心の最深部、仏性（ブッディー）のあるところで、聴かれるのだという。&lt;br /&gt;そこには雑音は一切届かない。&lt;br /&gt;そして、それを体験すると、どんな雑音を聞いていてうるさくても、その背景に、その絶対音、無音の音を持ってくることが可能なのだ。&lt;br /&gt;さすれば、少々の雑音も、少しの時間なら何てことない。周囲は、周辺でしかない。中心は、無音の静けさにある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この無音のトーンが、ハートのチャクラの奥の奥まで開くのだ。&lt;br /&gt;観世音菩薩、即ち、アヴァロキテシヴァーラ（チェンレイジー）は、仏陀の直弟子の一人だが、その無音の音を知り、世間の音を知って、悟りを得たと言われる人だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; 　シーンといっても、,ジャズのシーンでは、ジャズとは、”有意義な喧しさ”、といってもいいのだが、&lt;br /&gt;無論、喧しくないのも多い・・・・・・。&lt;br /&gt;ブルー・ノートにシンコペーション、オフ・ビートにアフター・ビート、音と無音、それらが心に、絶妙な刺激を与えるのだ。&lt;br /&gt;ジャズは小学校の頃から聴いている。&lt;br /&gt;ビートがあって生き生きとして、心の琴線に触れ、しかもスリルがあるのだ。&lt;br /&gt;シズルは、此処にも登場する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ドラマーが使うシンバル。&lt;br /&gt;多く、トルコの”ジルジャン”と言うメイカーが有名だが、ドラマー達の注文で、独自のトーンを求めて、金や銀を融合したり、シンバルに小さな穴をいくつも開け、そこに、鋲を打ち込んで、しかもその鋲を浮かせて、シンバルの余韻が、長く尾を引くように工夫したものがある。&lt;br /&gt;一寸、スティックでたたいても、ジーーーーーーーン、シーーーーーーンと余韻が長く、それが刺激的な効果を出す。&lt;br /&gt;日本語の、言葉の上でも、”ジーーーンと、胸が熱くなる。”という言い方をするだろう？&lt;br /&gt;それだけで次元が変わってしまう。&lt;br /&gt;初めて聴いたときは、その効果に驚いたものだった。&lt;br /&gt;昔の、録音の良いレコードで聞くと何ともすばらしい。無論、今でも使っている人も、少なからずいるだろう。&lt;br /&gt;此れが一時、流行って、エルヴィン・ジョーンズ、ジミー・コッブ、エド・シグペン、アート・ブレイキーといったドラマーたちが一世を風靡した。&lt;br /&gt;それがシズル・シンバルである。&lt;br /&gt;それが、スタン・ゲッツや、マイルス・デヴィス、オスカー・ピーターソンを盛り立てていたのだ。&lt;br /&gt;実際に、演奏に入り、トップ・シンバルで、ビートを生み出すようになると、余韻がシーーーン、シーーーン、シーーーンと、心の深遠、頭のてっぺんから、足のつま先にまで波動効果が伝わって届いてしまう。何とも気持ちがよク、身体がスイングしてしまう。&lt;br /&gt; 心が空っぽになると、キャパシティー、受容能力、感受性が増してくる。スペースが生じるのだ。&lt;br /&gt;それにベースが絡み、ピアノやギターと言ったリズム・セクションが、そこにスピリットを注入する。&lt;br /&gt;そして様々な楽器が入り込んで、重なり合って、インプロヴィゼイション（即興演奏）が始まる。&lt;br /&gt;ファンタジーが始まる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　肉や魚をジュージュー焼く音も、食欲を刺激して堪らない。それは肉体レベルで、身体を、そして食欲を刺激する。&lt;br /&gt;一方、シズル・シンバルの波動は、心の雑念をきれいにする精神的効果がありそうだ。意識の奥のほうまで染み渡っていくからだ。&lt;br /&gt;何か人の心に何かが残る効果があるようである。&lt;br /&gt;昔から、太鼓と鐘、そしてシンバル、或いは銅鑼（どら）は、様々な儀式や宗教儀式、信号や合図に使われてきて効果を挙げてきた。&lt;br /&gt;意味と言うより、ニュアンスだが、電子音の絶え間ない今になってみれば、何か堪らない魅力があるものだ。&lt;br /&gt;船の出港のときにも銅鑼を鳴らしたり、汽笛を鳴らしたりする。汽車が発車するとき鐘を鳴らす、或いはベルを鳴らす。お寺でも、鐘と太鼓、それに銅鑼を使い分けている。&lt;br /&gt;意味というものは、微妙なニュアンスがあって、初めて深まって生きてくるものだ。&lt;br /&gt;ニュアンスというものがないと、ぶっきら棒で詰まらないのだ。微妙なことが、色合いや風味を増しているのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　うなぎを焼く音、そしてその匂い、思わずそそられてしまう。&lt;br /&gt;それは、江戸時代から続いている。当時は、屋台で焼いて売っていたようである。&lt;br /&gt;南アジアでは、炭火で魚介類、肉や野菜を焼いて食べさせる屋台が、夜になると町に中心付近に登場し、いい音、いい匂いをあたりに撒き散らしている。昔からの伝統だが、風情があっていいものだ、しかも辺りが華やいでくる。&lt;br /&gt;バンコックには、シズラーという、”シズル”を意識して、看板にしている有名なステーキ・レストランがある。&lt;br /&gt;以前、サイアム・スクエアの店に行ったことがある。&lt;br /&gt;いい音が聞ける。ジュージュー、シャー・シャーといっている。&lt;br /&gt;無論、匂いもいい、そして味もいい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　最近では、英語の雑誌などを捲っていると、シズル、シズラー、シズリングといった言葉が眼に入ってくる。&lt;br /&gt;”刺激する”、と言う意味に使われているようだ。文化の波動といっても良い。&lt;br /&gt;今は、ナノの時代、微細の時代、 どうしても敏感になってしまう。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/18690307-5198346351050120268?l=shambhalacafe.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/5198346351050120268'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/5198346351050120268'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/2011/01/sizzle.html' title='シズル（sizzle)'/><author><name>Atsushi Fukui</name><uri>https://profiles.google.com/107135242134154249942</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-6066341532239944507</id><published>2011-01-07T00:00:00.000+09:00</published><updated>2011-01-08T15:28:45.768+09:00</updated><title type='text'>”安心”と言う魔法</title><content type='html'>　人が生きている以上、何かしらの問題や、超えなければならない状況が生じてくることがある。&lt;br /&gt;人生、中々、思い通りにいくことばかりではない。&lt;br /&gt;そして、そこでは弱さは役に立たない。&lt;br /&gt;短気になったり,慌てたり、悲観したり、逃げ出そうとしたり、避けていようとしたりしても、状況がどうにかなる訳ではない。&lt;br /&gt;状況次第では、無理はむしろ障害になってしまう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そこでは、あるがままの状況、その問題に”直面する勇気”と言うものが必要となってくる。&lt;br /&gt;それは戦うことではない。&lt;br /&gt;人がこの世に生き、そしてそれを存続させようとするならば、それは本能と言っても良いが、まず自己をポジティヴに感じること。&lt;br /&gt;自己肯定が必要となってくる。自分が自分であること、リアルになる事だ。&lt;br /&gt;人が真に存在しないうちは、何をしても上手くはいかなのだ。&lt;br /&gt;此れは”仏陀の教え”といわれている。大事なことなんだよ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　人は、本来、強いわけでも、弱いわけでもない。&lt;br /&gt;だが、そこで強さと弱さが枝分かれしてしまう。&lt;br /&gt;それは、力の問題と言うより、”姿勢”の問題なのだ。&lt;br /&gt;状況に同化して悩むのでは無く、一歩引いて、先ず状況を良く見る。&lt;br /&gt;そのとき、自分は、すでにその状況や物事に同化していないだろう？&lt;br /&gt;自分の心の問題ならいざ知らず、外の問題だったら対応のしようと言うものがあるものなのだ&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;   人の行為には二種類ある。&lt;br /&gt;一つは”すること”、そしてもう一つは”在る事”。&lt;br /&gt;”在る”ということは、一つの大きな全体性と繋がっている、存在と繋がっている、ということだ。&lt;br /&gt;”すること”ばかりにかまけていると、つい”在る”と言うことの大切さを忘れてしまう。片手落ちになってしまうのだ。&lt;br /&gt;何が何でも自分ひとりで頑張っていると、在る、と言うことを忘れてしまう。&lt;br /&gt;”在る”ということが判って、初めて、することにも意味が出てくる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　何事も、まず、”在る”ということから始まる。&lt;br /&gt;在る、と言うことが出来たら、純粋に、事の全体を眺めることが出来るだろう？&lt;br /&gt;さもないと、何かしないではいられなくなってしまう。何かに追い立てられてしまうのだ。&lt;br /&gt;それは、その物事に取り込まれて、対象に同化してしまっているからだ。&lt;br /&gt;”すること”に中毒してしまうのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それは、同化が原因なのだ。&lt;br /&gt; 一度、”安心とは何なんなのか？”と言うことに注目してみよう。&lt;br /&gt; のどが渇いたら水を飲む。森羅万象、全てのものが水を飲む。生きているものは水を飲む。&lt;br /&gt;砂漠のようなところで、水を切らしていたらなおさらだ。それは身体に潤いを与え、生命を与え、意識のセンターを、頭から、内なるどこか安心できるところに移動させる。&lt;br /&gt;そこに間合いが生じ、潤いが生じてくる。&lt;br /&gt;潤いが生まれれば、人は、安心して素直に成れるものだ。それは、ゆとりが出来るからだ。&lt;br /&gt;ゆとりは、”間”といっても良い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　”間”という文字には、門の向こうに日が射しているだろう？&lt;br /&gt;”間”を感じると、心にも光が射してくる。&lt;br /&gt;”間”とは、時間にも空間にもかかわる、古来からの、時空にかかわる宇宙的な知恵なのだ。&lt;br /&gt;”間”を生かすこと、それがゆとりなのだ。それは時間的にも、空間的にも言えることなのだ。&lt;br /&gt;適切に”間合い”と言う知恵を使えば、リズムが出て、よりものごと、することが生き生きとしてくる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; 　生と言うものは、人のマインドからすれば矛盾している。&lt;br /&gt;生は人のマインドに合わせているわけではないからだ。森羅万象は、素直にその生に従っている。&lt;br /&gt;だが、個別意識の強い”人間は、生に合わせなければ生きていけない。&lt;br /&gt;人生の目的は、究極的には”、生きることである。&lt;br /&gt;つまり、人のマインドからすると、矛盾しているものに如何に上手く対応し、そして協調して生きていくにはどうしたら良いか？&lt;br /&gt;矛盾しているようだが、矛盾を認めると、そういうものだと思えば、矛盾はなくなっていくようだ。&lt;br /&gt;例え１０分でも頭を落とすと、そこで、もう生と一体になっている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　安心、それがどういうものかというと、”安心とはエナジーの一形態”なのだ。&lt;br /&gt;エナジーを消耗してしまえば、安心もなくなって、不安が増してくる。それが道理と言うものだ。&lt;br /&gt;本当に安心しているとき、今、内側でどういう状況にあるのか、どういうことが起こっているのか、ということに注目してみよう。&lt;br /&gt;普通、何か原因があって、或いは因果関係があって”安心”は起こってくる。物質的なレベルで起こってくる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　だが、何の因果関係もなしに”安心”をクリエイトできるのだ。&lt;br /&gt;それは、無心から起こってくる。&lt;br /&gt;真に無心にあるとき、周辺、世界は意識されないからだ。&lt;br /&gt;そこでは、すでに、世界を超越している。&lt;br /&gt;そして、その空間に”安心”という特別な”力”をクリエイトできる。その力は柔らかで、爽やかで、暖かい、しかもオールマイティーだ。&lt;br /&gt;自分が安心したときのことを、因果関係を忘れて、安心そのもの思い出せばよいのだ。&lt;br /&gt;人は何度も、何らかの原因のある安心をした経験を持っているはずだ。&lt;br /&gt;形のあるものではないが、誰でも安心の力を知っているはずだ。&lt;br /&gt;そして、安心ほど、心強い味方はない。少しはエナジーを安心のためにリザーブすると良いと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　”安心からの発想”と言うものはいいものだ。&lt;br /&gt;対象や部分だけではなく、無理なく全体が見えるからである。楽観性が生じてくる。&lt;br /&gt;安心は宇宙的なのだ。&lt;br /&gt;全体が見えなければ、五里夢中、不安は当然だ。&lt;br /&gt;そこで不安からの発想とに大きな違いがでてくるのである。&lt;br /&gt;そんなときは、安心に帰って繰ればよいのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; 　安心は天下無敵なのだ。&lt;br /&gt;ものではないし、形もないが、感応する心があれば、これ以上のものはない。&lt;br /&gt;至福といっても良い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　安心は只者ではない。&lt;br /&gt;それが心を生かし、身体を生かし、他のもの、家族、友人、犬猫は言うに及ばず、森羅万象にいたるまで、そして自分のみならず、あらゆるものを生かすからだ。&lt;br /&gt;”上善は水の如し”と言うだろう。エナジーは、全てのものを生かし、生き生きとさせる。&lt;br /&gt;それは、ヴィシュヌ神の力、シヴァ神の力、仏陀の力、そして、タオの力なのだ。&lt;br /&gt;そして、安心は”創造神（ブラフマ）”でもあるのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　一度、安心を背景にして、そのスタンスから、目の前にある出来事や問題の全体を良く見てみる。&lt;br /&gt;安心のある時と、安心のない時とでは、見え方が違ってくるはずだ。月とスッポンほどの違いがある。&lt;br /&gt;暫くすると、やがて、その中に光が見えてくる。それがエナジーだ。光源なき光、サンディア、シヴァのシャクティーだ。&lt;br /&gt;安心と言う視点から物事を見ると、事の全体性が良く見えてくる。&lt;br /&gt;心にも、ゆとりが自ずと生じるから、対象に同化することなく、静かに全体を見ることが出来る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それに気づいたら、その光の波動に注目し、その波動を広げていけばよい。静かに見守っていると、それは自ずと広がっていく。&lt;br /&gt;ゆっくりと呼吸しながら、何もせず、ただポジティヴに事の成り行きを見ていれば良い。&lt;br /&gt;そして、全宇宙を”安心という波動”で満たすといい。&lt;br /&gt;波動原理、それがタントラの知恵と言うものだ。&lt;br /&gt;複雑だったものごとが、ごく単純な形で見えてくるものだ。クリエイティヴだろう？&lt;br /&gt;最小の被害で済むこともあるし、無事に切り抜けることもあるだろう。逆転して成功することもあるかもしれない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　安泰、安全、安堵、安住、安眠、全ては、安心から生じてくる。&lt;br /&gt;安心は、所謂、快楽ではない。快楽は、エナジーを消耗するのだよ。&lt;br /&gt;だが、安心は、もっと実用的、実質的なのだ。&lt;br /&gt;取り立ててどうこう言うものではないが、安心ほど心地よいものはない。&lt;br /&gt;安心は、無心から生じ、心地よさを生む。今がそうなのだ。&lt;br /&gt;楽しみや喜びも生じてくるベースともなる。生の基盤となるのだ。&lt;br /&gt;安心なくして、幸福も、愛も、豊かさも糸瓜（へちま）もない。&lt;br /&gt;糸瓜は、風呂場にあればよいのだよ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　安心があれば、全てが良い。&lt;br /&gt;シヴァ曰く”この世はパラダイス”なのだ。&lt;br /&gt;安心のために生きる、となると、一寸、本末転倒だが、安心あって初めて生活も成り立ってくる。&lt;br /&gt;安心があれば、様々なことにも耐えられる。&lt;br /&gt;安心が力となるのだ。安心とは強さのことだ。&lt;br /&gt;安心は、私の中にすんでいる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そして、安心が成長してくると、私や周囲のものを、安心という世界に包み込んでしまう。&lt;br /&gt;だから、ダイヴィングしていても、バイクに乗っていても、車を運転していても、静かにしているときも、安心とともにある。自然と無理はしなくなるものだ。&lt;br /&gt;だから、安心のうちに生きている。安心が自分の家となるのだよ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そして、安心は、無心から生じてくる。&lt;br /&gt;安心は、仏教から生まれた言葉である。&lt;br /&gt;真の英知と言っても良い。&lt;br /&gt;安心とは、”心ある道に在る”と言うことだ。&lt;br /&gt;例え、一寸、道を外れても、今は”正しい道に在る”という事なのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そして、禅、タントラ、ヨーガ、タオ、瞑想と言う技法は、人が”本来持っている力”を引き出す”コツ”なのだ。&lt;br /&gt;それは、復元力をもたらす。真の意味での、健康法と言ってもいい。&lt;br /&gt;ただ、物事の筋道を、一度、根に帰って、新たな視点で見直せばいい。&lt;br /&gt;初心に帰る、と言うことだ。&lt;br /&gt;慌てることはない。人生は長い。&lt;br /&gt;何たって、死ぬまであるんだから・・・・・。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　上っ面だけから見ると、魔法のように見えるかもしれない。&lt;br /&gt;だが、魔法でも何でもない。&lt;br /&gt;無理をしなければ、安心は何処にも行かない。&lt;br /&gt;知らないことは、知らないでいい。できないことは出来なくてよい。知りたいことがあれば学べばよい。&lt;br /&gt;出来ることをすればよいのだ。難しいことは何もない。&lt;br /&gt;難しいのは、頭が難しいからだ。&lt;br /&gt;だが、身体は頭より賢い。ずっとスマートなのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　荘子（老子の弟子）曰く、”易しいことは、正しい”。&lt;br /&gt;その通りである。&lt;br /&gt;”正しい”、”正”と言う漢字を良く見てみると、二本の直線の間に”止まる”、”止”と書く。&lt;br /&gt;それは、中庸に在る、という意味なのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　言葉って面白いだろう？&lt;br /&gt;安心は、何時でも、又、何処にいても、”今、ここ”にある。&lt;br /&gt;静かであっても、活動していても、スポーツしていても、安心があれば問題は少ない。無理をしないからだ。&lt;br /&gt;人は、常に、何処か特別なところばかりを探したがるが、安心はどこか特別なところにだけあるわけではない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それは、今、ここにある。&lt;br /&gt;あなたの心の中に・・・・・。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　”　オーン・ナマー・バガバティー・ヴァースデヴァーヤー　”&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　（ヴィシュヌ神、宇宙を維持する神）のマントラ。&lt;br /&gt; 　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　安心しているとき、何故か、お茶やチャイが美味いんだよ。一服しようか・・・・・。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/18690307-6066341532239944507?l=shambhalacafe.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/6066341532239944507'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/6066341532239944507'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/2011/01/blog-post_07.html' title='”安心”と言う魔法'/><author><name>Atsushi Fukui</name><uri>https://profiles.google.com/107135242134154249942</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-610505919265811447</id><published>2011-01-03T00:00:00.001+09:00</published><updated>2011-01-03T15:15:37.656+09:00</updated><title type='text'>インスピレイション</title><content type='html'>　”インスピレイション”、善いトーンの言葉である。気づき、閃き、直感、それは、ビヨンド、超越からのメッセージ。語源を辿れば、”イン・スピリット”、精神、心を生きる、と言う意味になる。心は、理性や知性では理解し難い、超越的で大きな世界にも繋がっている。人は、さまざまな”もの”を使い、頭を使い、知識を使い、体を使い、ペンやコンピューターを使い、道具を使い、お洒落をし、車や電話を使って、”物”を利用して生きているが、人、そのものの精神、スピリット、心、それは”もの”ではない。それは、根源的には、”無と言う領域（名のない領域）”からやって来るのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　一寸、イマージン、”空の向こう側”、ってのはないだろう？　空は、どこまで行っても空だ。空に外側はない。これで一寸次元が変わる。その空のなかに、太陽も、月も、地球も、無数の星たちも浮かんでいて、永遠の舞を舞い続けている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　予知とか、直観力、共時性（シンクロニシティー）という現象は、主観的な現象で、傍からは見えないのだが、あくまで”思いのほか”の出来事だ。それは、今、ここと、未知、或いは、未来との間に、何らかの接点があって起こってくるようである。内なる世界と、外の世界との間に微妙な繋がりがあるのだ。この点が、東洋思想の要と言ってもいい。それが起こった当人にしても、どうやってそうなったかを説明することは不可能なのだ。因果性も、距離の多少も、関係がない。無因で起こることもあるようなのだ。起こるときには、起こってしまう。リアルな世界ってのは、不思議が一杯なんだよ。虚偽の世界は、一貫しているんだけどね。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　宇宙の万物の間に潜在している”見えない繋がり”、それが生じることを、直感として感じたり、共時性と感じたり、物理学者にとっては、素粒子が波動に転じたり、時間が逆行したり、人は様々に感じたり体験したりするのだが、少なくとも、”考えられた事”ではなく、”知ることが出来る何か”なのである。&lt;br /&gt;考えられたことって，たかが知れてるんだよ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　少なくとも、自分が、自分以上の、何かとてつもない大きな力のあるものと繋がっていて、言葉にすると難しいのだが、巨大な連続性のある統合体と一つになっている、という気づきが起こってくる。心に力が宿ってくるのだ。波動が生じてくる。&lt;br /&gt;　今までかつて、人生で、最高に素晴らしい瞬間、と言うものを体験したことがあるだろうか？　それは、今、此処にある。それは、頭ではなく、知性ではなく、全身全霊で”判る”ものなのだ。そこに、初めて”存在する”と言う喜びがあるのだ。生きると言う”意味”を感じてしまう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そのことは、普段の身の回りにあるありふれた日常性、或いは、ややこしく複雑で面倒な世界よりも、ずっと深く、判りやすく、しかも意味のあるもので、それが身体にも、生活にも、物事にも浸透してくるのだ。普段の何気ない生が、生き生きとしてくる。全てが一つになるのだ。サムシング・クールな、何か…　マーヴェラスな何か…　”楽しみ”とは、このことよ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それは恐ろしくも、怖くもなく、苦もなく悲しみもない。辛い事などさらさらない。暑くもなく、寒くもない。エナジーを感じ、充実感がある。軽やかで、心地よく、さわやかで、静かに、さまざまな物事を、それこそ”クール”に、リアルに楽しむことが出来る。慈しみ、愛を感じられるようになってくる。喜びもあふれてくる。何の原因も、因果性（原因と結果）もなく訪れる”喜び”と言うものがある。&lt;br /&gt;　サムシング・クールなもの…　それは、創造性というエナジーだ。アムリット（甘露、サンスクリット語）という。サウンデリア・ラヒリ。美しき波動なのだ。ニュアンス的には、少し意味が違って変わってしまったが、フランス語のアムール、イタリア語のアモーレの語源となっている。瞑想する人、芸術家、探求者、発明家、と言った人たち、そして恋人たちの間には、よく体験されることなのだ。何か超越的で、何らかの新しさ、新鮮な力、魂の蘇り、のようなものを感じてしまう。Something cool.&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　中国の古い諺に次のようなのがある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;”弟子に心の用意が整ったとき、丁度、そこに師匠が現れる”&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　インドには、次のような神話がある。奥方のパルバティーが、そっと夫のシヴァの後ろから忍び寄り、両手でシヴァの両目を目隠しをした。その瞬間、シヴァの額の第三の目が開いた、と言う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　久しぶりに島に帰ってきて、今朝、近くを散歩していると、新しく出来た木工の家具屋さんが出来ていて、その店の前に大きな瓶が置いてあった。そして、そこに黄色い蓮の花が一輪、見事な姿で咲いていた。すぐ側に、高さ５０ｃｍ程の、これも見事な、木彫のヴィシュヌ神（宇宙神）の像が、涼しげに,立膝をしてまどろんでいる。インドでは黄色い蓮の花は良く見られるのだが、タイでは珍しい。しばらく眺めていると、そこに波動空間が生じてしまう。何処からともなく赤とんぼがやってきて、その花の周りを、ホヴァリングしていたのだが、その内、意を決したのか、フワッと蓮の花の花弁にとまった。一つになった。花弁も、水面も微動だにしない。見事なものだ。その瞬間から、時が止まってしまった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;”長閑さや、蓮華にフワッと、赤とんぼ”&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　所謂、快楽と呼ばれるものは、すべからく、肉体、そして欲望に負ってエナジー（霊力）を、そして体力を消耗する、と言う特徴がある。一方、至福というものは、本来、人が持っている精神のあり方に依っていて、霊体（スピリット・ボディー）に於いてエナジーが生じてくるクリエイティヴな状況なのだ。至福は、実に単純で、無垢、であることから起こってくる。&lt;br /&gt;特別な聖地や、特定の場所だけで、至福が感じられるわけではない。それは、本来、人が持っているもので、開発したり、造り上げたり、修行してどうのこうの、というものではない。ただ、再発見すればよいだけだ。すでにあるものを、見つければよいのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そこに, 間合いが生じ、微妙な、そして微細な波動感知能力もついてきて、微妙なエナジーが流れてくることを感じる事が出来るようになるのだ。いい循環に入ると、いい事ずくめなのだ。相乗効果なのだ。”間”というのは、時間にも、空間にも、距離の上でも、タイミングと言う面でも、色々なことに使える有益な知恵。それが身についてくると、”人間”と言う存在になってくるのだ。学んでおいて損はない。間という文字を見ると、門の中に日がさしている。意味は深いんだよ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　真の強さというのは、あるがままの状況に直面する勇気、と言ってもいいだろう。生きると言うことには、勇気が不可欠なんだよ。弱さと言うのは、例えば、何らかの危険や問題に直面したとき、ただ闇雲に前に進む、と言うのではな、待つ、状況を見極める、という忍耐が出来ない人なのだよ。頭でしか反応しなくなっていて、感応する心と言うか、心にゆとりがないんだよ。道に縄が落ちていても、蛇と間違えてしまう人だっているのだからね。幽霊だって出てきてしまう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　最近のアメリカの本などを捲っていると”インタービーイング”と言う言葉が良く使われている。”縁”とも訳してもいいかもしれないが、基本的には、目には見えない”絆”、或いは”間”としたい。色々な意味に使える。ある特別な、時空の、そして心にとっての英知なのだ。タオに、真如に繋がる、と言う通路と言う意味にもなる。アメリカも変わってきているだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　瞑想する人やスポーツする人は、適切なタイミングと言うものがあるだろう？　状況に合わせて、調子を合わせるのだ。早すぎても、遅すぎても駄目なんだよ。蕎麦やパスタをゆでるにも、適切なタイミングと言うものがあるだろう？　同じことなんだよ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　”インスピレイション”、ジプシー・キングスの名曲だ。いい曲だね。テレビ時代劇、鬼平犯科帖のテーマ音楽になっている。映画は池波正太郎の原作で、シナリオも演出も素晴らしく、主役の中村吉衛門や脇を固める役者も揃っている。何時も、楽しみにしている映画である。そして、日本の時代劇にスパニッシュ・ギター、うまく調和するものだね。心が弾み、生き生きとしてくる。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/18690307-610505919265811447?l=shambhalacafe.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/610505919265811447'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/610505919265811447'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/2011/01/blog-post_03.html' title='インスピレイション'/><author><name>Atsushi Fukui</name><uri>https://profiles.google.com/107135242134154249942</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-2105742797396948056</id><published>2011-01-02T00:00:00.003+09:00</published><updated>2011-01-02T00:00:04.786+09:00</updated><title type='text'>ハミング</title><content type='html'>　真によき場所、よき状況にあるとき、独りでにハミングしてしまうことがある。何かが原因で嬉しくなる時、仕事が上手くいったり、試験にパスしたり、人の 病気が回復したりとか、いいニュースが,情報として入って来る。嬉しいことである。又、そうではなく、何の原因もなく、何の因果性もなく、何の理由もなく 喜びがこみ上げてくることがある。喜びとは、エナジーだ。気づき、直感（インスピレーション）が起こっている時だ。これまた素晴らしい。それは、ビヨンド からのメッセージ。時空を超えた宇宙通信だ。それは、音もなく、目には見えず、インターネットでもない。だが感能する心さえあれば、感じることができる。 その繋がりを、”インタービーイング”と言う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　宇宙の万物の間には、目には見えない、隠れた結びつき、絆のようなものが存在するのだ。霊性、スピリチュアリティに触れると、心にも自ずとセンターがで き、整って生き生きとしてくる。風景の焦点が変わってくる。そして、内にも、外にも、さまざまな、新たな繋がり、新たな価値観が生じてくるのだ。  どんな自己欺瞞も、思考もなく、ただあるがままの現実に直面する時、物事や出来事の中に”光”が見えてくることがある。それが自分の中の深いところと、何 らかの具合でシンクロすると、内なる世界、心の世界と、外の世界との間にある通路、インタービーイング（絆、一体性）が開通するのだ。それは神通力と言っ てもいいが、意識と無意識とをつなぐ通路なのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　  ”開”という漢字を見てみると、門の向こうに鳥居が見えるだろう？　そこに、タオ、神、スピリットがあるってことなんだ。それが”開”なのだ。でも人の意 識が眠りこけ、無意識で心が閉じていたら、開も糸瓜（へちま）もなくなってしまう。全てが閉じてしまうのだ。悪循環はここから始まってしまう。何事も、そ の人次第なんだよ。この世は…&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　いろいろ探求していくと、自分の周囲、世界という”外部にあるもの事”は、実は自分の”内面的な状況の反映”なのだ、ということがわかってくる。自分のあり方次第で、その世界のあり方、見え方にも変化がおきるのだ。&lt;br /&gt;宇宙とは、自分に対する応答、反映なのだということが感じられる。&lt;br /&gt;つまり、極論すれば、あなたが笑えば、世界も笑う。静かであれば、宇宙もそのように共鳴する。&lt;br /&gt;根本原理がわかれば、対応の仕方も自ずと判って来るではないか。&lt;br /&gt;私とは、一体全体、何なのかと言うことも判って来る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; 　普段は、表層意識、個別意識、自我意識という、いわば”鎧”のようなものを、自己の代用品として、仏陀の言葉によると、玉葱のごとく幾重にも着て、心も閉ざしているので、通路も開きようがなくなってしまうのである。&lt;br /&gt;当然、閉ざされて、心にも慈養も届かず、無神経になってしまうのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それが普通と思い込んで、習慣になってしまうと、自我意識という偽者を、真の自分と勘違いし、自分がどういうものなのかも知らぬままに、霊的、情緒的にも、心も感情も安心して育てたり、成長する状況とは大きくかけ離れているようになる。&lt;br /&gt;生きる意味も知らずに、心も魂も、煮え沈んでいくかの様になってしまうのだ。&lt;br /&gt;苦は必然的に起こってくる。&lt;br /&gt;その反動として、無闇に、刺激的なことを求めたり、闇雲に突っ走ったり、殊更、興奮や、快楽、権力を求め、空しいながらも、精神性の貧しさや寂しさを何とか補おうとする。&lt;br /&gt;そして、苦しいこと、憂鬱、悲観、怒り、憎らしいこと、嫉妬、恨み、辛みは、理性によって、潜在意識、無意識へと仕舞いこまれてしまうのだ。&lt;br /&gt;とりあえずは、一応、表面的な体裁は平静に保てるからだ。&lt;br /&gt;だからって、それで解決したわけではない。何も解決していない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　真底、安心しているわけもなく、常に、何かに追い立てられ、夢にうなされ、理由のわからない不安に慄いているのだ。&lt;br /&gt;しかし、それにも限度というものがある。&lt;br /&gt;許容量というものがある。&lt;br /&gt;限度を超えれば、爆発したり、病気になったり、狂気が起こったりする。&lt;br /&gt;少なくとも、健康とはいえない。&lt;br /&gt;普通ではないのだ。&lt;br /&gt;生は、人のマインドから見ると、矛盾しているように見える。むしろ、虚偽や、何らかの観念、哲学のほうが一貫しているように見えるものなのだ。生は人のマインドや都合など眼中にないのだよ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　殆どの病気、苦の原因は、こういった過去の残存物、心のしこり、心のわだかまりが、潜在意識、無意識の中に集積されていることにあるからだ、と言われている。&lt;br /&gt;病気というものは、本来、気の病、心の病から起こってくる。&lt;br /&gt;それが、インサイド・アウト、内なる何かが、身体に現れた、ということなのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ヒンドウー、仏教の人たちは無論だが、最近ではイスラム教徒やキリスト教徒もいるらしく、ガンガー（ガンジス）に詣でる人が、後を立たない。世界中からやってくる。ヴァラナシは、今や世界的な聖なる空間となっているのだ。&lt;br /&gt;心の奥深くこびりついた垢を洗い流す為だ。手遅れになる前にやってくるのだ。&lt;br /&gt;そこで何が起こるかというと、シヴァ（言葉を変えると、純粋意識）と繋がる事ができ、その結果、意識に目覚めることで、意識にべっとりとついた過去の残存物を、綺麗に洗い流してくれる。&lt;br /&gt;ヒンドゥーの人達は、心を込めて、この場所を、”カーシー（光の都）”と呼ぶのだ。&lt;br /&gt;古代から伝わっている呼び名なのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　だが、上っ面を見ていてもカーシーは見えてこない。&lt;br /&gt;見ると言うことだけではなしに、まず、感じること、真底、深く感じることができるようになると、見え方にも変化が訪れる。&lt;br /&gt;風景の焦点が変わるのだ。&lt;br /&gt; 意識が、目覚め、整うと、二次的に心も安心し、くつろぎ、安定して来る。&lt;br /&gt;浄化、つまり”禊”ということなのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　慌てることなく、何日もかけ、暫く時間をかけ、道の真ん中にどっかりと座っている牛に、りんごでもあげて、バングラッシー（聖なる飲み物）やチャイを楽しみ、そこの空気と一つになっていると、やがて馴染んでくる。&lt;br /&gt;寛いで、自然体になり、明晰になり、波長も合ってくるに従って、魂も身体も若返ってくる。心も生き生きとしてくる。&lt;br /&gt;基本的には、意識が目覚めると、全てが良くなってくる。&lt;br /&gt;世間、世界と言う、泥にまみれた世界から蓮の花が咲くとき、茎は泥の中の根と繋がっているが、花弁には塵ほどの泥もついていない。&lt;br /&gt;逆に、泥がなければ、そして水がなければ、蓮の花はない事になる。&lt;br /&gt; フロウ（flow)、流れていること、エナジー、命の流れているものを、或いは、流れていることを、”フラワー（flower)"、”花”、という。&lt;br /&gt;”エナジーが流れていること”、が語源なのだ。&lt;br /&gt;それが生命の、そして美の象徴となっている。&lt;br /&gt;花とは”真に生きている”と言う意味なのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　光明、無背面というだろう。花はそれを体現しているのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　 意識がクリアになれば、ものごとがリアルになってくる。&lt;br /&gt;身体には、重力が働く。思考にも重力の影響が現れる。&lt;br /&gt;だが、純粋意識には重力はかかわらない。&lt;br /&gt;意識は無重力だし、色も形もない。&lt;br /&gt;現代物理学では、まだ推測のうちなのだが、”反重力”と言うものが判ってくる。&lt;br /&gt;普段の何気ない生活の中にも、何か不思議な力が、そこに浸透していることが見えてくる。&lt;br /&gt;外と内とが交流している。&lt;br /&gt;重力と反重力とが交差して綾となっている。&lt;br /&gt;三途の川と極楽とが一つになっている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ヴァラナシはただの町ではない。聖なるものと、混沌とが、調和して一体になっている不思議な空間なのだ。暫く暮らしてみると、よく判る。素晴らしい学びとなるところだ。こつがわかると、今度は、何処ででも応用できる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　気づけば、世界は、もうすでに新しくなっている。インタービーイングも開通している。新鮮さが始まっている。楽しくも、嬉しい事、素晴らしい事、幸福感を堪能することができる。&lt;br /&gt;あらゆるものが美しい。あらゆる物が素晴らしい。全てのものが、全てのもの以上のものを包括し、内と外とが、意味のある一致をしてしまう。生き生きとしているときは、些細なことでも、具合良くなってしまう。何をやっても美味くいってしまう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　シング・サムシング・シンプル・・・・・・、♪　♪　♪　♪　&lt;br /&gt;　 ”シング・サムシング・シンプル”という曲は、ジューン・クリスティー歌うところの、ジャズの小唄だが、リズミックで、春の小川のように、明るく、爽やかな曲で、ハミングするには丁度よい。メロディーラインもシンプルだ。もうCD化されてるかもしれない。&lt;br /&gt;まるで煙管（きせる）のようだが、出だしのところと、最後のところしか、歌詞を覚えていないので、途中はハミングするしかないのだ。&lt;br /&gt;学生時代によく聴いていた曲で、彼女が、ご主人のボブ・クーパー（テナーサックス奏者）とともに日本に来たとき、たまたま会うことができ、たので、殊更、印象も深かったのだ。&lt;br /&gt;素敵な人達だった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　誰しも、心に何かしらの歌を持っているものだ。昔の人だったら、小唄や都々逸、詩吟や浪花節の一節が出てくるところかもしれない。ジャズのスタンダード ナンバーかもしれない。若い人なら、はやり歌、ポップスやロックかもしれない。1970年代、80年代のロックには、良い曲が沢山あったね。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分が、思い込みではなく、”真の自分である事”、を自覚する以上に素晴らしいことはない。これこそが、生きる意味でもあり、又、目的でもあるのだと思 う。そこから様々な価値観が生じてくる。新たな多様性も生じてくる。そこは、"真によき場所”ザ・プレイス・アイ・ラヴなのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　今、此処が”真の我が家”となる。 今、ここにあるものは、何処にでもある。ここにないものは、何処にもない。今、ここに、全てがある。これは、生における究極の次元であって、これ以上のものは、何もない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そんな時、ハミングが、独りでに起こってくる。シング・サムシング・シンプル・・・・♪　♪　♪　♪・・・・・・。あまり速いテンポでもなく、といって スローでもなく、”メディアム・バウンス”辺りが、今の私には丁度よい。”中庸”がいいのだ。それは、様式でもないし、観念でも、道徳と言うものでもな い。無論、頭でもないし、理論でもない。”心の在りよう”を言っているからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　究極とは、そして楽しみとは、この事よ。極端というものは、何であれ、片手落ちになってしまうのだ。極端を進めれば、自ずと、その反対のものが現れてく る、のが道理である。バランスが悪いから、アウト・オブ・ファンクション、何も機能しなくなくなってしまうのだ。秩序が狂って、バラバラになってしまうん だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　  中庸にあるとき、自ずとバランスが取れ、両極端の枝葉や、過去の記憶、未来への期待も、トータルに、自在に、そしてより有意義に使うことが出来るではない か？　  ”両翼を広げる”って事は、そう言う意味なのだ。中庸から起こってくるのだよ。中庸にちじこまっている、と言うのではないのだ。全てを、包括できるのだ。 未来が生じてくるだろう？　心身ともに、よい状況にあるってことだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　春が来れば、草は独りでに生えてくる。当たり前の話だが、でも、よくよく考えてみれば不思議な事なのだ。　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;　　　　　　&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　”ア　サウンド・マインド　インナ　サウンド・ボディー（弾む心、響く身体）。”&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　何よりも、此れだよね。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/18690307-2105742797396948056?l=shambhalacafe.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/2105742797396948056'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/2105742797396948056'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/2011/01/blog-post_02.html' title='ハミング'/><author><name>Atsushi Fukui</name><uri>https://profiles.google.com/107135242134154249942</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-3805935967026376071</id><published>2011-01-01T18:00:00.001+09:00</published><updated>2011-01-01T18:00:04.404+09:00</updated><title type='text'>禅問答</title><content type='html'>&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;《その一》&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　弟子が師匠に尋ねる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;”暑さ、寒さを避けるには、どうしたらよいでしょう？”&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　師が答える。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;”暑くもなく、寒くもないところに行ったらどうだ？”&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　”そこに行くには、どうやって行ったらいいのでしょうか？”&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　”熱くなれ、寒くなれ”&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　暑さ、寒さというものを真に体験すれば、暑くもなく、寒くもないところが何処にあるか、が判るのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;《その二》&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　中国の皇帝が、禅師に訪ねる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　”人が死ぬと、何処に行くのでしょうか？”&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　師が答える。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　”何故そんなことを尋ねなさる？”&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　”貴方は、禅のマスターではありませんか？”&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　”そのとおり、如何にもそうだが、まだ死んではおらぬ”&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;《その三》&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　弟子が師匠に尋ねる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;”仏性というものは、どういうものなんでしょうか？”&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　師が答える。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;”朝飯が、冷めてしまうぞ”&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;《その四》&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　弟子が師匠に尋ねる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;”自由とは、何でしょう？”&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　師が答える。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;”足を上げてみろ”&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　弟子が、片足をあげて見せた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;”それが自由だ。もう一方のほうも上げてみろ”&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　弟子が答える。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;”それは、無理というものです。ひっくり返ってしまいます”&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;”それが、責任、というものだ。自由があれば、責任もついてくるのだ。どっちかだけでは、何も成り立たないのだ”&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;《その五》&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　弟子が師に問う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;”瞑想中に、タバコを吸っても良いでしょうか？”&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　師が答える。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　”何を馬鹿なことを言っておる、とんでもない”&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　”それでは、タバコを吸っているときに、瞑想してもよろしいのでしょうか？”&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　”それは、結構、大いによろしい、どんどんやりなさい”&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　禅という、世にも稀なる宗教は、人の願望や望みをかなえる宗教ではない。人が、すでに持っているもの、”宝”に気づかせる宗教なのだ。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/18690307-3805935967026376071?l=shambhalacafe.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/3805935967026376071'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/3805935967026376071'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/2011/01/blog-post_01.html' title='禅問答'/><author><name>Atsushi Fukui</name><uri>https://profiles.google.com/107135242134154249942</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-5978316353550046551</id><published>2011-01-01T00:00:00.000+09:00</published><updated>2011-01-01T00:00:06.613+09:00</updated><title type='text'>初めに、悟りありき</title><content type='html'>　禅は、ないものを欲しがらせるのではなく、もうすでに持っているものに気づかせる宗教。&lt;br /&gt;それが禅であり、もっともユニークな宗教の一つである。&lt;br /&gt;初めから、人を罪人扱いするのではなく、根本的に、人は生まれながらにして仏性（ブッディー、英知）を持っていると言う、仏陀のヴィジョンから起こっていることなのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　始めに、悟りありき”。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; 禅は開悟から始まる。&lt;br /&gt;人が幸福でありたい場合、まず’ここにやってこなければならない。&lt;br /&gt;ここがスタートラインとなる。ここと言うのは、特定の場所ではない、ある次元のことである。&lt;br /&gt;ゾクチェンと言う、チベットの宗教も、悟りからはじめる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　禅は、言語によらず、悟りと言うヴィジョン、啓示、それは人それぞれによって異なるのだが、それを重要視し、&lt;br /&gt;全てのもの、人だけでなく、動物、森羅万象、草や樹、石や水の流れにまでもつ仏性について、直に気づきを得ることであって、知識も何も必要ない。&lt;br /&gt;気づきは、意識に直結した出来事なので、頭とは無関係なのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　こんな逸話が残っている。&lt;br /&gt;夜、遅くなって、あたりはもう真っ暗だ。&lt;br /&gt;師が、弟子に声をかける。&lt;br /&gt;”明かりを持ってきておくれ”&lt;br /&gt;”はーい、只今”と弟子が答える。&lt;br /&gt;弟子がろうそくに火をともして、師のもとに明かりを持ってくる。&lt;br /&gt;ろうそくを差し出すと、師は”フーッ”と、その火を吹き消したのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その瞬間、その弟子は開悟したという。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　悟りとは、意識の目覚め、内なる光明、無意識状態からの解脱である。&lt;br /&gt;魂の蘇りと言ってもよい。&lt;br /&gt;言葉の表現はそれこそ沢山ある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この師の、教え方は、無意識のうちにも、弟子の意識がろうそくの光を捉え、その残像効果を利用して、意識を目覚めさせた、と言うことなのだ。心理的効果、残像効果が決め手となっている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　タントラにおいては、その意識の目覚めそのものを”シヴァ”と呼び、禅においては、”これ”と呼んでいるようである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/18690307-5978316353550046551?l=shambhalacafe.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/5978316353550046551'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/5978316353550046551'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/2011/01/blog-post.html' title='初めに、悟りありき'/><author><name>Atsushi Fukui</name><uri>https://profiles.google.com/107135242134154249942</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-4756745497662831003</id><published>2010-12-12T00:00:00.000+09:00</published><updated>2010-12-12T00:00:05.607+09:00</updated><title type='text'>転（まろばし）</title><content type='html'>　柳生新陰流の、蘊奥（うんおう）に、”転（まろばし）”という極意がある。それは、刀法でもあり、又、心の技法、タントラでもある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　剣禅一如と言うとおり、それは、剣法であり、技法であり、膳の心にも繋がり、したがってさまざまな物事に応用が利く。&lt;br /&gt;何であれ、技を学ぶと言うことは、自分を学ぶこと、心を学ぶことであり、それは、内在する仏陀を学ぶことである。&lt;br /&gt;、&lt;br /&gt;　転（まろばし）は、剣法として、敵と対峙したり、その折、”陽だまりの猫”の如く、安らかな心を保ち、敵の動きや状況に応じ、自在に変化、転化、対応することを大事とした。したがって、形や外見にとらわれず、昔風に言うと、常形を持たず、構えもない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　「転（まろばし）」とは、”己を、平らな盤の上に置いた丸い玉と見立て、自在に転がり、自在に転がす事”と言う技法のことである。盤が大きすぎても、修行にならないし、さりとて、小さすぎても、現実離れしてしまう。自分の存在を見極めて、それに応じたサイズにするのがよい。しかも、盤から玉が落ちないようにするには、それなりの技もコツもいる。集中力もバランス感覚も、育ってくる。昔の、剣術、忍術といった、戦いの技法の多くは、猫から学ぶところ、少なからずのようである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　だが、剣術、剣法は知らずとも、刀など持たなくとも、敵などいなくとも、状況にあわせて自在に変化し、対応する心の技法でもあるわけで、女性でも出来る。幸いにも、今や刀も必要ないし敵もいない現代であっても、言葉を超えた、知的な対応能力は、何時の世も必要となるのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　徳川家康が、天下を取り、本人にとって、剣術は無用のものとなってからは、もっぱら、この技法を修行していたと言われる。この技法一つで、徳川幕府を安定せしめたとも言われている。丁度、ゴータマ・シッダルタという人が、アナパナ・サティーと言う、呼吸を見守る技法、唯一つで、悟りを得て、仏陀となった話と似ていないこともない。今も、時々、バスや飛行機を待っているときなど、思い出すようにいて、まろばしを楽しんでいる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　柳生新陰流の極意、伝えたよ。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/18690307-4756745497662831003?l=shambhalacafe.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/4756745497662831003'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/4756745497662831003'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/2010/12/blog-post_12.html' title='転（まろばし）'/><author><name>Atsushi Fukui</name><uri>https://profiles.google.com/107135242134154249942</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-4460069101472133235</id><published>2010-12-09T00:00:00.000+09:00</published><updated>2010-12-09T18:14:55.113+09:00</updated><title type='text'>禅とタオと共時性（シンクロニシティ）</title><content type='html'>　”花の説法”というのがある。&lt;br /&gt;これは、仏陀に纏わる有名な話なので、多くの人が知っているはずだ。&lt;br /&gt;タイやラオス、インドの人も知っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ある日、仏陀が一厘の蓮の花を持って、弟子たちの前に現れた。&lt;br /&gt;だが一言もしゃべらない。&lt;br /&gt;長い時間が過ぎたころ、弟子の一人、マハカーシャパが、外の樹によじ登って、この様子を見ていたのだが、&lt;br /&gt;突然、大笑いを始めた。&lt;br /&gt;他の弟子たちは、狐につままれたごとく、何がなんだかさっぱり判らない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　すると、全てを了解している仏陀は、弟子達に、”言葉によるもの葉、お前たちに与えよう、だが、言葉によらないものは、この花とともに、マハカーシャパに与える。”&lt;br /&gt;といった。&lt;br /&gt;これが禅の起こりである。今から２５００年ほど昔の話である&lt;br /&gt;禅の開祖は、仏陀でも、マハカーシャパでもなく、二人の間に起こった共時性（シンクロニシティー）、以心伝心、深い気づき、を開祖としているのが、まことにユニークだ。&lt;br /&gt;言葉によらない教え、無の教え、と言うのが、仏陀の本位であっただろう、と推測される。&lt;br /&gt;だから、本尊も、経文さえも必要がなかったのだ。&lt;br /&gt;言葉による教えと言うものは、二元性、その性質上、遠回りなってしまうのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　老子も言っている、”語られうる道（タオ）は、本物のタオ（道）ではない”、と。&lt;br /&gt;直感的にしか経験できない啓示、物事の本質は、言葉では適切な説明が出来ないのである。&lt;br /&gt;それに知識で禅を知っても、何の意味も力にもならないのである。屁のツッパリにもならない&lt;br /&gt;頭は問題にされていないからだ。頭はリアリティーとは繋がっていないからなの&lt;br /&gt;もっと深い、根源的な心、魂、意識のだんかいまでおりていかねばならない。根本が変われば、頭はどうとでもなるのである。&lt;br /&gt;それは、全ての生き物が持つという仏性（ブッディー）についての、意識の目覚めと言ってもよいが、神秘的な気付きを得ること、&lt;br /&gt;そして、それを通して一つの大きな全体性、連続性に繋がっていることを、自分がその一部であることを、体験を通して知ること、なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　タオが今や、欧米の学校、社会や人たちに浸透しつつあるのは、タントラや禅の研究の他に、Ｃ．Ｇ．ユングと言う、スイスの精神学者による、” 共時性（シンクロニシティー）についての理論”を発表したことに始まる。共時性については、スティングも歌っているが、因果関係に依らず、意味のある二つの出来事が、一致する原理とされている。&lt;br /&gt;”意味のある一致”といわれる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　東洋の心と言うのは、人と他の人達、森羅万象、宇宙との繋がり、”絆”を理解することと言っていい。&lt;br /&gt;そこに安心感が生じてくる。&lt;br /&gt;孤立して孤独な人と言うのは殆んどいない。そこに欧米の文化と東洋の文化との大きな違いが生じてくる。&lt;br /&gt;人々は、無論、日常生活にも浸透し、それを知ろうと知るまいと、我々の多くは、知識や常識にのっとられる前、幼児期に、遊びを通して、体験しているはずなのである。&lt;br /&gt;共時性が起こると、相反するものが一致したり、直感的に、あらゆるものに繋がりを感じられるものなのである。&lt;br /&gt;まるで、自分の心に、新たな、出入り自由な扉が出来たかのようである。&lt;br /&gt;その扉を開けると、エナジーを感じ、恩恵を感じ、共有させようとすると、拡張作用も起き、共鳴、共感が起こってくる。&lt;br /&gt;具体的な事実に沿った考え方、論理的な考え方（アメリカではストレート思考と言うが）では、絶対に交差することのないゾーンである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　未だに、直感がどうして起こるのかを、言葉で説明できる人はいないようだが、でも、直感と言うものを誰でも知っている。&lt;br /&gt;それは事実以上に価値のあるリアリティーなのだ。&lt;br /&gt;私たちの内なる心、魂と言ってもよいが、それと外的な出来事が、何らかの具で結びついていると言う感触がまず不思議なのである。&lt;br /&gt;共時性は、隠れたタオの表れと感じる人もいる。タントラでは、導きの魂という。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それは自然発生的に生じ、何の因果関係とも無縁に、インタービーイング（縁を生じ）宇宙的な広がりを持って展開する。&lt;br /&gt;無論考えても始まらない。すべては、思いのほかの出来事なのだ。&lt;br /&gt;無論、面白み、喜び、楽しみを感じる。&lt;br /&gt;特に喜びと言うのは、気づいていないかもしれないが。エナジー現象なので、超越性をも感じてしまう。&lt;br /&gt;言葉を変えると、新しい新世界、新しいことが目の前に現れたと言うことなのである。&lt;br /&gt;可能性の実現と言ったらいいかもしれない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　カルロス・カスタネダ描くところの、ドン・フアンと言う、ヤキ・インディアンの呪術師に弟子入りする話であるが、’７０年代には、山手線の中で、ボンベイのリキシャに乗って、カトマンドウーのチャイやの片隅で、夢中で読みふけったものだ。&lt;br /&gt;その本の中で、ドン・フアンが、問題を提示する。&lt;br /&gt;”この道は、心（ハート）を持っているか？”と問う場面がある。&lt;br /&gt;感動的なシーンである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;心ある道とは、一つの大きな全体性に繋がると言うことである。&lt;br /&gt;当時は、みなが全体性を回復しなくてはと躍起になっていた。&lt;br /&gt;無論、誰とは言わないが、我々はそれを達成した。&lt;br /&gt;今は、その事を思い出しているときでもある。&lt;br /&gt;心と言うものは、ある意味で厄介ではあるのかもしれないが、理性知性では、把握できない。&lt;br /&gt;かも、人はその心に従って生きようとする、&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/18690307-4460069101472133235?l=shambhalacafe.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/4460069101472133235'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/4460069101472133235'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/2010/12/blog-post.html' title='禅とタオと共時性（シンクロニシティ）'/><author><name>Atsushi Fukui</name><uri>https://profiles.google.com/107135242134154249942</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-981090031840278971</id><published>2010-11-29T00:00:00.000+09:00</published><updated>2010-11-29T05:02:59.591+09:00</updated><title type='text'>知のオデッセイ Part5</title><content type='html'>　人には知性というものがある。だれか特別な人だけが持っているわけではない。誰しも知性を持っている。木にも、草にも、動物にも、微生物だって持っている。それぞれが、それぞれの生に合った知性を持っている。一つのものさしでは計れない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　数学の得意な人、論理の組み立てが見事な人、商売やビジネスに、知性を発揮する人もいる。音楽や、芸術に優れた人もいる。それぞれの分野、分野の外にも、ここの知性は働いている。頭の切れる人、センスのよい人、専門知識の多い人、どうりを知っている人、自分を知っている人、心やさしい人、スマートな人、粋な人・・・・。色々な人がいる。そこにさまざまな知性のあり方や使い方がある。人それぞれが、自分の得意分野を中心にして、知性を育てている。　知性は、美と同様に、価値のあるものだが、一言で定義できるようなものではない。知性の特徴は、ある事の一部を、部分として鮮明にする。役に立つのはいうまでもない。だが全体性を捉えることはない。知性は、分析し、分割し、論理立てるにはよい。だが余計なもの、物指しにあわないもの、枠に入らないものを排除してしまうという特性がある。ここに知性や文明の悩み、苦というものが自ずと生じてくる。論理的や科学的な姿勢や方法だけで、物事のありよう、全体性を理解することはないがしろにされてしまう。一つの世界の、半分しか見ていないことになる。視力がないのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　”知る”ということは、単にその対象の上っ面を眺めていることではない。状況として、まず、”知る者、知ろうとするもの”、”自己性”というものが必要だ。それなくして、何も成り立たない。”知る”ということは、考える、ということではない。知らないから、仕方なく考えるのである。真に知っていれば、判っていれば、考える必要はない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そして、”知られるもの”、対象、それは、人でも、物でも何でもよい。知るものと、知られるもの、とが生じれば、自ずと、関係性、縁、英語だとインタービーイング、最近よく聴かれる言葉である。つまり”知ること”を理解することである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　仏陀はこの知ること、にあることを、正念と呼び、大事にしたそうである。すべからく、知るとは、そして、リアリティーとは、三位一体なのである。どれがかけても、実在性はなくなってしまう。知るという行為は、そう単純でも、いい加減なものでもない。それは”存在に深く入り込んで、理解する”ということだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自我という代用品が落ち、”私”、即ち、自分という宇宙的な出来事の機能、そして総体が、一つの”まとまりとして”、理解でき、より大きな”存在の全体性（タオ、ブラフマン）と繋がったとき、理解できたとき、意識の目覚めというものが起こってくる。悟りといってもよいし、光明と言ってもよい。それは、”判る”ものなのだ。そして幸福感が生じてくる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　世間にあって、世間に対応していても、世間に惑わさなければ、人は明晰でいられる。それは人を鋭敏にし、寛ぐゆとりを与え、微妙で、微細な、波動感知能力を高め、エナジーをもたらす。&lt;br /&gt;物事が生き生きとしてくる。幸福も生命力もそこから生じてくる。”これ”こそが生きる意味でもあり、目的でもあるように思う。究極的には、人は、例え無意識ではあっても、幸福を目指しているのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それは形のあるものではない。なぜなら、生きているからである。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/18690307-981090031840278971?l=shambhalacafe.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/981090031840278971'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/981090031840278971'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/2010/11/part5.html' title='知のオデッセイ Part5'/><author><name>fortunesawada</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05592192894946341165</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-1589837679079490554</id><published>2010-10-08T00:00:00.002+09:00</published><updated>2010-11-29T05:06:55.435+09:00</updated><title type='text'>円を楽しむ（エン・ジョイ）</title><content type='html'>　上善は水の如し、というだろう？　命のエナジーの流れというものは、水とは違うが、水に似た働きをする。それがタオのエナジー、宇宙のエナジーというものだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div&gt;　水はすべての生き物を生かし、川底や岸辺の形、石や岩、あらゆる状況に逆らわず、右に左に曲がりつつ、重力にも逆らわず、行く手に抵抗がない方向に進み、滝があれば落ち、柔らかに流れていく。とがった岩も、いつしか角が取れて丸くなってしまう。本当の力というものは争わないものなんだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;　水の流れを、流れるままに眺めていると、そのリズムやタイミング、調子によって、思いもかけないものやイメージが見えてくることがある。勢いよく、よどみなく、水が流れている様子は、なかなか見ごたえのあるものである。春から秋にかけて、渓谷の森は瑞々しく、また、秋には紅葉が美しい。その渓谷の森に中を一筋の渓流が流れている。水が岩にはじけ、木漏れ日を浴びて、水しぶきが眩しい。時には、虹も現れる。水はすべての生き物を生かし、しかも、おごらず、誇らず、恩も着せない。川は名詞ではない。流れていること、動いていることが実態だ。川は、川しているのだ。それは動詞なのだ。川は歌っているのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　物心ついてから、よくバイクで、奥多摩の渓流に行き、毛ばりを振りながら、水の流れを眺めていて、”水ってすごいなー”と感心したものだ。高校生から大学生の頃で、丁度、老子を読み始めていた頃のことであった。水の流れる音を聴いているだけで、心が和んだものだった。今でも、それは最高の音楽と心得ている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;　一見なんでもない、平凡な遊びだが、裸で自然と向き合い。自然をじかに呼吸して、自然の中に溶け込んでいくことができる。それはエクスタシーのようなものでさえあった。自然や宇宙を学ぶには、これ以上のものはないと思う。そこに生きとし生けるものへの共感も生じてくるのだ。奥は底なしに深く、広く、生を学び、知恵を学び、風情を楽しむ。風流を楽しむ趣も大きいのだ。無論、体は丈夫になり、スピリットというものも知り、直観力もついてくる。したがって精神の成長も、可能となってくる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;　幸福なときというものは、時間の質（クオリティ）が違ってくる。空気も違ってくる。この質、クオリティということに気づくと、物事や物質の品質ということではなしに、ものでないことの質というものがなんとなくわかってくるものだ。この知恵が非常に生きていくうえで大切となってくる。なんであれ、深い木月は、能力の源なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;　今、この瞬間、というのは、現存する唯一の時間である。私たちの多くは、過去の記憶と、未来への期待という時間の中でしか、ほとんど生きておらず、つい、今という、この瞬間を見過ごしてしまう。でも、まれに、何らかのきっかけで、今、現在という時間のない次元に触れることもあるのである。この今という、時間のない次元にこそ、生の秘密が豊富に隠されえている、ということにも気がつくのだ。そこは生のエナジーにあふれている。世界的に見ても、いまや気づいた人は少なくはない。特に欧米の瞑想ブームは盛んになりつつある。無心であって、時には充満している、生の不思議な躍動感に、新たな一面に驚きを禁じえなかったのであろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;悟りというエナジーの流れを、自分の内側に感じる事と、興奮や高揚感と次元が違う。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;混同しないようにしたい。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;興奮は、欲望や何らかの刺激を受けたときに起きる緊張といったらいいかもしれない。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;一方、悟りのエナジーは、今もそうなのだが、うなじから、肩、脊髄を通して、流れてくる流れである。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;健康なら、抵抗もストレスもなく流れ続毛、体中を循環し、隅から隅まで、全宇宙を潤していく。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;タオのエナジー（タントラのエナジーといってもよい）葉、あたかも、永遠から、沸き出る泉のようである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;　そこに思いのほかの美しさ、静けさ、驚き、生命感、安心、楽しみが満ちている。よく空の下には新しいものは何もない、といわれている。さにあらず、対象に責任はない。ものに責任はない。目だけが古くなってしまっている。感じるハートがなくなってしまっている。思考というものは、記憶の中だけしか働けない。記憶の外や、道の中では、まったく役に立たない。つまり思考というものは最小限のものしかもたらされないが、感覚というものは、ハートがあれば、今、現在、最大限のものをもたらしてくれる。&lt;br /&gt;&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;　思考を通じて、”存在”に至る道はないといわれる。考えてどうなるものでもない。ハート、感じる能力、受け入れる能力（空性）、感覚を通じて、深めていくのが唯一の道なのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;　今、海辺にあって、渓流を思うのは”初心に帰る”ということかもしれない。それは多少なりとも、力がついてきたということかもしれない。また、十分に生きたということかもしれない。そして、理性を超えた、知の道、自我を超えた、本来の自己が生じてくるのだ。円がひとつ完成する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　海の釣りも面白いのだが、渓流のフライ・フィッシングは、また、格別なのだ。バックストロークにゆとりを測り、大きなループを造って、丁度、鞭のように、糸の重さを利用して、フライをキャストする。こつがわかると難しくはないのだ。毛ばりが、フワット、目的のポイントに着水し、流れに乗せてしばらく眺めていると、突然水しぶきが上がり、美しい魚体が跳ね上がる。息が止まるほどスリリングである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　最近、魚を釣ること事態はどうでもよくなってしまったのだが、時に、ヒマラヤ、タイ、マレーシアあたりの源流を訪れ、魚の姿や、様子、渓流の流れという、原始の世界の魅力は尽きないものである。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;流れはやがて自分の中で、円となり、宇宙となり、そして、円が完成したとなれば、その円を楽しみたいものである。新たな楽しみの次元が生じてくるやもしれない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　今、目を閉じると、何か自分の内側の深いところから、闇の中に、乳白色の環が、泉がわくように、いくつも現れては、消えていく。何十もの環が現れては消えていく。オリンピックみたいだ。吉祥だ。私の中の無意識が、OKといっているようである。宇宙に祝福されているようだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　赤とんぼが、飛び始めた。何十匹もいる。二匹つるんでいるのもいる。かわいいね。ライムソーダの冷えたのがほしいね。シュウェップスがいい。&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/18690307-1589837679079490554?l=shambhalacafe.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/1589837679079490554'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/1589837679079490554'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/2010/10/blog-post_08.html' title='円を楽しむ（エン・ジョイ）'/><author><name>fortunesawada</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05592192894946341165</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-2710372599713951486</id><published>2010-10-01T00:00:00.000+09:00</published><updated>2010-10-08T20:40:58.124+09:00</updated><title type='text'>南山寿２</title><content type='html'>しばらく前のブログ”南山寿”で、宿題がありました。&lt;br /&gt;そのいわれや深い意味についてです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中国から来た言葉であろうとめぼしをつけ、友人の中国人に聞いて見たところ、やはり、的を得ていて、”南山寿”は”ナンザンスー”と呼び、そのいわれは、昔中国の南方に、タオ（道）の人、禅の人、賢人たちが集まって、末永く、楽しみ多い、人生を送っているという山、南山という山の伝説になっているのだそうである。日本では単に長寿という遊び言葉になっているとされているが、ただそれだけではなく、自由で’豊かであったらしい。&lt;br /&gt;いわば、南方浄土、パラダイスという事らしいのだ。&lt;br /&gt;禅やタオ（道）の人たちが作った言葉らしい。&lt;br /&gt;チベット、インド、ネパールのシャンバラとも重なってくる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;友人の中国人に言わせると、”もうそこにあなたはいるじゃないですか？”&lt;br /&gt;という。こりゃ一本取られたかな？&lt;br /&gt;そこで言い返してあげた。”よろしく、先輩”と。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/18690307-2710372599713951486?l=shambhalacafe.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/2710372599713951486'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/2710372599713951486'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/2010/10/blog-post_01.html' title='南山寿２'/><author><name>fortunesawada</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05592192894946341165</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-3857540286996720989</id><published>2010-09-14T15:18:00.004+09:00</published><updated>2010-11-29T05:07:23.532+09:00</updated><title type='text'>跳ね馬のエピソード</title><content type='html'>　もう２週間ほど前の事になるが、お寺の境内の東屋で、気持ちよくて、ついうたた寝をしてしまった。綺麗な庭で、芝生が敷き詰めてあり、さまざまな樹が植わっている。そよ風が気持ちよい所であった。久しぶりの芝生が良かったのかもしれない。そこで夢をみた。夢といっても、過去に実際にあった記憶が、夢によみがえったということだ。今日は、その話にしよう。&lt;div class="fullpost"&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　もう30年以上も昔のことになるが、イタリアに住んでいたころの話だ。イタリアのボローニャにあるモーターサイクル・メーカーの、ドウカティー社を訪れた時のことだ。ひょんなことからサーキットで、エンジン設計のチーフ、Fタリオーニさんと出会い、馬が合うというか気が合い、遊びにおいで、と言われたのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ボローニャを訪れ、工場を案内してもらい、バイクを試乗させてもらった。そのとき工場の責任者の人が”フェラーリも乗ってみますか？”と言ってくれた。寝耳に水の出来事だった。すばらしい機会を与えてくれた。フェラーリはその人個人のもので、普段、会社の通勤に使っている、と言う。駐車場に行ってみると、初秋のやわらかい日差しのもとに、何気なくとまっているグリーンの車。特徴的な、小さな、そして黄色地をベースに、跳ね馬が躍動しているマークが目に入る。それが、車体のグリーンとマッチしている。グリーンと言っても、アーメンド・グリーンとでも言ったらいいのだろうか、一寸、くすんだ、丸みのある、粋なグリーンだ。250GT Lussoという。ルッソとは、イタリア語で、ラクジュアリー、デラックスと言う意味だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　スーパースポーツやレーシングタイプと言うのではなく、優雅にツーリングを楽しむモデルだ。姿も、カラートーンも、実質的で、尖ったところがない。さすがフェラーリ、何気ない佇まいの内に、シルエットの美しさが際立っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span&gt;「フェラーリ、乗ったことがありますか？」&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;との問いに&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span&gt;「コンヴァーティブルと、一寸前の、ベルリネッタ（クーペの事）に、一寸乗った事があります」&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;と答えた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ドアはロックされていたが、窓は開けっぱなし。その事を言うと、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span&gt;「この土地に馴染んでいるからね、誰も特別な車とは思わないんですよ、幸いな事に」&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ふっくらしたバケットシートに腰を下ろし、丁寧なつくりのインテリアを見渡す。シートをあわせ、木製のハンドルを握っていると、落ち着いた中にも、何か刺激的。ハンドルの中央には、黄色地に跳ね馬のマーク。カヴァリーノ・ランパンテ。カヴァリーノ、それは子馬の事だ。若くて、元気がよく、生きている事が、うれしくて堪らない。その生の喜び、その美しいスピリットを表現したものだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　エンジンをスタートさせると、V12気筒の感動的なサウンド。ヴェルベットのような柔らかな排気音。その瞬間から世界が変わる。ゆっくりとクラッチをミートさせ、駐車場から、カントリーロードに出る。毎日の通勤に使っているとの事だったが、足回り、サスペンションもうまく馴染んでいて、エンジンもスムースに回る。ある程度回転を上げていくと独特の甘さ、甘美な波動が世界を埋め尽くす。カムに乗ってくると、背中がシートに張り付いてくる加速感。エンジンの音が変わってきて、なんともいえない、至福のゾーンに突入する。田舎道ながら、路面はよく、60km/hから100km/hくらいの、無理のないスピードで飛ばすものの、５速目には、ほとんど入れる事はなかった。車好きをうならせる、つぼどころが、いろいろとあって、奥の深さを感じる。整備も万全と思いきや、定期整備消耗品とオイル交換だけだという。パンクもしたことがないと言う。毎日乗っていて、無理をしない、そして乗り方もうまいんだね。我々から見ると、フェラーリとなると、特別なものであるのだが、実に平凡に、何気なく、車もバイクも、人生も楽しんでいるように感じた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　さて、面白いのはこれからだ。夢に現れたのは、そのとき田舎道を走っているフェラーリ250GT ルッソなのだが、運転しているときは、当然、自分は運転席にいて、運転している訳なんだけど、夢の中では、走っているフェラーリを、やや斜め上空から見たヴィジョンが現れたのだ。運転していたのは、私なのに、上空から見ていたのは誰なんだろう？　まあこの世は不思議でいっぱいだからね。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　最後に、跳ね馬のエピソードをひとつ。&lt;br /&gt;　跳ね馬の起こりは、第二次大戦のイタリアの英雄で、名前は忘れてしまったが、戦闘機のりで、彼の飛行機のボディーに、跳ね馬が描かれていたそうである。そこに、ドゥカティが目をつけて、シンボルとして引き継いだと言われている。初期の、125ccのCPマシンにそれを見る事ができる。姿の美しいマシンであった。その後、タリオーニさんと、エンツォ・フェラーリさんとが、少年時代からの友人であったことから、どんな経緯かはわからないが、フェラーリのシンボルマークとなったそうである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もう昔の話だが、楽しく充実した日々の事であった。跳ね馬のエピソードを仕上げた事もあるが、お蔭様で、元気が全身にみなぎってくる。意識が前面的になってしまう。何となく、周囲が生き生きとしてくる。良い一日になりそうだ。&lt;/div&gt;&lt;div style="font-weight: bold;" class="readmore"&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://shambhalacafe.blogspot.com/2010/09/blog-post_14.html"&gt;続きはこちら!!&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/18690307-3857540286996720989?l=shambhalacafe.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/3857540286996720989'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/3857540286996720989'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/2010/09/blog-post_14.html' title='跳ね馬のエピソード'/><author><name>Atsushi Fukui</name><uri>https://profiles.google.com/107135242134154249942</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-1503015836680768480</id><published>2010-09-12T00:00:00.000+09:00</published><updated>2010-09-12T16:22:27.827+09:00</updated><title type='text'>平凡というヘヴン</title><content type='html'>&lt;div&gt;おもしろい事に、物質文明がきわまって、&lt;wbr&gt;ものが行き渡るようになると、人は”もの”ではなく、”&lt;wbr&gt;ものでないこと”を求めるようになってくる。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;幸福、自由、至福、愛、安心。そのどれをとっても”もの”&lt;wbr&gt;ではない。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;実際には、その”ものでないこと”が、”もの”を動かしている。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;あまりに物事や観念、思い込みにとらわれると、&lt;wbr&gt;そこに価値観の硬直が起こってくる。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;あらゆる物事に関してその一面、&lt;wbr&gt;上っ面しか見えなくなってしまう。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;生というものは、矛盾している。&lt;wbr&gt;むしろ虚偽のほうが一貫しているように見える。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;生とは、対極性、双極性で成り立っている。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;光と闇、きれいと汚い、あるとない、男と女、&lt;/div&gt; &lt;div&gt;対極性こそが、磁力となり、エナジーを生み出している。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;もし生に何の矛盾もなかったら、生は実に単調なものになり、&lt;wbr&gt;死んだようなものになってしまう。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;もしエナジーがなくなれば、不安は増大し、&lt;wbr&gt;意味もなく感情的になってしまう。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;さすれば、人は、心の不安から、どうしても、&lt;wbr&gt;鈍感で閉鎖的になってしまう。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;道理とはそうしたものだ。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;無意識の偏見というものは、&lt;wbr&gt;人の知覚と知性との間に割って入り込み、ふるいにかけ、&lt;wbr&gt;自分の先入観や観念にそぐわない物事、データも情報も、&lt;wbr&gt;ふるいおとされてしまう。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;現実をゆがめて解釈してしまうことにもなってしまう。&lt;wbr&gt;ウイルスみたいだね。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;禅の言葉に、”人が平凡になったとき、その人は非凡になる”&lt;wbr&gt;というのがある。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;非凡になろうとする欲求、努力、野心こそが陳腐で、&lt;wbr&gt;平々凡々たるものだという。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;そして誰しもが。非凡になろうとしている。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;禅の言葉にはリアルな深みがある。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;まずは、自己中心になってみる。そうして初めて、&lt;wbr&gt;無自己の広大さを知ることができる。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;そのプロセスの中で知る知恵は計り知れない。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;古来から、力は協力から生まれ、独立は奉仕から生じ、&lt;wbr&gt;大いなる自己は、無自己から生じる、という。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;自分なりの普通を生きればよい。心にもゆとりが生まれ、&lt;wbr&gt;夢も楽しみも広がってくる。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;人の真似をしても意味がない。自分の人生だったら、&lt;wbr&gt;自分の普通を生きればよい。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;平凡とは、平均的という意味ではない。&lt;wbr&gt;ひとそれぞれ自分にあった道があり、得意、不得意もある。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;そして、至福や幸福に形がないように、&lt;wbr&gt;平凡にも決まった形というものはない。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;世間が余りに、物質的、形式的、常識的に、&lt;wbr&gt;形や様式にこだわるようになり、何らかの形にはめてしまうと、&lt;wbr&gt;平凡も実質性を失ってしまう。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;大切なのは、頭、理知ではなく、心の持ち方だと思う。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;形やセオリーやものに同化してしまうと、&lt;wbr&gt;リアルな世界に入ることも、触れることもできなくなってしまう。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;それが何であれ、ものは道具である。使うものである。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;美味く使えば、役に立つし、楽しむこともできる。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;だが、主従が逆転し、ものに同化してしまうと、&lt;wbr&gt;精神も硬直化して、ものの様になってしまう。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;平凡を住処とすれば、家は豪邸でもバンガローでもかまわないが、&lt;wbr&gt;肩をいからせることも、見栄を張ることも、&lt;wbr&gt;背伸びをすることもない。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;自分をごまかすこともない。シンプルになれる。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;どうしても自我（エゴ）が必要なときは、中庸なものでよい。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;自分の道を得たのであれば、好きなように生きればよい。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;贅沢結構。贅沢は悪いものではない。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;幸福とは、贅沢なものではないのかな？&lt;/div&gt; &lt;div&gt;自由も、安心も、静けさも、贅沢なものなのだ。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;エナジーはそこから生まれてくるからだ。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;今、ここは、マレーシアのペナン。一年ぶりにやってきた。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;町の様子も少しは変わった。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;朝のアザーンを聞きながら、久しぶりに町を散歩して見ると、&lt;wbr&gt;近代的なビル、英国統治時代のコロニアルな建造物、&lt;/div&gt; &lt;div&gt;イスラム建築、マレー風、インド風、&lt;wbr&gt;中国風の建物が入り交ざって、まるでモザイクのような、&lt;wbr&gt;国際色豊かな町だ。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;今は、その町にあるカフェで、この原稿を書いている。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;福禄寿が店に祭ってあったから、おそらく、道教徒の店だ。&lt;wbr&gt;誰もが人懐っこい。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;今、タイやインドでもはやっている、&lt;wbr&gt;チベットの柔らかな音楽が流れてくる。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;タイでもよく聴くがとてもいい。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;仏教の経文の詩を、瞑想音楽風にポップにアレンジしたものだ。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;皆が静かに聴いている。&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/18690307-1503015836680768480?l=shambhalacafe.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/1503015836680768480'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/1503015836680768480'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/2010/09/blog-post.html' title='平凡というヘヴン'/><author><name>Atsushi Fukui</name><uri>https://profiles.google.com/107135242134154249942</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-827224732698515514</id><published>2010-08-11T00:00:00.000+09:00</published><updated>2010-08-11T14:29:52.762+09:00</updated><title type='text'>南山寿｛ナンザンス｝</title><content type='html'>&lt;div&gt;人それぞれ個性があり、個別なものを持ち、&lt;wbr&gt;いろいろなものを持っている。誰もが、&lt;wbr&gt;知性や知識と言うものを持っている。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;だが意外と、”これ”は知らない。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;”これ”とは、自分の所有物のことだ。それは、今、&lt;wbr&gt;ここにあるもの。もっとも身近にあるもの。身近ってのは、&lt;wbr&gt;意外と、遠いかなたのことや、月よりも未知なのかもしれない。&lt;wbr&gt;しかもいつも自分に起こっているにもかかわらず、&lt;wbr&gt;自分が気がつかなかった事、知らなかったことが，&lt;wbr&gt;如何に多いことなのか。灯台元暗しって事だ。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;人の表層の奥には、不思議なエナジーが流れ、&lt;wbr&gt;その又奥には意識と言うものがあり、&lt;wbr&gt;それ以上に大きな無意識と言うものがある。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;ほんのしばらくの間でも、”我を忘れる”、”&lt;wbr&gt;自分への関心をなくす”、と言うことができると、&lt;wbr&gt;素晴らしい休息となる。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;”我を忘れる”、素晴らしい言葉だが、そうなると、&lt;wbr&gt;自分はいない訳だから、自分にまつわる、さまざまな事、周辺、&lt;wbr&gt;関係性、世界が、きれいさっぱりとなくなってしまう。&lt;wbr&gt;エゴも欲得もない、空っぽになってしまう。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;何事も、まず空っぽから始まる。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;ハートとは感じる能力のことだ。そのセンターは心臓ではなく、&lt;wbr&gt;胸の中心辺りにある。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;まずは、自分の内側を感じてみる。頭に集まっていたエナジーが、&lt;wbr&gt;向きを買え、内側に入ってくる。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;そこには内なる空間、宇宙空間があって、&lt;wbr&gt;誰でも開発できるものなのだ。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;しばらく静かにしていると、落ち着いてくる。静かで、何もなく、&lt;wbr&gt;何事もない広い空間だから、&lt;wbr&gt;そして自分の宇宙空間だから安心していられる。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;そのうちなる空間に気づくと、少しずつ、&lt;wbr&gt;先ほどまで頭に集まっていたエナジーが、&lt;wbr&gt;ハートに向きを変えてくる。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;空間全体にエナジーがめぐってくる。&lt;wbr&gt;しばらくそのエナジーの動き、働きを眺めていよう。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;楽観的で、自分自身が好きな人は問題がないが、多少なりとも、&lt;wbr&gt;自分に嫌悪感を持っている人は、&lt;wbr&gt;何か楽しいことを想像すると良い。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;何でもかまわない、好きなことを想像してみるといい。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;そこは、始まりも終わりもなく、何もなく、&lt;wbr&gt;何事もない静かな空間だ。自分の空間なんだから、&lt;wbr&gt;いつでも自由に使えばよい。何の心配も要らない。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;ただ独りになる勇気が必要だ。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;宇宙は空っぽなのだ。踊りたければ踊り、走りたければ走り、&lt;wbr&gt;泳ぎたければ泳げば良い、横になりたければ横になればよい。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;好きにすると良い。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;夢では無いが、夢のようなものだ。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;楽しむことが肝要だ。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;自分の中のう愛的空間にいるってのは、一寸、&lt;wbr&gt;変な感じがするかもしれないけれど。&lt;wbr&gt;裸の自分にと言うものがよく見えてくるはずだ。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;無論、さまざまな、周辺、関係性にかかわっていない、&lt;wbr&gt;無垢の自分だ。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;それが自由、自分からの解放と言う意味だ。&lt;wbr&gt;自由とは歓喜を意味する。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;心の戯れを楽しむと言い。楽しい事がもの儀音の質を変える。&lt;wbr&gt;これは浄化作用でもある。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;心を遊ばせて、静かにそれを眺めていると、&lt;wbr&gt;微細なエナジーがより感じられるようになり、&lt;wbr&gt;微妙な幸福感が起こってくることがある。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;古い観念的な姿勢や、条件付けが落ち、べき（must)が消え、&lt;wbr&gt;体全体が軽やかになってくる。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;そして、存在を感じるようにして、&lt;wbr&gt;存在の源泉とハートがつながると、&lt;wbr&gt;エナジーがあふれるようになってくる。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;それは本来の健康、全体性との絆のようなものだ。気に入ったら、&lt;wbr&gt;好きなだけここにいるといい。心地よければ、&lt;wbr&gt;少なくとも自分に対する、悪感情は無い。過去はもう無い。&lt;wbr&gt;今とは、今のことだ。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;存在を感じるようになたら、宇宙そのものが、&lt;wbr&gt;生き生きとしたものになってくる。秩序も尾の図ちととのイ、&lt;wbr&gt;些細なことも楽しくなってくる。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;そうなって始めて、何かが宇宙の中心を見つけ出し、&lt;wbr&gt;やがて結晶化していく。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;宇宙、全体性の理解が深まるにつれ、鈍感さ、粗雑さは消え、&lt;wbr&gt;それは大きな飛躍となってくる。超エアやバランスもついてくる。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;複雑だったもの語tが、単純な姿で現れるようになってくる。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;”普通”と言う実になんでもない日常的な言葉には、普遍性（&lt;wbr&gt;ユニヴァーサル、宇宙性）に通ずると言う意味もあるそうだ。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;そして自然とは創造性の源に近い、と言う意味である。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;楽しみや趣が多いと言うことだ。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;知恵はハートの最深部、無意識の中から起こってくる。&lt;wbr&gt;それは理知からくるものではない。思いのほかから、やってくる。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;自分が全面的になって始めて、意識と無意識との通路が開き、&lt;wbr&gt;新たな世界観が訪れる。何も悪いものは無い。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;幸福感や至福感が味わえる。そんなときには、周囲の人や生き物。&lt;wbr&gt;自然も祝福を感じるはずだ。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;すべて良い。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;宇宙を一巡りしたところで、そろそろ地上に戻ろうか。&lt;wbr&gt;我に帰ろう。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;喉も渇いたし、お腹もすいた。センターをハートから、&lt;wbr&gt;腹に移そう。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;周囲のの木々、黄色いゴールデンフラワーや、&lt;wbr&gt;ケムのオレンジ色の花、白いマグノリアみんなきれいだ。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;周囲も世界も何事もない。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;うまいブレンド・ティーをもらったので、チャイにしよう。ビスケットもチーズもある。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;PS　南山寿｛ナンザンス）は、江戸時代の粋人、通人、&lt;wbr&gt;風流人たちの遊びの言葉であったらしい。&lt;wbr&gt;長寿を意味するようである。詳しい意味については、今は判らないが、トーンがいい。&lt;wbr&gt;面白いではないか。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/18690307-827224732698515514?l=shambhalacafe.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/827224732698515514'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/827224732698515514'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/2010/08/blog-post.html' title='南山寿｛ナンザンス｝'/><author><name>Atsushi Fukui</name><uri>https://profiles.google.com/107135242134154249942</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-4707384662971397212</id><published>2010-07-15T00:00:00.000+09:00</published><updated>2010-07-15T14:21:59.189+09:00</updated><title type='text'>そよ風の風韻２</title><content type='html'>&lt;div&gt;　静かな森の中、遠くでカッコーの声がこだまする。強い日差しの中に輝く緑の梢の合間から、&lt;wbr&gt;どこまでも澄みわたった、青い空とヒマラヤ（ランタン山系）&lt;wbr&gt;の峰々が風のいたづら で見え隠れする。ニールカントは、&lt;wbr&gt;シヴァ神のご神体（ヒマラヤ）周辺に出、良く見かけられる。&lt;wbr&gt;その本来の意味は、「青い通路」、転じ て「意識のハイウェイ」を意味する言葉であり、また、シヴァ神の別名でもある。&lt;wbr&gt;ニールカントに出会うと、柔らかな光（光源なき光）が心に宿り、&lt;wbr&gt;心が光そのものになってしまうという、言い伝えがある。また、&lt;wbr&gt;金色に輝いて見えてしまうこともある。一つ残念なことに、いまだ、&lt;wbr&gt;ニールカントの声を聞いたことがない。&lt;/div&gt; 　夢に現れたというのは、何かの前兆、吉祥な事とは思うが、少なくとも悪い気はしない。自分の中でも、特別な思い出なのだ。あたかも、水中のそよ風の様であった。自分の記憶と夢とにはギャップがあり、違ったものに変化してしまったが、夢の中では、知人や友人、サドウーやお坊さん、 ブータンの大使．いろいろな人々が現れ、みなで祝い、みなで笑い、その後は熟睡してしまったのか、覚えていない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div&gt;　夢とはいわず、ほんのひと時でも,&lt;wbr&gt;普段とは違った現実に入り込むと、意識が目覚め、&lt;wbr&gt;風景の焦点が変わり、&lt;wbr&gt;じかにリアルなものに触れる体験でできることがある。&lt;wbr&gt;物事の表面よりも、内容が良く見え、良く聴こえ、&lt;wbr&gt;より深い理解が起こってくる。&lt;wbr&gt;そんなひらめきや経験はないだろうか？　生とは、&lt;wbr&gt;上辺や周辺だけ探っても判るようなものではない。&lt;wbr&gt;中心に至って、初めて理解というものが起こってくる。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;知性を水平線とたとえると、&lt;wbr&gt;理解は垂直線と例えてもいいかもしれない。&lt;br /&gt;&lt;/div&gt; &lt;div&gt;　夢は夢であるが、現実もまた、夢の様である。対立も、&lt;wbr&gt;矛盾もおき。それが重なったり、シンクロしたり、&lt;wbr&gt;相互依存したり、融合したり、クロスオーヴァー（フュージョン）&lt;wbr&gt;したりして、クリエイティヴな、新たなる風韻（素敵な趣、&lt;wbr&gt;福沢諭吉さんが良く使った言葉だそうである）も生じてこよう。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;　朝の海は素晴らしい。朝日が、ここ、西海岸にも反映して、&lt;wbr&gt;世界が赤みを帯びてくる。なんとも神秘的である。生とは、対立間のリズムである。これなくして生は成り立たない。世界は鼓動して生きている。それにシンクロしながら、&lt;wbr&gt;広々としたところで、深くゆっくり呼吸しながら、裸足であるく野はなんとも気持ちが良い。&lt;br /&gt;&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;　庭道の通人によると、”庭は見るものにあらず、感じるものなり”&lt;wbr&gt;、とか。すべての物事、人も自然も生きているものは、&lt;wbr&gt;唯一つの大きな全体の中にあり、その全体の調和のエナジーを”&lt;wbr&gt;生命”という神秘であるように思う。そのことを知ろうが、&lt;wbr&gt;知るまいが、皆がその中にいる。この一如（シュンニャータ、真如）であること、&lt;wbr&gt;宇宙と有機的につながって、”絆”というものが出来てたとき、&lt;wbr&gt;世界は瑞々し くなってくる。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;　神とは、人物でも、象徴でも、ものでも、対象でもない。&lt;wbr&gt;この存在の全体性を神といったり、タオといったり、&lt;wbr&gt;ブラフマンといったりしている様である。&lt;wbr&gt;誰しもがやっていることだが、マインドを通して世界を見ると、&lt;wbr&gt;まるで原子の集合の様で、てんでんばらばら、統一というものがない。&lt;wbr&gt;一方、ハートで世界を感じると一つの統一体のように感じる。&lt;wbr&gt;感じることは、考えることではない。そして、この一如であることがエナジーをもたらす。&lt;wbr&gt;頭で知るだけでは何も起こらない人が一つの全体と一つとなって、寛いでいるとき、&lt;wbr&gt;この一体性から、エナジーが生じてくる。生は、宇宙的な全体性として存在する。あなたが知ろうと、&lt;wbr&gt;知るまいと…&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;　風が出てきた。あたりは静まり返っている。風のおかげで、&lt;wbr&gt;ケムの樹の花びらが、頭といわず、肩といわず、&lt;wbr&gt;音もなく降り注いできた。まるで夢の様である。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;　タンジェリンな夢であった。&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/18690307-4707384662971397212?l=shambhalacafe.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/4707384662971397212'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/4707384662971397212'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/2010/07/blog-post_15.html' title='そよ風の風韻２'/><author><name>Atsushi Fukui</name><uri>https://profiles.google.com/107135242134154249942</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-1305601312977256307</id><published>2010-07-12T00:00:00.002+09:00</published><updated>2010-07-12T22:15:47.061+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='ラオス'/><title type='text'>センシ　パラディーゾ！（朝飯前の、パラダイス）</title><content type='html'>&lt;div&gt;　今、ラオスの首都、ヴィエンチャンにいる。まだ朝早い。&lt;br /&gt;　メコン川のすぐそばにいる。今朝、宿の前の、大きな水瓶の中に、蓮の花が、&lt;wbr&gt;花開こうとしていたのに気ががついた。蓮の花は、朝になると開き、夕暮れになると閉じてしまう。花の蕾が、今、まさに開こうとしていた。&lt;br /&gt;&lt;/div&gt; &lt;div&gt;　水瓶には、金魚が数匹すんでいた。浮き上がってきた金魚の頭を、そっとなでてあげると、&lt;wbr&gt;口をあけて、指先をなめようとしている。こんなことは初めてだ。&lt;wbr&gt;こっちの波動に違和感がなかったのではないだろうか？　金魚も、朝だし、機嫌もよかったのではないだろうか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;　そのうち、蓮の花は、次第に開花しようとしていた。花弁は白く、&lt;wbr&gt;中心の黄色い部分が微笑んでいる。指のほうは、なんと数匹の金魚が、私の指をしゃぶっている。指先になんともいえない心地よさが伝わってくる。&lt;wbr&gt;コミュニュケーションが始まった。&lt;br /&gt;&lt;/div&gt; &lt;div&gt;　小鳥が鳴いている。近所の人たちや、同宿のフランス人たちが声をかけてくれる。”サバイ・ディー”。宿の兄ちゃんが、自転車でどこかに行こうとしている。車が宿の前をゆっくり動いていく。何事もない。ただ、水瓶のそばに腰掛けている。蓮の花は完全に開花し、黄色い中心部分も、笑っている。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;　いろいろな音が聞こえてくる。目を閉じ、存在を感じると、&lt;wbr&gt;さらに多くの物事、微妙なものが現れてくる。香りも漂ってくる。バゲット（パン）を焼く香ばしい香りだ。さまざまな出来事が思考の流れとなって、&lt;wbr&gt;流れているのを感じることができる。思考はすべて、外からやってきたもの、本来自分のものではない。&lt;wbr&gt;集めたり、集まったり、お客さんのようなものだ。それを眺めている静寂さだけが、自分本来のもののように感じる。思考の流れは、外からの頂き物だが、その静寂さは、&lt;wbr&gt;人やほかからもらったものではない。もって生まれた、&lt;wbr&gt;素の自分そのもののようである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;　その静寂さゆえに、外の世界も、内なる世界も、潤って、&lt;wbr&gt;調和の取れたものとなってくるようである。自分の思考の流れを、ただ黙ってみていることを、&lt;wbr&gt;それを観照というが、それを楽しむことができると、&lt;wbr&gt;うれしくもあり、楽し くもある。それがサイレント・ジョイである。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;　人が何かものを考えているとき、中心は頭になる。普段よく使っている。思考は生きていくうえで、重要な働きをする。なくてはならない。といって、それ以外のものを拒否したり、やめてしまうと、&lt;wbr&gt;生のバランスはおかしくなってしまう。これは個人についても、&lt;wbr&gt;社会や世界全体についてもいえることなのだ。感じることすら、考えるようになってしまうこともある。&lt;wbr&gt;何事も解決しない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt; &lt;div&gt;　思考に同化してしまうのではなく、思考を感じるようにすると、&lt;wbr&gt;焦点は変わり、別世界にワープすることができる。すると中心は頭ではなく、ハート（胸の中心）に移っている。考えている時は、中心は頭になり、&lt;wbr&gt;何らかの結論に向かおうとする。だが、深く感じようとするとき、頭なしになる。存在の中心はハートになる。&lt;br /&gt;　美とは、ハートの感覚であって、頭で量れるようなものではない。それは観念でも、思い込みでも、数学でもない。そして ハートの感覚は頭の働きとは違って、すでに結論に達している。美は蓮の花や金魚や周囲の出来事にあるのではなく、自分のハート と、周囲の出来事、蓮の花、金魚、人々との出会いの中で生じてくるのであろう。一見、何事もない世界が、この上ないもののように感じられる。無論出入りは自由だし、あなた次第だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　さて、朝飯にしようか？　バゲット（パン）と、カフェ・ラオ(ラオスコーヒー）だ。&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/18690307-1305601312977256307?l=shambhalacafe.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/1305601312977256307'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/1305601312977256307'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/2010/07/blog-post.html' title='センシ　パラディーゾ！（朝飯前の、パラダイス）'/><author><name>Atsushi Fukui</name><uri>https://profiles.google.com/107135242134154249942</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-7401405455855705353</id><published>2010-06-28T00:00:00.001+09:00</published><updated>2010-07-09T13:18:22.439+09:00</updated><title type='text'>そよ風の風韻</title><content type='html'>　鳥の声で目が覚めた。爽やかな朝だ。空は晴れ渡り、目の前の海は、静かにたゆたっている。鳥たちが朝を讃え、そよ風が木々の緑や花たちと遊んでいる。夕べは満月だったので、海辺の東屋で一晩過ごしたのだ。ここはあるリゾートの庭園なのだが、友人のパット（タイ語で風の意味）が教えてくれたのだ。月光は雨のように降り注ぎ、空も海も風も大いなる喜びに包まれているようだった。ここはプラーナ（生命気）がいっぱいだ。&lt;br /&gt;　夕べの夢は格別だった。その上ぐっすりと眠れた。深い眠りには、若返りの力があるのだそうだ。たまたま、ケム（タイ語）というタンジェリン（オレンジ色）の色鮮やかな小さな花を咲かせ、明るい緑の葉を持った、ヒンドウー、仏教界でも聖樹とされる樹のすぐそばにいたのだった。タイのお坊さんに聞くと、仏陀トリーだという。（ボーディー・トリーとはまた別に）。ハートのチャクラ。アナハート・チャクラを開く力があるという。実際そばにいるだけで、心が落ち着き、気持ちが晴れ晴れする。&lt;br /&gt;　ここの庭には、ほかにもたくさんの椰子やバンヤンが植わっている。波の音、ケムの波動、満月、多少の星、海の力というこれ以上ないシチュエーション。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　夢は無意識から起こってくるヴィジョン。私の深いところで何かが感応し、活動し始めたのだ。&lt;br /&gt;　夢は青い鳥の夢だった。同派に出てくる青い鳥は、どんな姿や色をしているか、わからないが、夢に現れたのは、.かつてインド、カシミール、ネパールあたりでであった青い鳥だ。インドでは二－ルカント（青い通路、パッセージ）。英語名はカシミール・ローラー、またはインディアン・ローラーという。背中、尾翼、そして翼は紺色で、頭と翼の裏側の一部がターコイズ・ブルー。そして胸の辺りがビスケットという、ちょっとおしゃれな鳥だ。30～40cmくらいの大きさで、はととカラスの中間くらいだ。主にヒマラヤの麓、周辺に分布し、カジュラホやブッダガヤでも見た事があったから、デカン高原にもいるかもしれない。インドには13年ほどいたのだが、５～６回くらいしか出会っていない。出会うことすら貴重な鳥なのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　初めてニールカントに出会ったのは、30年以上も昔のことになるが、ネパールのカトマンドゥ郊外の、山間の森の中であった。当時は、チベット仏教、ヒンドゥータントラを勉強していたころの話だ。始めてみた時、姿も色合いも。存在感というか、垢抜けた波動を持って、いきなり心の琴線に触れたのかと思うような、スピリチュアルな興奮を味わった。思わず、夢中になって後を追った。樹から樹へと移動するたびに、つかづ、離れず、適当な距離を保ちながら、無理に間合いを詰めようとはせずに。しぶとく食い下がった。こちらには、つかめようとか、どうにかしてやろうとする野心などはさらさらなく、相手からも嫌がられなかったようだった。非常にシャイな鳥と聞いていたのだが、普通人が近づくと飛び去ってしまう。なかなか姿を人に見せたがらない様子である。だいぶ、人を意識しているとしか思えない。当時は、まだ、バードウォッチングという言葉が世界的にはやっていて多少のことは、興味のある鋳物については勉強していたものだった。また、欧米やインドのバードウォッチャーも多かったのだ。最近は動なんだろうか？　このときは、ニールカントは、前述のケムの樹（ヒンドゥー名は忘れてしまった）が、お気に入りのようであった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　さて今日はハートの核心に迫ってみよう。&lt;div class="fullpost"&gt;&lt;br /&gt;　アナハ－タ・チャクラは、人の体にある７つのチャクラのひとつだが、その真ん中、４番目にあって、胸、ハートのあたりにあるチャクラで、肉体にオーバーラップしている、霊体、アストラル体に現れる。肉体の心臓とつながりはあっても、チャクラはアストラル体にしか現れない。もし、肉体の心臓のところに現れたら、心臓障害を起こしてしまう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　アナハータチャクラを表す、ヤントラという、抽象的な神秘図形がある。それによると、十二弁のタンジェリンの蓮の花弁に囲まれ、中には六角形の星があり、ダヴィデの星に似ているが、意味が違うし、それに中央部には、創造性を表す、下向きに三角形がある。星の内部の色は、煙色、グレイとも、ブルーグレイともいわれている。下向きの三角形は、緑である。その司る原理は”風”、すなわち、生命力、プラーナである。&lt;br /&gt;　この星の内部の世界は、マハローカといい、大いなる存在の領域とされている。形もなく、何の支えもなく、始まりも、終わりもない。チベット仏教では、サンボギャ・カーヤ。豊かな体。星の体という。そこにいたるのには何年も瞑想の修行が必要なのだが、マスターすると、スムースに最深部にいける様になる。&lt;br /&gt;　ここにくつろげるようになると、心も体も癒され、体は軽くなり、身の内外の風（プラーナ、エナジー）も整って、気分も爽快に成ってくる。フローマスターとも言われ。エナジーのコントロールがうまくなってくる。また、空間的に意識が広がり、宇宙的な愛、慈しみが生じてくる。物事の見え方、感じ方がこの上ないものになってくる。ここにいると無価値なものはないように思えてしまうほどだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ハートのチャクラ、アナハータチャクラには、聖なる樹があって、カルパヴリクシャという願望成就の樹である。これは、アナハータチャクラがマスターできると、春が来れば、自然に草が生えてくるごとく、自ずとその人についてくるとされている。学んだ当時は、何もほしいものなく満ち足りていたし、瞑想に夢中だったのだが、今になって思い起こしてみると。悪くない話だ。嬉しい。アナハ－タチャクラには、そんな樹があったのだ。すっかり忘れていた。ニールカントはそのことを知らせにきてくれたのかな？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　今、ここ、自分とニールカントとの波動の交流（コミュニオン）が始まった。呼吸も脈拍も静かだが、エナジーは体内をよく循環している世だし、自分のエナジーも充実していたのを覚えている。エナジーは原から、胸、喉、第三の目。そして天頂のチャクラ、サワスラーラに届き、そしてつきぬけてしまう。それが始めてというわけではなかったが。クリエイティヴでいい体験だった。しばらくしてアナハ－タチャクラまで降りてくると、無言のテレパシーで、それでよいといっているように聞こえた。物事すべて超えられて始めてリアルになってくる。静かな森の中、遠くで格好な泣き声がこだまにこだまする。静かな森の中、遠くでカッコーの声が木魂する。時々、木の実や枯葉が落ちる音が、無音を背景に際立って聞こえてくる。明鏡止水の静けさである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　強い日差しに輝く緑の梢の合間から、どこまでも晴れ渡った青い空と、 雄大なヒマラヤ（ランタン山系）が、風のおかげで、見え隠れする。二ールカントは、シヴァ神の化身とも言われ、それゆえ、そのご神体（ヒマラヤ）周辺でよく見かけられるといわれる。二ールカントの本来の意味は、”青い通路”。転じて”意識のハイウェイ”（純粋意識）を意味する言葉である。又、シヴァ神の別名でもある。二ールカントに出会う、柔らかな光（光源なき光）が心に届き、心が光そのもの、本来の姿に戻ってしまうという言い伝えがある。夢に現れた、と言うのは、何かの前兆、吉祥なことだとは思うが、悪い気はしない。何か嬉しい。あたかも、”水中のそよ風”のようであった。自分の閉じの記憶と、夢の中とには、多少のギャップがあり、”おいおい、そんなことになっちゃうの？”と夢の中で文句を言うほどのことになってしまったが、夢だからそれはそれでよいとして、最近の友人、知人、サドゥーやお坊さん、当時近所に住んでいた、ブータン大使まで現れ、皆で祝い、笑い、その後は安心して熟睡してしまったのか、覚えていない。いずれにせよ、心の心底にあった、緊張感が緩み、安心できたことは、何よりであった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　夢とはいわず、ほんのひと時でも、たとえば転んだ拍子とか…、普段とは違った現実に入り込んでしまうと、意識が目覚め、自我が消え、風景の焦点が変わり、周囲や世界に、直に、リアルに体験できることがある。物事の外形のみならず、何よりも内容がよく見え、よく聴こえ、より理解が深まり、何か充実した気持ちになってくる。そんなひらめきや経験はないだろうか？　子供のころ、何かの拍子に、そこに入り込み、”これ、これ、これだ！　これを生きればよいのだ！”と思ったことがあるのを、今でも覚えている。&lt;br /&gt;　生徒は、上辺や周辺だけを、いくら探ってもわかるようなものではない。自分の中の深い、何もないところ、どこでもないところに、センターがあって、そのことを知ろうが知るまいが、中心にいたって初めて、理解というものが起こってくる。意識の目覚め、魂というようなものも判ってくる。例えば、、地背を水平線とすると、理解は垂直線と例えていいかも知れない。両者が交差したポイントが、自分の中のセンタと共鳴すると、そこに磁場というようなものが起こってくる。宇宙と共鳴し始めるのだ。生徒は実に不思議なステージであることか。夢は夢であるが、現実もまた夢のようである。対立も矛盾もあり、それが重なったり、シンクロしたり、相互依存したり、融合したり、クロスオーヴァー（フュージョン）したら、又、クリエイティブな、新たなる風韻（素敵な趣）も生じてこよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　これは誰しもがやっていることなのだが、マインドを通して世界を見ると、まるで、原子の集合のようで、てんでんばらばら、まるで統一性がない。知性の働きと言うのは、分類、分析、選択、損得ということでも奥のものがふるいにかけられて無視されてしまう。それゆえ、知性は部分的で、断片的になってしまうという特徴がある。一夫、ハートを通してみると、無選択故に、世界は”ひとつの統一体”のように感じられる。モードが違うのである。庭道の通人によると、”庭は見るものにあらず。感じるものなり”、とか。全ての物事、人も、自然も、生きているものは、ただ一つの、大きな全体の中にあり、その全体の調和のエナジーが、”生命”という神秘であるように感じる。&lt;br /&gt;そのことを知ろうが知るまいが、みながその中にいる。この一如（シュンニャータ。真如）であること、宇宙と有機的に繋がって”絆”というものができたとき、世界は瑞々しくなって来る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　神とは、人物ではないし、物でも対象でもない。はたまた、天空のどこかに隠れている訳でもない。この存在の全体性、一つであることを神と呼んだり、タオと呼んだり、ブラフマンと呼んだりしているのである。感じることは考えることとはまったく違う。この一如であることがエナジーをもたらす。アナハータ・チャクラの門をくぐった時、神秘の門をくぐった時、本物のライフフォース、エナジーに繋がるのだ。一見、食うカムに見えれけれど、しばらく吟味しているうちに、それは充実している本物の実在であることに気づいてくる。一如が判ると、全てがわかってくる。同時に、意識と無意識との通路が開いてくるのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　朝の海はすばらしい。朝日が、西海岸にも反映し、世界が赤みを帯びてくる。無選択の美がここにある。なんとも新鮮で神秘的である。せいは対極間のリズムだ。これなくして生はなりたたない。世界は鼓動して生きている。全体が、共鳴して成り立っている。それにシンクロしながら、広々したところで、深く息をし、裸足で砂の上を歩くのは実に気持ちがよい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　又、風が出てきた。風のお陰で、ケムの花弁が、頭といわず、肩や背中にまで、音もなく降り注いできた。まるで夢のようだ。それも、タンジェリンな夢のようである。&lt;br /&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;&lt;br /&gt;ア　ブリーズ　プリーズ。（そよ風を、どうぞ）　　　　&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="readmore"&gt;&lt;br /&gt; &lt;a style="font-weight: bold;" href="http://shambhalacafe.blogspot.com/2010/06/blog-post.html"&gt;続きはこちら!!&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' 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type='text'>楽しい日々を過ごすには…</title><content type='html'>　ひとの心の情緒について言うと、もっとも主要な情緒には二つある。ひとつは、「うれしい」ということ、もうひとつは「悲しい」ということがある。&lt;br /&gt;　精神が縮こまった状況から、より大きな状況、完全性と言ってもよいが、そこに移行するのが「うれしさ」であり、より小さな状況に入り込んでしまうのが「悲しみ」とされている。生きているということは、その二つの両極間の推移といってもよい。それらは、心の深遠に感じられる感情だが、自分の外側に発散もしくは提示されると、「喜び」であったり、反対に「嘆き」であったりする。これは世界中の民族、宗教を問わず、人類共通の意識である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　さて、今回のテーマは楽しむことである。「嬉しさ」の抹消形態は「楽しむ」ということになる。また、楽しみは感覚的、知覚的、精神的なものへと移行する性質がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　「たのし」という言葉は、伝説によると、「天照大御神」が、天岩戸を出られたとき、神々たちが、「手押し（たのし」手、喜び歌ったところから来ているそうだが、「手を伸ばす事」は、空間的な広がり、そして時間的には、未来へ向かって手を伸ばすことである。つまり、楽しいという言葉の中には、「未来への展望」が開ける、という意味があるのだ。&lt;br /&gt;うれし、たのしは意味が深い。&lt;br /&gt;　「楽しみに対する言葉に「苦しみ」がある。悟りを得る前の仏陀は、人生とは苦であると仰った。悟りを得た後、無苦であるといわれた。悟りの後、生を楽しまれたようである。仏教では、道楽という。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　「嬉しさ」が発展すると、「笑み」や「笑い」が生じてくる。心も和んで、うきうきしてくる。考えてみると、不思議である。そして人は、嬉しさを起こさせる対象に「愛」や「慈しみ」を感じ、悲しみを起こさせる対象には苦や否定性を感じてしまう。つまり、嬉しさや楽しさとは言葉の上で、「愛」とつながる、微妙な関係を持っていることにも気づく。うれし、たのし、は素晴らしい。&lt;br /&gt;　また、うれしという言葉は、「うるはし」から転じたことばだそうで、心地よい様子を意味することで、「心（うる）－愛（はし）」という意味だそうである。&lt;br /&gt;　楽しむとは、何らかの行為、あるいは無為を通して、心が動くことである。体ばっかり動く現代では、心が動くというにはすばらしいことである。別に乱痴気騒ぎをしなくとも、些細なこと、お金をかけづとも、楽しみのエッセンスは楽しめる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　今、列車は、マレー半島を南下してタイからマレーシアに向かっている。開け放った大きな窓の外を見ると、青い空に白い雲が浮かんでいる。形を変えながら、あるがまま、なすがままに漂っている。&lt;br /&gt;気持ちのよい晴天である。窓から入り込んでくる風が、体を通り抜けて幾野が気持ちがよい。緑一色の風景がどんどん後ろに流れていく。まるで、緑の大河の流れを見ているかのようである。ジャングルと田畑や村が交互に現れては流れていく。&lt;br /&gt;　牛や白鷺が一緒になって、水辺に草むらで遊んでいる。池には、白やおインクの蓮の花が咲き競っている。畑では、時折、焚き火をしており。その香りが香ばしい。海側に目を転じると、波のないタイ湾の青い海の色が、水平線で空と接しつつ、空と一つとなり、その青の濃淡の中に白い雲がふんわりと浮かんでいる。静かで、何事もない。その状況が、心に届くようになってくると、同時に、万物が自分と一つに解け合ってくる。何かいうにいわれぬ、心地よさが、どこからともなく沸いてきて。何の不安もなく、リラックスして、心が生き生きとしてくる。宇宙エナジーとの「共感の磁場」が生じるのだ。&lt;br /&gt;　近くの席のオネーサンや、おばちゃんたちから、マンゴーやドリアンがまわってくる。嬉しいね。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　私は楽しむことが好きである。きっと誰しもそうだ。体を動かすことも車の運転も好きである。静かに本を読んだり、テレビを見たり、トランプをするのも好きである。だが、殊更何をするでもなく、何気なく、ただ意識をほんのちょっと変容させるだけで、見慣れた風景も、新鮮に見えてくる。そんな時、生の底知れない深みと楽しみを感じずにはいられない。要は、素直な自分を大事にすることだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　今、あるもので充分と知る人は、常に満たされる。今、生きていることのリアリティに触れるゆとりができるからだ。真の豊かさとは、きっとそれなんだと思う。この世のすべてのものは、生まれ、育ち、活動し、成長し、やがていつか、あの静けさに帰ってくる。すべてのものは目には見えない大きな流れに従っていぬんの居場所に帰っていく。&lt;br /&gt;　それは何処かって？　それは、今、ここさ。今、あなたがいるところだよ。場所はどこでもいいんだ。今という、唯一リアルな時と、ここという次元が大事なんだ。それを知ることが知恵であり、騒ぎまわってあたふたしたり、問題を作ったり悩みの種を作ったりしなくなるのだ。今、奥深いところで何を感じているだろうか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　無為とは何もするなということではない。余計なことをするなということなんだ。もともと本来の自分とは、自我という作り物とは違って、無理に我を張ったり、欲張ったり、争ったりしないものなんだ。自分なりの普通がいいんだよ。欲しいものがあるなら、それもよい。私にも欲しいものがある。欲しいものがあるということは、よいことだし、何よりも未来への展望が開ける。物心両方楽しめると、いいね。生きているうちだけだからね。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　エナジーというものは、目には見えないし形もない。無か空に見えても、充実して、実在してるんだ。それは、自然、宇宙から生じ、無理に押し付けられたものでもない。長く自然と接していると、自ずと、根付いてくるものなんだ。頭でっかちになりすぎたり、雑念がなければ、エナジーはよく流れるものなのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ライムソーダでも飲みたくなった。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/18690307-6061370026102087774?l=shambhalacafe.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/6061370026102087774'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/6061370026102087774'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/2010/05/blog-post.html' title='楽しい日々を過ごすには…'/><author><name>fortunesawada</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05592192894946341165</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-6609260331613218835</id><published>2010-01-27T13:09:00.003+09:00</published><updated>2010-01-27T13:14:35.406+09:00</updated><title type='text'>桃花源の記</title><content type='html'>　日本も、暖かくなって、もうそろそろ春だ。今日は、パラダイスを見つけた、と言うお伽話である。&lt;br /&gt;　心の中に、パラダイスがあるのは、何よりも素晴らしい事で、生きていることの素晴らしさを実感する大切な要素の一つと考えている。パラダイスと言うものは、死後の世界でも、天国でも、ましてや地獄でもない。自分の奥底に潜む、”異次元”のを開く扉でもあるのだ。そこから、自分と言う意識が、大きな広がりを持ってくる。古代から、伝わっている、シャーマニズムの世界である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　今日は、桃源郷の話である。地上の理想郷、心のふるさと、と言ってても良いかもしれない。ある意味で、この現実と言う世界も、夢のようでもあり、夢も、一つの現実なのである。&lt;br /&gt;人は、夢を見なくなると、或いは、現実と言う夢が失敗してしまうと、地獄に落ちたり、病にかかったりすると言われている。又、悪夢ばかり見る、様になると、気もおかしくなってしまう。如何に、文明が発達しても、なんとも生きていくのが難しいのが、人間だ。&lt;div class="fullpost"&gt;&lt;br /&gt;　昔、昔、ワンス・アポンナ・タイム、&lt;br /&gt;”晋”の太元年間と言うから、中国でのお話だ。&lt;br /&gt;武陵と言うところに、漁業を生業としている人がいた。&lt;br /&gt;あるとき、何気なく、深い渓谷に沿って、船を進ませていると、どのくらい来たのか、どの辺りにいるのか、迷ってしまった。&lt;br /&gt;暫くすると、突然、あたり一面に、桃の花の咲いている林にやってきた。&lt;br /&gt;河の両岸が、数百歩の幅で、桃の木以外の木はなく、芳しい草の香りが、色鮮やかにう美しく、そして、散る花びらが、入り乱れていた。&lt;br /&gt;猟師は、不思議に思い、更に進んでいくと、桃の林を見極めようとしていた。&lt;br /&gt;桃の林に魅せられたのだ。&lt;br /&gt;桃の林は、河の源の所で終わっており、そこにひとつの山があった。&lt;br /&gt;山には、洞窟があり、その中には、仄かに光がさしていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　船を降りて、洞窟の中にはいっていくと、始めの内は狭く、やっとhと一人が通れるほどであったのが、更に進むと、道は開け、土地は平らに広がっていた。&lt;br /&gt;家は整然と並び、見事な田畑、美しい池、そして、桑や竹も生えていた・&lt;br /&gt;道は、縦横に行きかい、鶏や犬の声が聞こえる。&lt;br /&gt;見慣れない服装をした男女が行きかい、或いは、川で洗濯していたり、精を出して、田畑を耕している。黄ばんだ髪の老人、垂れ髪の用事も、嬉しそうにしていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　猟師には、嘗て見たこともない、素晴らしい風景だった。&lt;br /&gt;猟師を見ると、人々は。その違った着物や姿にびっくりして、「何処からやってきたのか？」と、尋ねた。猟師は、それに詳しく答えた。&lt;br /&gt;すると、直ちに家に引き入れ、酒や食事を振舞った。&lt;br /&gt;こんな人が来た、と言う話が村中に広まって、集まって、外の世界の事を聞き始めた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　彼らは、「祖先のものが、昔、戦乱を避けて、家族、村人を連れて、この人里はなれた所にやってきて、そのまま二度とここから出ず、外の世界と隔たってしまったのだ。」と言う。&lt;br /&gt;そして、「今は、何と言う時代か？」と聞いた。&lt;br /&gt;何と、"漢"と言う時代というものが、あった事も知らず、ましてや"魏”や”晋”は言うまでもなかった。&lt;br /&gt;猟師が子と細やかに話してあげると、皆、驚きのため息をついた。&lt;br /&gt;他の、村人達も、それぞれ漁師を招き、酒やご馳走でもてなした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　数日間か、数週間、数ヶ月河定かではなかったが、漁師は暇を告げようと思った。&lt;br /&gt;村人は、「ここのことは、外界の人に派、お話になるには及びません。」といった。&lt;br /&gt;村の人々は、世間に知られたくはなかったのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　漁師はここを出て、元の船をみつけると、あちこちに目印をつけながら、家に戻った。&lt;br /&gt;都の城下に戻ると、早速、太守の所にいき、起こった事を全て話した。&lt;br /&gt;太守は、部下をつけて、漁師の先導で、彼がつけた印を探しながら、道を辿ろうとした。&lt;br /&gt;しかし、印は見つからず、迷ってしまい、二度と、同じ河を見つけることは出来なかった。&lt;br /&gt;話を小耳に挟んだ人たちが、自分たちで探しに行ったのだが、目的を果たさぬうちに、死んでしまった。その後、行こうとするものはいなくなってしまった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この話は、あの有名な"桃源郷”という、パラダイスの伝説の原点もなった話とされている。陶淵明（AD365~AD427)と言う作家の、「桃花源の記」という話である。この話に、色々と枝葉がついて、様々な話に発展して言ったのだと思う。戦乱、混乱の続く時代の、"フィクション”、夢物語とも見られていたが、実際あった話としても伝わっているそうだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　今となっては、どちらでも良いが、やはり楽しめる話である。桃源郷は、わが国でも、甘露と長寿を祝う、桃と言う花も実も素晴らしい木、それを中心の軸として、桃の節句、三月のひな祭りとも、合体している様である。又、これも、中国から伝わった話を聞いたのだが、「上己」（じょうし）と言って、禊（みそぎ）の行事の源にもなっているそうだ。そこから、和紙でつくった、形代（かたしろ）を川に流す、と言うことが行われていたようである。流し雛の語源となり、「ひいな遊び」が結びついて、女の子の節句になっていったようである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　黒澤明監督の、"夢”という映画、少年と桃の精たち、それに狐の嫁入りの伝説を絡ませた、昼下がりの”まどろみ”のような映画であったが、何度もDVDを見てしまった。面白かった。生きているから、夢も見られる。夢があるから、生きていこうとする。人は、いつまでたっても、少年少女なのかもしれない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　このような、理想世界、シャングリラ、パラダイスなんて、現実にあるわけもない、と、ごく世間的、常識的に、観念的、そして小市民的に、自分に言い聞かせて、否定したがるのも一つの方法であるが、真のリアリストなら、夢も、リアルなものの一部と見るだろう。真実味のある、魂の原風景、具体的な風景描写が、心を酔わせるのだ。何か不思議な力があるのでは、と思ってしまう程、単純だが、魅力のある桃の林、河、山、洞窟。そして豊な村である。伝説や民話、童話には、人の心の奥底にまで届くような何かがある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　記憶に橋をかけると、心によみがえってくるのは、ソ連がやってくる前のアフガニスタン、平和な時代のパキスタン、大好きだったカシミール、インドの山奥、アッサム地方、そしてネパールの奥地には、素晴らしい思い出がある。風物、風景、人々の思い出がある。まだ昔のままで残っている所も、少しはあるかもしれない。ほんの、20年位前のラオス奥地にも不思議な村があったものだ。今は開発されてしまったかもね。チベット、アフガン、ネパールのムスタン、パキスタンの奥地にはまだそんな夢の残り香画残っているかもしれない。その夢は、未だに私の中に残っていて、今も生きている事の支え、エナジーになっているようだ。又、いつか行ってみよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　ハヴァ・ナイス・ドリーム&lt;/div&gt;&lt;div class="readmore"&gt;&lt;br /&gt;&lt;a style="font-weight: bold;" href="http://shambhalacafe.blogspot.com/2010/01/blog-post_27.html"&gt;続きはこちら!!&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/18690307-6609260331613218835?l=shambhalacafe.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/6609260331613218835'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/6609260331613218835'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/2010/01/blog-post_27.html' title='桃花源の記'/><author><name>Atsushi Fukui</name><uri>https://profiles.google.com/107135242134154249942</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-5107038204564226452</id><published>2010-01-19T02:29:00.002+09:00</published><updated>2010-01-19T02:32:09.468+09:00</updated><title type='text'>新たな時代、波動の時代</title><content type='html'>　脳波の信号をエネルギーに変え、物や道具を動かす、という時代が始まった。一寸、SFもどきだが、現実の話。理屈の上では、波動原理、サウンデリアの応用である。脳と機械、或いは、手足の不自由な人にとっても、可能性が増えたということだ。&lt;br /&gt;　脳波センサーを開発する会社は、今では沢山あるそうだが、最近、アメリカで、脳波の力だけで、ボールを浮かせたり、沈めたりする、子供向けの玩具が発売され、話題になっている。一寸昔なら、超能力と言われた部分である。当然、コンピュータ機器、電気、映像の分野にも刺激になっていくだろう。無論、マインド・リーディングも可能となり、悪用すれば、それもきりがない。良い事ばかりがある訳ではない。表があれば、裏もある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　一人前の瞑想者ならずとも、身体の持つ機能を十全に開発できれば、その事だけでも、意識は目覚めてくる。いずれ、誰しもが、難行苦行をせずとも、割と近づくことも不可能ではなくなってくる。洞察力、知恵の力も多少ついてくるということだ。無論、瞑想の楽しみが減るというようなことはない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　”ブレイン・マシーン・インターフェイス”という代物は、インドは無論のことだろうが、アメリカ、ドイツ、日本でも開発段階にあることは、周知の事実。それは1970年代に、世界中の知的探求者が、インド、ヒマラヤに集結して瞑想の勉強を始めた頃に遡る。当面は、旧社会の延長線上を続ける一方で、開発は進んでいた。それは、未来への可能性を見据えていたのだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　これらの国が、これからの文明のリーダーシップにかかわっていくのであろう。医療面でも役立つことは無限に現れてきそうだ。手足やそのほかの身体に不自由な人にとっても、朗報であろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　瞑想者ならずとも、スポーツ選手にとっても、ストーン、つまり、本番にリラックス、そして集中すると言う、相反する要素を、美味く統合する事も、より容易になってくるだろう。瞑想の場合は、意識、潜在意識にも、直に、飛び込む技法なのであるが、詰まり、根からスタートするのであるが、機械では、枝葉からのスタートになる。脳波の状況をコンピューターで測定しながら、その状況を目安にする事ができる。コツが掴みやすくなるのだ。面白いねー。生きていて良かったのかな？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;一寸、一服しようか。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/18690307-5107038204564226452?l=shambhalacafe.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/5107038204564226452'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/5107038204564226452'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/2010/01/sf-1970.html' title='新たな時代、波動の時代'/><author><name>fortunesawada</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05592192894946341165</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-985094897960380592</id><published>2010-01-16T00:00:00.000+09:00</published><updated>2010-01-16T23:28:46.365+09:00</updated><title type='text'>癒しと繋がり</title><content type='html'>　基本的な事実として、人は閉ざされたり、孤独になったりすると、病む傾向になり、なんらかと繋がると、癒されるという特徴がある。人は、何らかとの繋がりを実感すると、安心して、生命力は増大し、楽しくなってくる。その、繋がる事で、反感が減少してくるからだ。つまり、そこで意識の変換が起こるのだ。自分が孤独で、無力感を感じるときには、生命力も落ち込んでしまう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　人という生き物は、自分を支えてくれるという、ものやこと、&lt;wbr&gt;家族、友人、恋人、世界、森羅万象、自然、&lt;wbr&gt;信頼というものが合って、始めて、生命力が充分に働き出すのだ。 &lt;div&gt;東洋には、空、という素晴らしい概念がある。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;空が判らないと、意識と言う機能も目覚めてこない。&lt;wbr&gt;無意識のまま、知能だけを頼りに生きていくことになってしまう。&lt;wbr&gt;実際、空との繋がりを実感する事から、癒しも起こってくる。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;空の発見は、古代インドで、仏教以前に、すでに起こっている。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;その、空の哲学のおかげで、どれほど助かっている事か。&lt;wbr&gt;仏教も空を発展させた知恵と言ってもよいのだ。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;　縁起とは、ものともの、人と人とが縁り（より）あって、&lt;wbr&gt;生じている事。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;まあ、ねじりドーナッツのようなもの、&lt;wbr&gt;DNAの姿にも似ているね。それが縁起だ。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;そして様々な原因と条剣から成り立っている、縁起の理法で、&lt;wbr&gt;この世界が成り立っているのだと云う。縁起は、&lt;wbr&gt;どこかの一点を挿すのではなく、&lt;wbr&gt;空と呼応する全ての段階の世界をも縁起と言う。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;空を理解すれば、そこから縁起が生じてくる。この世界、場、&lt;wbr&gt;所に於いては、自己と他者がいると言う事、それも縁起という。&lt;wbr&gt;その関係性も縁起と言う。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;自分ひとりでは何も起こらない。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;しかも、空を知るとやがて、&lt;wbr&gt;イノチのエナジーの息吹を覚えるようになって来る。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;そこから生命の木が自分の中に育ってくる。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;　空性の知恵は、全てのものごとの背景となり、&lt;wbr&gt;物事にリアリティーが生じてくる。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;意識が目覚めてくれば、ステージが整ってくる。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;”あなたは、あなたではないから、あなたなのだ。”&lt;/div&gt; &lt;div&gt;二番目のあなたとは、単なる上っ面のあなたと言う言葉だが、&lt;wbr&gt;あなたと言う全存在は、単なる言葉ではない。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;それが本当の、生きているあなたなのだ。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;思い込みのあなたは、真のあなたではない。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;容器は、空っぽになって始めて役に立つ。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;　空は、時間とともに、私の古い親友みたいなものなんだが、&lt;wbr&gt;理解すだけではなく、実践して、より生きてくるものなんだ。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;　瞑想には、生命力に共鳴すると言う意味がある。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;生命の風呂にどっぷりとつかる事である。&lt;wbr&gt;日本だったら温泉がいいね。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;それはただすらることだけではなく、こつさえつかめば、&lt;wbr&gt;トレッキングも、ダイヴィングも、散歩も、写真を撮るのも、&lt;wbr&gt;絵を描くのも、音楽を楽しむのも、&lt;wbr&gt;コーヒーを楽しむのも瞑想となる。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;瞑想は、楽しみを増加させると言う事だ。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;　ある人に、無条件に、ただ”ある”ということを感じると、”&lt;wbr&gt;繋がり”が生じてくる。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;何らかの、条件がついてくると、それが負担になると、&lt;wbr&gt;しがらみになってくる。柵と書く。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;詰まり、繋がりは、人を自由にし、柵（しがらみ）&lt;wbr&gt;は人を不自由にする。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;微妙だが、些細な事から、ものごとは天地程の差が生じてくる。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;　人と人との繋がりは、まず、ある人の存在感を感じ、&lt;wbr&gt;互いの個性を尊重しつつ、しかも行為、無為のいかんを問わずに、&lt;wbr&gt;それ以前に繋がっているという感覚から、力が生じてくる。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;そうして波動の交流、&lt;wbr&gt;コミュニケーションと言うものが成り立ってくる。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;柵からは、完璧なコミュニケーションは生じないのだ。&lt;wbr&gt;情報がいいところだ。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;どんな人同士でも、個人差、&lt;wbr&gt;価値観の違いは多少なりともあって当然だ。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;又、共有部分、共通部分。共感する部分と言うのもあるはずだ。&lt;/div&gt; &lt;div&gt;それは普通であって、お互い同士が認め合う事から、自由と言う、&lt;wbr&gt;天からの贈り物画やってくる。&lt;/div&gt; &lt;div&gt; &lt;/div&gt; &lt;div&gt;　本物の癒しとは、ただ疲れが取れる、病気が治る、&lt;wbr&gt;と言うことだけではなく、満足度、そして、深い部分、&lt;wbr&gt;実存の部分にも触れることにもなってくる。人は、誰しも、時には静かになって、安心したいからである。安心にカタチはないし、安心はものでもないが、それこそが、多くの人が求める、最高のものなのかもしれない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　私は欲張りで、他にも欲しいものがあるけどね。ショートなヴィデオムーヴィー、映画を作ってみたいんだ。&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/18690307-985094897960380592?l=shambhalacafe.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/985094897960380592'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/985094897960380592'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/2010/01/blog-post_16.html' title='癒しと繋がり'/><author><name>Atsushi Fukui</name><uri>https://profiles.google.com/107135242134154249942</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-5613330695027913058</id><published>2010-01-04T00:00:00.003+09:00</published><updated>2010-01-04T16:43:47.991+09:00</updated><title type='text'>カタチと時空間の愉しみ２　「卍（まんじ）」</title><content type='html'>　今日は、以前にもブログに取り上げた、仏教で言うところの、共有意識の話だ。しかも、ヒンドウー教の、創造性の原理ともオーバーラップする。そこで、今日は、一寸、卍（まんじ）とその周辺をマインドジョグしてみよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　インド周辺を旅をすると、卍を良く見る。だが、インド文化圏ならずとも、卍は世界中でよく見られる。卍は、最古のシンボルの一つで、極めて複雑な意味を併せ持つ。取り分け、ヒンドウー、仏教の世界には、多い。チベットのボン教となると、卍が中心になってくる。ボン教の開祖、シェンラブ・ミウオーが、卍をデザインしたドージェ（金剛、独鈷）を持っていたからである。 &lt;div class="fullpost"&gt;&lt;br /&gt;　寺院、民家の壁、落書き、道端の石、広場にも描かれる。祭壇、神仏の像の一部、衣服、武器、花器、家具にも描かれる。何処に描かれようとも、卍は、古来から、幸運、吉祥、善意、祝福、健康、生命、長寿のシンボルである。思い起こしてみると、卍が意識の中に入り込んでいるときは、今もそうなのだが、悪い事は何もなかった様に思う。”良い時間”をすごしていた印象が強い。なんとも不思議なシンボルだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　漢字の”万”と言う文字の形の源は、卍と言うことだ、と聞いた事がある。卍から万の字、成るほど、と思うほど説得力がある。万は数字の万でもあるのだが、無数、たくさんと言う意味、豊穣と言う意味だ。卍は、漢字が出来る以前からもう在ったと解釈できる。&lt;br /&gt;　文字は、シンボルだ。只、表面的な意味だけではない。その背後に無限の深みがある。言霊（ワード・スピリット）、トーンと言う意味もあるし、奥深い風味と言うものもある。見えない部分の探求は面白いものだ。&lt;br /&gt;　以前、ヒマラヤのアンナプルナ山系（豊穣の女神）の裏側、即ち、北側に当たるムクティナート（解脱者、解脱の地）と言うヒンドウー、仏教、ボン教、共通の聖地で、満天の星が、思わず絶句してしまうほど、鮮やかに見えたことがあった。例えば、オリオン座の長方形の中だけでさえ、100万もの星達がクリアに見えた事があった。後は、推して知るべし。無数とはこのことなのだ。&lt;br /&gt;　そのとき、月はなく、星明りだけで、新聞が読めるほどだった。天候の状況が良かっただけではなく、自分の霊性も極めてクリアだったのだろう。北極星を中心に、全ての星が、卍状に回転している様子が、赤裸々に見えたのだ。人々は、古来から、この天の姿が、四つの河の源、チベットのシャンバラ地方という地上にそのまま現れたのだと認識している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　卍は、現存する最古のシンボルの一つであるのだが、先史時代から、アフリカを除く全世界で見られるのだ。東南アジア、インド、チベット、中東、地中海、欧州、北欧、日本、南北アメリカと、殆どの世界で知られているということだ。古代インダス文明の遺跡から、そして、今から7000年前のシュメールの遺跡からも卍柄の陶器が見つかっている。古いねえ。&lt;br /&gt;　日本に於いては、卍は仏教を通じて入ってきて、当時の日本、混沌のさなかであったのだろうが、その中心に舞い降りた、真理を現すシンボルとなっている。”和”という文化もそこから生じてきたのだろう、と聞いたことがある。コロンブス以前のアメリカやメキシコには、ヒンドウー教のガネーシュ神とともに、卍は紀元前に伝わっていたと言う話だ。ホピ族のシンボル、メディスンホイールも、卍のヴァリエーションだ。南米のインカ、終末論で今、話題のマヤの見事な石組みも、卍のようではないだろうか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ケルトに於いては、雷神とともに、卍は幸運の象徴として描かれた。ギリシャ神話の太陽神アポロンの胸に、本家ヒンドウー世界のヴィシュヌ神の胸にも、卍は描かれている。卍は、北欧のルーン文字にも使われ、太陽と関連付けらえれていたようだ。そして、風、雷、稲妻の神。ソールの槌、斧と解釈されていたようだ。この世の神の力として、キリスト教にも伝わっている。カタコンベに、そして中世にはあちこちの建物や、福音書にも描かれたと言われる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　卍には、右卍と左卍とがある。無論そこには、作用や意味の違いがあるのだろう。それぞれ試してみると、その力の意味、作用に違いが判ってくる。&lt;br /&gt;　まず、体に於いては、鼻の通りがよくなって、呼吸が自然で楽になってくる。整腸作用もあるかも知れない。香りにも敏感になってくる筈だ。宇宙的には、時空間が整い、自ずと秩序が生じてくる。ヒンドウーに於いては、卍は吉祥の門、神秘の入り口となっている。タントラに於いては、ムーラダーラチャクラと言う、基底のチャクラとして、天頂のサワスラーラと繋がっている。&lt;br /&gt;　見方を変えると、卍は交差する中心を軸とした、回転運動、循環運動、円運動とも解釈できる。又、この交差する軸は、次元の変換点でもある。そして、これは、万物の発生、運動、活動の原点、中心なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　人は、誰しも卍に何か不思議な、神秘的なインスピレイションを感じるようだ。それは、直観力が目覚めると言う事だ。無意識のうちにも、隠れた知覚が目を覚ましだす。カタチの単純さゆえに、人の心を引き付けて止まない。これは、近くの心理学にもなってしまうが、人の知覚の傾向として、どんな複雑なものごとでも、単純化して、自分の理解しやすい姿、形に翻訳すると言う能力を持っている。卍はその助けになるのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　人は、大人になればなるほど、様々な知識、情報が入り込んで、なかなか純粋無垢にはなれないものだ。或いは、ものごとによっては、世間や社会、個人的な都合で見ないようにしている。また、盲目的な信仰、拘り、或いは習慣的な思考ではなく、真に、ものごとのあり方や、何らかの疑問を探求する人は、尚更だ。生に誠実な人、そこの所こそ知りたいと思うものだ。それがロマンと言うものではないのかな。そこで、気づき、目覚め、覚りなりが重要になってくる。&lt;br /&gt;　シンボルと言う言葉の意味は、ギリシャ語のシンボロン、割符と言う意味だ。つまりそれは、対（ペア）の片方であって、もう片方の何かと出会って初めて、意味を為すと言うことだ。シンボルの探求は、単に知識の問題ではない。何事も、表面は浅薄なものだが、背後に回れば、奥は深いと言う意味である。そこに、不思議な力も、見えない縁の糸と言うものもある。又、そういう大きなもの、力のあるもの、神秘なもの、不思議なものだけが、シンボルとされるのだ。仏教は、縁、縁起によって、世界は生起するという。その為にも、卍はとても大切なシンボルなんだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それは個人を超えた、普遍的、ユニヴァーサルなもの、生きた魂に根ざすものなのだ。真に深い意味を持つものだけが、シンボルと言う”代名詞”を持つことが出来るのだ。&lt;br /&gt;　右卍と左卍とを合わせると、田と言う文字になる。スペース、領域、森、フィールド、田、畑といった意味だ。共同体を構成するもの、共有するもの、例えば、卍を通して、&lt;wbr&gt;統合を確認する印となる。悪用すれば、第二次大戦のナチの様にもなってしまう。何事にも言えるのだが、包丁と同じで、上手く使えば、美味しい料理を作ることが出来る。&lt;br /&gt;　シンボルは古来から個人によって生み出されたのではなく、ある社会、共同体、集合的なグループ、そして神秘的な体験や経験、覚りに基づいている、のだという。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　日本には、卍の持つ意味は、主に仏教の真理、仏心、英知として伝わっている。だが、そこに、ヒンドウー教、ボン教、欧州文化との共通性が現れてくる。&lt;br /&gt;　また、卍は、サンスクリット語で、スワスティカ、吉祥と言う意味なのだが、インドで、欧州でもそのまんまの音で使われている。一部、ヨーロッパで、ギリシャ文字のガンマ、Γ、を四つ併せ持つ事から、卍はガメイディアンとも呼ばれる。ナチに迫害された、ユダヤ人にとっては、卍には良い印象は無かろうが、アジア全般、日本、地中海、欧州、北欧の人々にとっては、縁起がよい、吉祥なシンボルなのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　古来から、混沌や閉塞が起こると、秩序を回復し、活気つけるためもあって、卍は部屋の中にも、壁にも、塀にも、道端にも描かれる。単独の場合が多いが、日本では、連続的な、流れ模様となって衣服に使われたのが、ユニークだ。&lt;br /&gt;　時代劇で、大岡越前守や遠山金四郎が、奉行の座に就くとき、卍柄の衣服が使われる。卍は、浮世絵師北斎の画号にもなっていて、卍の博物誌（植村卍著。晃洋書房、2,625円）を参考にさせていただくと、北斎の図案は素晴らしい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　卍の起源は、水とされている。チベットのシャンバラ地方の地形、即ち、カイラス山を軸として、四つの河の源流となっているところで、そこから、水は海へと繋がっている。人が、カオスを秩序付けると言うことは、宇宙を、時間化、空間化するということだ。そこに、何らかの”軸”と言うものが必要になってくる。それが瞑想では、センタリングと言う。&lt;br /&gt;　自己を軸とすれば、認識上、世界と自己存在とを分離する事になる。瞑想を深めると、よりリアルになってくる。軸が定まり、尾てい骨から天頂まで、通々になれば、秩序は自ずと整ってくる。物事がクリアに見えてくる。&lt;br /&gt;　東西南北の方位は＋のカタチで四つに分断される。その周囲を円で囲むと、自然の、神聖な力と言うものが加わってくる。円とは、自然な聖なる形。その意味するところは、存在の輪である。その中にはいればよい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ここで、ダンス、舞いと言うものに注目してみよう。シヴァ神は、ドウンドウーミ（鼓）をもって、宇宙を舞う。ナタラージ、舞踊の神として、世界を創造する姿なのである。私たちが、音楽を聴いたり、舞を待ったり、スポーツしたり、祭りに行ったり、遊んだり、活動するのは、意識的、或いは無意識の内に、この舞に参加しているのである。花が咲くのも、自然な舞なのだ。舞いとは、宇宙エネルギーを、時間に変える、時間化するということだ。それが、グッド・タイムを創造するのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div style="text-align: center; font-weight: bold;"&gt;卍&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="readmore"&gt;&lt;br /&gt;&lt;a style="font-weight: bold;" href="http://shambhalacafe.blogspot.com/2010/01/blog-post.html"&gt;続きはこちら!!&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/18690307-5613330695027913058?l=shambhalacafe.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/5613330695027913058'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/5613330695027913058'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/2010/01/blog-post.html' title='カタチと時空間の愉しみ２　「卍（まんじ）」'/><author><name>Atsushi Fukui</name><uri>https://profiles.google.com/107135242134154249942</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-3586113841106822877</id><published>2009-12-27T14:14:00.004+09:00</published><updated>2009-12-30T15:42:48.273+09:00</updated><title type='text'>ストーンフラワー</title><content type='html'>　アントニオ・カルロス・ジョビンのアルバムに、ストーンフラワーというのがある。ボサノヴァの良い曲が何曲も入っている。中でも、”ブラジル”って曲は気にっている。30年前に吹き込まれた曲だが、今でもきにいっている。ウエイヴ（波動、波）ってアルバムも良かったね。大ヒットして、世界中を席巻した。両方とも、今ではCDとなって販売されている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　今日は、ストーンな話だ。&lt;div class="fullpost"&gt;&lt;br /&gt;　古来から、ストーン、石には、安定、信頼、永続性、不死、不滅と言う意味があって、石には、人々の願望や願いが込められている。だから、石と言っても、只の石ではなくなってしまう。スピリットや思いと言うものが入ってきてしまうからだ。山、岩、木、森羅万象との結びつきがあり、宇宙の全体性をも象徴する事がある。神の、依り代にもなっている。小ダインシャーマニズムから、現代にいたるまで、その意識、伝統は脈々と受け継がれてきている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　石、ストーンには地域の共同体のシステム、つまり、所という二次的な意味もある。環境の事だ。元を辿ると、石、巨石文明と言うものは、太陽信仰から起こってきている。ストーンの意味は多岐にわたっているのだが、その社会システムが、自給できる、うまくいっているという意味でもある。ストーン・ストック、そのまんまと言う意味もある。&lt;br /&gt;　文化と言う言葉を意識して、ストーン、石と言う事を考えると、まるで宇宙のように意味も世界も広がってくる。最近は、あちこち荒れ果ててしまったかもしれないが、単に土地や場所と言う意味ではなく、生活圏と言う意味がある。無論、そこには、規律なり、作法なり、しきたりもあるだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　つまり、人の世界とは、様々な形、クオリティといった無数の石が集まったものとも見ることができる、&lt;br /&gt;文化人類学だ。ストーンとは文化であり、タオ（道）なのだ。無論、常の道にあらず、だ。世界の見方にも、色々あるのだ。人の数だけ世界はあるのだから、60億以上かな?&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　物事がスムースに、うまく物事が運ぶようになれば、そこに、ストーンという素直な意識があるだけで、そこに自ずと、秩序と言うものが生じてくる。昔のカトマンドゥを思い出してしまうが、静かにその経緯を眺めていると、素晴らしい。瞑想にもなる。仏教で言う所の、共有意識と言う意識が生じてくる。それは、無私からのみ、生じてくる。&lt;br /&gt;　規則というものは、状況次第だが、規則は少なければ少ないほど、美味くいく。共有意識が、人々の意識と同調するのだ。これは、波動原理が生きているところでは、自ずと起こってくる。特に規則を作らずとも、道筋が誰にも見えてくるということだ。リアルな世界と言っていいだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　規則が多すぎると、自由と責任の所在をいい加減にしてしまう。見方にも依るが、規則の強化はごまかし、或いは脅しのようなものになってしまう。人の自発性を減らし、無駄なエネルギーが余分に消耗される。ストレスが蔓延してしまう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　さて、石にはあるところでは、只の石であっても、又あるところでは、神とも呼ばれ、仏陀とも呼ばれ、宝石と呼ばれる石もある。パワーストーンと言う、意識や身体にも共鳴する、不思議な力のある石もある。人と同様に、様々な石に、様々な特徴がある。そして、石に自分をオーバーラップさせる生き方は、伝統的な、ストーンな生き方だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　馴染んでくると、ものごとの深い意味がわかり、表面的なことに配慮はしても、やたらと、思考や情報に惑わされなくなってくる。素直な自分でいることがいい。もし無力感を感じたのだったら、誠実さを力にするといい。これは日本でも有効だと思う。柔軟で、臨機応変なのがいい。それが、”技法としての表を持つ”、ということだ。それが、内なるお洒落にも通ずる。クールでスマートだ、&lt;br /&gt;　ストーンと言う言葉には、頭を落とす、無心、くつろぐという、仏教、ヒンドウー的な印がある。軸を定める、センタリングと言う意味もあるだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　一寸、イマージン、空中、一片の雲。真っ青な空に、雲が一つポッカリと浮かんでいる。気持ちがいいね。雲になってしまいたいぐらいだ。気持ちが良くなれば、意識は自ずと広がって、自分の家、広大なスペースに戻ることが出来る。ものごとにも、自然体と言うものがある。どんなものにも命は宿っている。ストーンな世界では、ものごとがそのように見えてくる。それが普通なんだよ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　”ラトナ・サンバーヴァ”、ラトナとはストーン、貴重な石の事だ。サンバーヴァは、賢者、ブッダ、つまり、ストーン・ワイズな人と言う意味だ。金剛乗る（ヴァジラヤーナ）にあって、南を守護する、南方浄土のブッダである。&lt;br /&gt;　日本では、宝生如来、宝を生む如来となっている。嘗ての、私の修行中の名前にもなっていた。そのラトナサンバーヴァのテーマが、共有意識だ。コモンコンシャスと言ったらいいだろうかね。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　基本となる、シヴァ神の純粋意識を発展させたものと言っていいだろう。無論、両者はオーバーラップし、共振、共鳴する。タントラと仏教、ともに探求の、リアリズムの宗教だ。探求好きな人には、チベット仏教はタントラ同様に、たまらなく面白いと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　生きるとは、今を生きることに他ならない。過去は、記憶の中にあるし、未来はまだだ。今と言う次元、そして宇宙的領域において、ストーンし、共鳴し、意識が広がっていくにつれ、それだけで気持ちが良いものだ。生きていることそのものがパラダイスになってくる。腐った、イデオロギーみたいに、将来の為に、今を犠牲にするという生き方は、お勧めしない。本当に生きていたいんだったら、愉しみたいんだったら、”充実した今”を見つけるのがいいと思う。問題をとやかく言うよりも、答えを生きるほうがいいと思う。それだけでいい。無論、今さえ良ければ、後はどうでもいいということじゃない。まあ、言わぬが花かな？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　花は柔らかく、生き生きとしたもの。イノチのあらわれ、息吹、と言っても良い。石と花、一見、正反対のものごとの対比なのだが、コケなどは石の上にでも花を咲かせる。進化論を学んだものなら、無機質から生命（花）が生まれたことを知っている。様々な文化を行き来し、異文化との共生が可能であると言う、知恵の事でもある。それがストーン・フラワー。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　イノチと言う神秘に瞑想していると、大本の所では、生とは無目的だ、と言うことに気づく。イノチには悩みもない、方向すらない。肝心な事だよね。イノチの目的は、生きること、このことよ。他には何もない。動物や、植物にも、何らかの目標があって生きているわけではない。生きるのに特に理由も要らないはずだ。山を見ても、海を見ても、華や樹木を見ても、何か語りかけてくれる。意識が宇宙と一つになるに従って、生きると言う意味が判ってくるような気がしてくる。一とは万物の根源であり、全宇宙は一つ出会うと言う理解が生じてくる。&lt;br /&gt;　老子によると、一は道であり、真であり、善である。善においては、本来の面目、本当の自己といって、これを体得する事が、善の目標になっている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　花が咲く。なんでもない言葉だが、花が咲くと言うことは、閉じられていたシステムが開くと言う事だ。それは成長の証なのだ。生物学で花を捕らえれば、頭の世界、分析、分類の世界になってしまって、味も素っ気もない。だが、花は、人の頭ではなく、意識や心にかかわっている存在だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　無、ものでないことの中心にあるのが、花だ。花と石と言う、人の心の深層にある二つの世界は、見えない糸、つまり、玄、人の意識の深みで繋がっている。&lt;br /&gt;　玄とは、只の黒い色と言う意味ではない。玄とは、非常に深く、優れている、と言う意味である。あらゆる相対的論理の束縛を離れ、深遠な味わいがある、と言う意味である。花が咲き、甘露を得、至福を得る。玄妙と言うだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　甘露（アムリタ）は、シヴァ派に依れば、天頂のチャクラ（サワスラーラチャクラ、千弁の蓮の花のチャクラ））が開くと、クンブー（水瓶）から降りてくるという、不死の甘露の事である。&lt;br /&gt;何処にクンブーがあるのかと言っても、視覚的に見えるわけでもないので、物理的な表現は不可能だ。&lt;br /&gt;瞑想を重ね、場所的には、ヒマラヤがいいだろう。エナジーが高く、容易にサワスラーラが開くようだからだ。やがて繋がりが生じ、天界と通ずるようになると、甘露（アムリタ）が、泉の世に湧き出してきて、全身全霊を潤し始めるのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　甘露（アムリタ）を味わった人は、覚りを得る。甘露を得、至福を得る。そして途切れのないエナジーの流れを、暫く体感する。覚りという、イノチのエナジーの流れは、所謂、高揚感や興奮とは全く次元が違う。そのエナジーの流れを知ることこそ、生きる喜びなのだ。それは、あらゆる創造物、創造性、森羅万象と繋がっていて、尽きる事がない。禅も、タントラも、タオもこの一点で一つになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　瞑想の何たるか、を知らないと、壁の向こう側の話、まるで嘘みたいだが、真実の話である。&lt;br /&gt;ガンガー（天界の川）が地上に降りてきたという御伽噺も、”ガンガーの降下”と言う、甘露にかかわった神話がある。象徴的な話である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ヴィシュヌ神の神話にも、神々と阿修羅たちとが、甘露をめぐって取り合いをしたと言う話がある。甘露は、ヒンドウー教に於いては、最も重要なテーマになっている。現代では、エンドルフィンと呼ばれている。悪魔や魔物が、魔物である所以は、甘露（アムリタ）を得ることができなかったと言う意味にある。&lt;br /&gt;そんなわけで、魔物たちは、人々をだましつつ、せこく動いているのだそうだ。&lt;br /&gt;　日本には、「待てば甘露の日和あり」と言う諺がある。松に鶴、梅に鶯。ヒンドウー教や仏教のように、甘露は、内在しているという知恵や理解はどうなったのだろう。&lt;br /&gt;　美味い茶は、その甘露を引き出す触媒の働きをする。茶の薬効作用と、瞑想技法とを美味くフィットさせると、相互作用として、甘露が生じてくる。通路が開くのだ。それは開いたりもすれば、閉じたりもする。実に微妙で玄妙なものだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　花は咲く。春が来て、季節がめぐって、環境や状況が整ってくれば、草は一人でにはえ、花はひとりでに咲く。当たり前のことなんだが、なんと不思議な、神秘的な現象なのだろうか。&lt;br /&gt;　能の開祖、世阿弥によれば、「風姿花伝」の中で、「全ての技や経験を極めた先に、ゆるぎない花がある」、とある。チャクラのことだ。”秘すれば花”と言う名言が残っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　生物学的に花の意味を行ってもしょうがない。人が花から受けるパワーは、まず、視覚。目で見て、その色、姿に惑わされる。色と言う言葉の意味には、あるがままと言うのがある。心と言う意味もある。&lt;br /&gt;花は、意図的に、人を惑わそうとしているわけではない。花はあるがまま、そして、只、咲く。&lt;br /&gt;　花咲きて、世界に香し。視覚の他に、人が花から受けるパワーは香りである。香りは、色以上に人をひきつける、薬効効果のあるものもある。インドやアラビアでは、アロマテラピー、香水として医療的にも、くつろぎの為にも、古代から発展してきた。インセンスもそうだ。香りは、人の心に強く作用する。人は、花の美、色、香り、姿を楽しむ生き物なのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　南アジアでは、特にインド、ジャワ、カンボジア、ラオス、タイ、バリ、そして、ハワイ、沖縄、ポリネシア等では、祭儀のとき、客が来たとき、ジャスミンが香りが良いのでよく使われるのだが、花輪をだして、首にかける習慣がある。花の少ないチベットでは、白い布を首にかけてくれる。いいものである。花は心だ。花が心を開くのだ。人の心理に合わせている。科学的だろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　今でも、タイ、バリ、ラオスそして沖縄、ハワイ、ポリネシア辺りの若い女性が、髪に花を挿す習慣を目にする。粋で、見た目にも風情があって、インド、ベンガル、ラオス、タイ、ジャワの更紗模様のロンジー（ルンギー、長い巻きスカート）ともよくフィットする。風情豊で良いものである。欧米人の女性が、老いも若きも、まず飛びついたね。&lt;br /&gt;　祭りのときは見応えがある。お洒落の極み、と感じたんだろうね。そうして、南アジアに夢中になってしまう。香りの良い、ジャスミンやマグノリア、ランの花の小枝を一本、髪に挿す。代のワンポイントほどお洒落なものはない。皆日に焼けているから、なおさらだ。&lt;br /&gt;　長い髪の女の人は、長い髪を後ろで纏めてたくし上げ、花の咲いた小枝を一本そこに通して、形を作る。うなじの表情が、なんと美しい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それは、神仏の依り代としても機能する。魔よけの意味もある。太平洋、ポリネシアにもそんな習慣がある。沖縄周辺にもあるそうだ。ムー大陸の文化遺産かもしれない。日本の古代、神代の時代にも、そんな習慣があったようだ。&lt;br /&gt;　挿頭（かざし）は、古代の日本では、身分の高い男性だけがするものであったらしい。後に、江戸時代になって、女性達は、金、銀、銅、木やガラス、鼈甲、琥珀、象牙、翡翠などで、意匠を凝らした、簪（かんざし）を頭にさす風習がファッションになっていった。本物の花を使うと、花簪と呼ばれた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　南アジアに長くいると、日本もかつてはそうだったんだろうけど、人や動物、山川草木、それらの森羅万象の関係が、縦ではなくて、横並びなんだ。国旗を見ても、皆、横縞だろう？　全部ひっくるめて、自然、天然デモクラシーとでも言うのかな。動物や植物に人権と言うのも変だけど、皆がしっかり生きている。&lt;br /&gt;　存在している。全てのものにイノチあり、石にも命が宿っている。木にも。花にも、マンゴーにも、やしの木にも…　そして、人々の慈しみが生きている。イノチってそういうものなのだ。皆が分かち合っているのが実相だ。生きると言う事は、動詞、そして、自然とは、自ずと然るべく、と言う形容詞なのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　花は文化、そして宗教の中心にある。花は人の心にとって、最も重要だからだ。文明は、常に変わり行くもの、頭にかかわり、進化し酔うとする力学が働くからかもしれないが、文化とは、人の心にかかわって、スローで、ゆったりと、息づいている。生とは、息をすることだから、変化もゆったりとしている。昔からそれ程変わらないのが、文化だ。言葉、詩歌、文学、音楽、芸能、絵画に於いても、花は表現されてきた。花なしでは、ヒンドウー教も、仏教も成り立たない。それは、花の祭りなのだ。花とは、美であり、究極の真理の象徴であり、生命、生活の象徴なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それを祭らずして、何を祭るのか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　睡蓮（サンスクリット語、ヒンドウー語で、赤い蓮の花はカマール、白いのはブンダリーカ、青いのはニーロートパラ、チベットではパドマ、英語だとロータス、車が有名になってしまったけどね）。蓮の花は、神仏が降臨するところ、座として中央に位置する。神話によると、ヴィシュヌ神のへそから、蓮の花が生じ、そこにブラフマ、創造神が生まれたと言われる。チベットに仏教を伝えた、パドマ・サンバーヴァも、吉祥天ラクシュミも、蓮の花から生まれた、と言う意味だそうだ。&lt;br /&gt;　蓮の花は、当然水とつながりがあり、ガンガー女神、アプサラ天女ともつながりがある。又、寺院や王宮にも吉祥の紋所としてあちこちに飾られている。ヒンドウー、仏教では、普通、蓮の花は、太陽のシンボルになっている。亜熱帯から、熱帯にかけて、さんさんと降り注ぐ太陽の下、北はヒマラヤ、南アジア、ボルネオ、オーストラリア、ポリネシア、ニューギニア、アフリカ、中東、マダガスカルの水辺にも咲いている。それも一年中だ。オーストラリアのジャングルの奥地にあった、何千万という蓮の花が咲く湿地帯は、素晴らしかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　睡蓮が太陽の象徴になっている理由は、朝になると、恰も、ヴィシュヌ神が、まどろみから、ゆっくりと目を覚ますかの如く、花弁を開き、夜がやってくれば、静かに花弁を閉じ眠いに就く。朝、目を覚まし、夜眠る。太陽の動きに連動している。蓮は泥から生まれ、泥に染まらず、穢れる事もなく、水面に静かに浮かぶ。&lt;br /&gt;　ピースだね。本物の美、それは比較も競争もなく、只、あるがままで、そのもの本来のあり方を体現しているもの。あるがままでの、メディスン（呪術）であり、世間と言う呪縛からの開放なのである。&lt;br /&gt;　睡蓮は、その優雅な姿ゆえに混沌の海から浮かび上がる宇宙を体現しているとされている。美しさゆえに、月のシンボルにもなっている。太陽の力と、月の力、宇宙大海の力との宇宙的なな相互作用、ひとつ、と言う統一の意味も表しているそうだ。何でもかんでもが、蓮の周りに集まってしまう。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　同じ事は、富士山にも言える、富士山の美しさには、理屈も哲学も、理論も関係ない。深遠な心に、直に、届く。その姿が美しく感じられる、というものだ。睡蓮も、富士山も、その姿、波動を通じて、人の心の奥底にある、形のないものと、直にコンタクトする。その力が、何よりも素晴らしいと思う。&lt;br /&gt;　個人的には、富士については、夜明け、夕日を背景にした、蔭富士がすきだ。蔭ゆえに、シルエットが、荘厳で美しく見えるような気がする。自分の部屋にも写真をおいてある。エスプリあるからね。睡蓮も、富士山も…&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div style="text-align: center; font-weight: bold;"&gt;オーン・ナマー・バガバティー・ヴァースデバーヤー&lt;br /&gt;（ヴィシュヌ神のマントラ）&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;div style="text-align: center; font-weight: bold;"&gt;花は、只、咲く&lt;br /&gt;誰かさんに見せようとして、咲くわけではない&lt;br /&gt;只、自然に咲く&lt;br /&gt;そこの所が美しい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;一蓮托生&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;div style="font-weight: bold;" class="readmore"&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://shambhalacafe.blogspot.com/2009/12/blog-post_27.html"&gt;続きはこちら!!&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/18690307-3586113841106822877?l=shambhalacafe.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/3586113841106822877'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/3586113841106822877'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/2009/12/blog-post_27.html' title='ストーンフラワー'/><author><name>fortunesawada</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05592192894946341165</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-930168318975894328</id><published>2009-12-26T00:00:00.001+09:00</published><updated>2009-12-27T14:26:14.606+09:00</updated><title type='text'>「今」という未知３</title><content type='html'>　インド文化圏での基本的な考え方として、物質を色と呼び、粒子でない状態を空と呼んでいる。空とは、いっさいの存在、それ自体が自ずから”無”である、と言うことなのだ。無と言う文字は、簡単な一字に過ぎないが、誠に容易ならざる、広大な世界の入り口でもあり、又、ゴールでもある訳である。&lt;br /&gt;　無とは、何もないという意味ではない。普通の言語では、無は”有る”に対立する言葉だ。タオや禅においては、有無の対立や、あらゆる執着を超えた、円満究極の真理は、言葉で言い表せない、と言う意味で、無、というそうだ。ここにいたって、無は空と同義語である。&lt;br /&gt;　東洋思想の多くは、この無を基盤にしている。西洋的な探求は、科学、思想、哲学などは、有の探求と言うことになる。そして、今や、有は無に到達した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　東洋の無の思想は、”何もない”と言う意味ではない。”ものでない事”と言う訳がいいかと思う。他にも、”ものの本性に決まったカタチはない”。”実体がない”、無相である、と言う理解に到達している。また、禅においては、人は、本来無一物と言う言葉があって、本来執着すべきものが、何もない。汚れも塵すらもない、と言う意味での、無がある。&lt;br /&gt;　無事、と言う言葉は、人は様々な煩悩を持って生きているが、その中に、純粋な人間性、仏性ト言うものが隠れていて、しかもその可能性は誰にでもあるという事である。だから、外に求めず、自分の中の深遠、玄妙なるものに分け入って、もう一人の自分に出会う努力をしよう、というのが禅の本位なのである。もう一人の自分に出会った人を、貴人と言うそうだ。&lt;div class="fullpost"&gt;&lt;br /&gt;&lt;div style="text-align: center; font-weight: bold;"&gt;無一物中無尽蔵　有花有月有桜台&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;　本来無一物の澄んだ心で眺めると、そして利己心を空ずるなら、所有物など何もなく、捨てるという事すら、捨ててしまうと、究極的には、宇宙に存在するもの全てが、花は花として咲くだけではなく、それぞれが全自己であるという理解なのである。何もないことが、今度は、全てがある、無尽蔵と言う理解に到達する。つまり、空も、無もよく学ぶと、そこに真の”有”が生じてくる。不思議だね。この世と言うものは面白い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　”色”、と言う物質に偏り過ぎれば、現実主義に、空に偏りすぎれば、虚無主義になってしまう。どちらにも極端に偏らずに、”程よく”粋抵抗と言うことなのだ。それが、到達したものの理解なのだ。タントラの意味するところである。見えない縁（えにし）の赤い糸ではないが、全てはどこかで繋がっている。それが玄妙ということだ。ディープだろう？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　仏教では、世界は縁起、無常、因縁で成り立っているという。未来永劫、永遠普遍の実態などはないといっている。波動力学によれば、見え方によって、エネルギーであったり、粒子に出会ったりするのだという。科学も、仏教に近づいてきたようだね。仏教の、その理解と知恵から、文化と言うものがあって、人々のよりどころともなっている。変化をゆっくりさせたり、ノンビリさせたり、緊張を緩和したりする働きがあるのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　人に物心がついてくる頃から、私、僕、自分と言うものが身体にすみ始めてくる。赤ん坊の頃は、まだ、私と言うものはなかった筈なんだ。鏡を見たり、様々な事があって、これは、私と言うものではないのかな?というものが、身体とか、頭に住み始めてくる。そのうち、何かに遠慮したり、謙遜したり、分別もつき、自分と言うものが芽生えてくる。綺麗とか、汚いとか、良い、悪いという分別は、親や環境によって教え込まれる比較概念なのだ。それが生じてくると、自分以外は、汚い、悪い、と言う考えが当然起こってくる。自我意識が生じてしまう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　物心がつき、無意識なうちにも、比較概念を伴って成長してくると、どうしてもこの世を生きるということは、自分以外は汚い、悪いというおかしな概念に虜にもなってしまう。極端な話、自分のいる世界は、戦場のようになってしまう。&lt;br /&gt;生は、戦いになってしまう。競争社会は、そこから火ts全的に生じてしまう。&lt;br /&gt;そうやって、無意識の内に、様々な事が積み重なって出来上がった私と言うものは、本来の私と言う医師kの構造体に間借りしている、厄介者と言うことになってしまう。そのうち母屋ものっとってしまう。&lt;br /&gt;当然、いじめも起こってくるし、精神も歪んでしまうから、夢も希望も、おかしなものになってしまうよね。&lt;br /&gt;リアルなのは、欲求不満だけと言う事になってしまう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この自我、エゴと言う奴は実に厄介で、しかも無責任な奴で、自分の身体とか、宇宙とか、調和なんか眼中になく、自分の都合、利益、そのことだけを考えているんだ。トータルなる自分にとっても、迷惑な話なんだ。視力、認識力が偏ってしまうんだ。&lt;br /&gt;それが、自我と言う奴なんだよ。周りの事を無視してしまう。&lt;br /&gt;だから、世間を生きていくとき、中庸な自我が大切に成ってくるんだ。程々がいいんだよ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　仏教は、信仰の宗教ではない。&lt;br /&gt;そして信仰とは、宗教と限ったわけでもない。&lt;br /&gt;イデオロギーも、資本主義も、共産主義も、どんな観念や哲学も、社会通念も、信仰が支えているんだよ。&lt;br /&gt;無知の信仰もあれば、多数決の信仰、自分の都合と言う信仰もある。&lt;br /&gt;そのこと自体は、いいとも悪いともいえない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　例えば、お金だってそうだ。昔の小判ならいざ知らず、一万円札は、紙でできている。&lt;br /&gt;紙質や印刷にお金がかかっているといっても、大量に印刷するわけだから、たかが知れている。&lt;br /&gt;１０円以下で出来るのかもしれない。もっと安いかも。&lt;br /&gt;それでも、一万円札が、一万円として通用するのは、国を、お金を信じているからだ。&lt;br /&gt;信じていなければ、お札だって只の紙くずだ。&lt;br /&gt;それは信仰なのだ。&lt;br /&gt;国が傾けば、お金の信用度も落ちてくる。&lt;br /&gt;そういった、様々な信仰の寄せ集め出成り立っているのが、世間と言うものだ。&lt;br /&gt;世間とはそういったものだ。いいと変わるとかの問題ではないんだよ。&lt;br /&gt;見方を変えれば、面白いではないか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　話を戻そう、&lt;br /&gt;世間にどんなにかかわっていたとしても、人が人である以上、自由と言うものに憧れを持つようになってくる。&lt;br /&gt;真の世界と言うものを見てみたい、真に生きてみたい、潜在的な願望がある。&lt;br /&gt;真を知れば、自由があって、健康もついてくる。&lt;br /&gt;イノチも生きてくる。天地いっぱいに生きられる。&lt;br /&gt;だから、人は、真実と欺瞞と言う矛盾する二つの次元にかかわって生きていることになる。&lt;br /&gt;だが、矛盾を認めると、世間とはそういうものだと認めると、矛盾は消えていくようだ。答えはその辺りにありそうだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　シヴァという神様の、サンスクリット語の意味は、”吉祥なるもの”、”良い”、”安らかなるもの”等意味だそうだ。&lt;br /&gt;いい事ずくめだ。今では、ヒンドウー教の主神の一人になっているが、本人には、寝耳に水ではなかったのかな？&lt;br /&gt;しかも、仏教においても、自在天と言う、力のよりどころとしても働いている。ヴァラナシ、ムンバイ、コルカタ、そしてバンコックでも人気は高い。&lt;br /&gt;シヴァが存在していた時代、当時は、ヒンドウー教も仏教もなかった時代である。&lt;br /&gt;いまや、ヒンドウー教の信仰の対象にもなっていて、奉られ、エナジーを生む事から、男根崇拝の信仰とも重なって、ヴィシュヌ神とならんで、膨大な信仰の世界をももっている。今でも、シヴァの”純粋意識”は”共有意識”として、多くの人たちの助けとなっている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　私個人は、タントラも、禅も、タオも、ゾクチェンも３０年以上も勉強したり、瞑想したり、探求したりしているが、職業にしているわけではない。だが、趣味と言うより、今では、楽しみになっている。&lt;br /&gt;今は、仕事に夢を持っているが、仕事にも、隠し味的に、生かして行きたいと思っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　最近では、知識や知性、分析力がもてはやされているようにも見受けられるが、瞑想と言うものは、頭や言葉だけの知識と言うよりは、それらを超えた英知と理解して欲しい。&lt;br /&gt;プラスアルファななんかなのだ。&lt;br /&gt;知恵と言うものは、工夫とか、知識といったものと違い、なかなか言語似はしにくいものなのだ。簡単なことでも、言葉によって説明すると、膨大な量になってしまうのだ。&lt;br /&gt;ものごとの延長線上にある何かと言うことではない。&lt;br /&gt;思考や,思いではなく、思いのほかの何かなのだ。&lt;br /&gt;それが、人や物事に深みを増し知恵となって、キャパシティーを拡げていくのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　曹洞宗の開祖、道元師の言葉によると、&lt;br /&gt;”仏道を習うとは、自己を習うことなり”、”自己を習うとは、自己を忘れる事なり”。&lt;br /&gt;おのれが、一体全体なんなのかが判らないうちに、只、闇雲に、漠然と学んでも意味がないだろう。&lt;br /&gt;理解力と言うものが付いてこない。まず、おのれから始めなさい、といっている。&lt;br /&gt;そして自分とは何かと問うとき、その問う門は誰か？&lt;br /&gt;気づけば、自分を忘れているときにgは、視力も、気力も体力も、充実しているているもの、なのだ。&lt;br /&gt;そこから真の自分と言うものが生じて来る基盤が出来るのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　慣れて食えば、簡単なコツなのだが、道しるべが見つからないうちには、暗中模索の状況が続いてしまう。&lt;br /&gt;しかし、やがて、”旧来の私”と言うものが、解け始めてくると、北極の氷だって解け始めている近頃だ、そこに、本来の面目、と言うことが、リアライズしてくることになる。&lt;br /&gt;大いなる自己は,無私から生まれるのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;無私、無心が判ると、様々な事が面白くなってくる。&lt;br /&gt;もし無心が難しかったなら、ちょっとしたコツを教えてあげよう。&lt;br /&gt;それは、一生懸命になって無心に成ろうとしているからだ。&lt;br /&gt;逆作用を働かせて見るといい。&lt;br /&gt;無心ではなく、自分は考えているのだとしたらどうだ？&lt;br /&gt;その考えを眺めていれば良い。&lt;br /&gt;考えを、眺めているものは、考えではないから、無心だろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　頭は使うもの、心は生きるもの、感じるもの、そして腹はすわるもの。&lt;br /&gt;禅は、安楽の法門とも言われている。&lt;br /&gt;それは、苦楽を超えた中道にある、と言う意味だと思う。&lt;br /&gt;軸が決まってさえいれば、中道を行き、そこで、始めて、両翼を広げることができるだろう？&lt;br /&gt;可能性はそこから生じてくる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　タイには、民家や商店、家の前に、よくベンチや椅子、テーブルがおいてある。&lt;br /&gt;急がしく動き回っている人も、散歩や、ぶらぶら歩きをしている人も、誰でも自由に座って、くつろぐ事ができる。&lt;br /&gt;簡単なカフェもある。静座は正座ではない。窮屈にする事はない。&lt;br /&gt;静かにくつろげれば、タイの環境は極楽なのだ。&lt;br /&gt;いい習慣と言うか、文化だね。素晴らしい。サイレントなジョイだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　”笊（ざる）に水だったかもしれないが、少なくとも、一寸は水にぬれたかもね。&lt;br /&gt;少しでも理解していただけたら、それは私の喜び、愉しみとしたい。&lt;/div&gt;&lt;div class="readmore"&gt;&lt;br /&gt; &lt;a style="font-weight: bold;" href="http://www.blogger.com/%E3%81%93http://shambhalacafe.blogspot.com/2009/12/blog-post_26.html"&gt;続きはこちら!!&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/18690307-930168318975894328?l=shambhalacafe.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/930168318975894328'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/930168318975894328'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/2009/12/blog-post_26.html' title='「今」という未知３'/><author><name>fortunesawada</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05592192894946341165</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-5667763544892046780</id><published>2009-12-22T22:08:00.002+09:00</published><updated>2009-12-30T15:36:04.435+09:00</updated><title type='text'>無音のハーモニー</title><content type='html'>　今日は、軽く、他愛無く、只、ぶらぶらとノンビリ気楽に、”色”、”色合い”の世界を楽しんでみようではないか。色と言っても、色事の世界ではない。色は思いの外。道草でも食いながら、ゆるりと参ろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　馬に乗ったことある？馬に乗って、初めて、道草を食うという意味が実感できる。馬にしてみれば、本人はどこかに行くよりも、道端の草を食んでいる方が、本業。美味そうな草が見つかると、なかなか言う事を聞いてくれない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　同様に、色は思考ではなく、感性、感覚で感じるもの、頭ではなく、ハートで感じるものなのだ。生り（なり）に任せよう。レティット・ビー。&lt;br /&gt;　江戸時代の都都逸にこんなのがある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;「餓鬼の頃から　いろはを覚え　はの字忘れて　色ばかり」&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　色事にばかり現を抜かしている連中をからかった歌だ。はっはっは…　人は昔から色、そして色物、色事、色の未知が好きだ。色には、色彩、色事、エロスといった意味の他に。”あるがまま”、”心”と言う意味もあるそうな。人は頭だけで生きているわけではない。色なくして、生はない。色を生きれば、心も生きて来る。&lt;div class="fullpost"&gt;&lt;br /&gt;　人の心の中には、ロマンと言うものが、大きな部分を占めているはずなのだが、生涯かけてそれを追い求める。そんな情熱もなくなってしまったわけでもないだろう。夢も希望もないと、若いうちから、心まで老化してしまう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　成長とは、老化のことではない。成長とは、ある限界を突き抜けて、自分と言う山を超えて、初めて起こってくる。つまり、己に勝つことだ、そこに初めて、心身の成長があるのだ。冒険、探求、瞑想、スポーツ、音楽、武道、それらは、自由と成長にかかわっている。成長は、自由から起こってくる。自由がなければ、成長はない。成長がやみ、生命力が枯渇してくると、既に老化が始まっている。生とは、そういう意味では、実に簡単だ。&lt;br /&gt;　現代社会では、”無限の進化”なる神話のようなものが、信仰されていて、宗教の代わりに信仰されているようだ。可能性が全く残されている面、未開発の面もないわけではなかろうが、どうなる事やら。&lt;br /&gt;　世間では、環境問題が第一とばかりに語られ始めているが、1970年代からそれは起こっていた。加えて、デフレ懸念、アフガン、パキスタンの紛争、これは終わりそうもない。泥沼化しそうだ。景気の動向に一喜一憂し、企業同士が統合を繰り返し、問題とはいえないが、21世紀末には、世界の半分はイスラム化する。面白い風景だろう。矛盾を絵に描いたようだろう。それがモザイク、世界というものなのだと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自然に沿った、新たな実用的な産業はまだ育っていない。嘗てのテクノロジーの多くは。ブルドーザーに象徴される、自然を人間の都合に合わせて、無理やり、強引に変えてきた事だった。自然の生態系、人間の身体もそうなんだが、まるで、奇跡といても良い程、デリケイトで、しかも完璧なデザインなのだ。何も余計な手出しをしなければ、常に完璧なのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　今、確かなのは、このままいくと、地球はやばいという事だ。手出しが過ぎたのだ。無配慮の結果なのだ。判っているのは、このことだけよ。生存にかかわる問題なのだ。経済も糸瓜もない。それは、何十年も前から判っていた。只知らん振りして、先延ばしにして来た結果だ。だが、それももう無理だ。オゾン層はもとより、余りの地球環境の変化が目に見え始めてきているのだから。このままいくと、消滅、沈没する地域も現れることだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　何であれ、緊張が起こってくると、人の意識は狭まって、更にもっと狭まってしまう。緊張にはそういう性質がある。最終的には、意識は閉じてしまう。闇雲に生きるようになってしまう。緊張とは，エゴの働き、エゴとは緊張だ。エゴが緊張を強いるからだ。それは不安の重荷を背負うという意味である。だから、エゴの何たるかを知っている人は、何も背負わないのだ。人のマインドは、常に判断を求めている。判断せずにはいられない。過ぎれば、狂気のようになる。マインドにとって大事なのは、問題の対象と言うよりも、判断の事。白か黒かはっきりさせないと、どうにもならない。それがエゴの何たるかだ。それゆえ、判断に悩んでいるという事は、マインドが腐りかけている、ということなのだ。判断ができないと、マインドは居心地が悪い。最悪だ。&lt;br /&gt;　マインドとは、ニュートラルではいられないものなのだ。無心で、ニュートラルであったら、マインドに居場所はないんだ。そう、必要なときにだけ使えれば、それでいいんだよ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　判断が難しいときには、勇気を持って、判断しない事だ。それが最も簡単で、上質な解決方法だ。白か黒か、YESかNOか、状況次第で、決めつかずにはおれない人と言うのも意外に多いものだ。ところが、世の中というものは、そう簡単に割り切れるものではない。無私になって、状況を見れば尚更だ。&lt;br /&gt;　生きている人には、その間合い、色合いと言うものがある。生は、数学の問題を解くのとは違う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　問題ばかりに注目したがる人は五万といるが、答えを生きて行くほうが、ずっとスマートでいい。できる事はやったほうがいいが、できないことはしない方が良い。身体と言うものは、もっとも身近な、しかも見事な大自然だ。そこで、自然と文化とが絡み合い、綾となり、彩となって、輪のスペースになっている。世界の動向なんてものは、二次的なものに過ぎないが、身体に戻れば、人は、本来エコロジカルな、ナチュラリストなのだ。それが自然体なのである。只力を抜いたからって、自然体成れるわけじゃない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　先のことは誰にもわからない。只何が起こっても、人は、普通の生活を維持しようとするだろう。どんなに、文明が進化したとしても、昔から変わっていない。いちいち不安になって振り回されていたら、一生不安ですごす事になってしまう。それが、マインドの陰謀なのだ。悪魔のささやきだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　世界を救う方法は一つしかない。実に簡単だ。それは、スローイング・ダウンだ。まずは、呼吸から始める。技法はいい。ただゆっくり呼吸することを、日常とすればよい。今を充実して過ごすのが良いからだ。ゆっくりした気分で歩ければ、自分の身体と言うものも、より直に感じられるようになってくるだろう。&lt;br /&gt;ゆっくりと素材の味を、噛み締めながら、味わって食事ができる。いいだろう？　ぐっすりと眠る事ができる。酒も薬もいらない。スロー・イズ・ビューティフル。スモール・イズ・ナイス。その上、ストーン出来れば、心も意識も無限大。大いなる喜びはそこから生じてくる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　色と言う、光のエッセンスがないと、人は、なかなかまっとううには生きていけないのかもしれない。色のある世界にいるということは幸せだ。目の不自由な方には申し訳ないが、目の不自由な方ほど、よく見えるそうなのだ。不思議だねえ。人は、生死と言う矛盾を認識すると同時に、生きがい、生きる喜びをも意識するものなんだよ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　人々は、色、色合いと、色に惑い、色を愉しみ、色々遊びながら、生きてきた。だが、単色では詰まらない。雪に白鷺、闇夜のカラスでは意味がない。色合いとしては、少なくとも二色は欲しい。複数の色が調和して、初めて”色合い”になってくる。見えない縁の（えにし）の赤い糸は、見えなくとも、せめて、白河夜船くらいではありたいものよ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　色合いとは、味わい、和、知恵、文化のことだ。色はものではない。だが、どんなものにも、色はある。&lt;br /&gt;色とは、生の味わいだ。光があって、始めて、色が見えてくる。睡眠中に見る夢には色はないという。色はあるという人もいる。どちらも正しいのだろう。その人の意識状態、状況しだいで。あらゆるものが変化する。諸行無常。そのことだけは、唯一不変。普遍だったかな？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ブラック&amp;amp;タン・ファンタジー（黒と茶のファンタジー）、中間派のジャズ（スイング、ビーバップ、モダンジャズへ向かう過渡期のジャズ）が好きな方ならば、ご存知とは思うのだが、かのデューク・エリントン作の名曲のタイトルだ。カンザスのカウント・ベイシー、ニューヨークのウディー・ハーマンとともに、多くのスタープレイヤーを抱えたビッグバンドジャズの横綱であった。歌い上げる、ジョニー・ホッジスのアルトサックスが素晴らしい。名人芸は、いつになってもいい。トーンに色があるのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　黒は、風物でも、ファッションでも、芸術でも。使い方が難しく、場合によっては、重苦しく、閉鎖的で、野暮天になってしまうのだが、様々な色を引き立て、間合いや基盤のような働きをする。古来からの、魔除けの色でもあるようだ。&lt;br /&gt;　黒は、往々にして、偏見で、暗さや闇とイメージされる事もあるが、生きている黒は暗いどころか、魅力的になる。自然界にある色で、とても重要な色なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　タオの人たちは、”玄”を明るい入りだという。中国では、ゼンと読むらしい。膳の語源なのかもしれない。タオイズムでは生きた黒を玄というらしい。子供の頃、夢の中で、その玄の舞を見た。玄は生きていて、生のリズムは、”玄”のは背後の、深遠から生まれてくるようであった。&lt;br /&gt;　黒は、生のエッセンス。英語には、玄に当たる言葉がないのだが、とりあえず、ブラック・イズ・ビューティフル。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　タン（茶）という色には、爆発的なすごい力はないのだが、押し付けがましい力はないのだが、明るく、地に着いた、穏やかに彩る調和の力がある。持続させ、宇宙を維持しようとする、中道の風味がある。&lt;br /&gt;熱い、ふろふき大根に、ゆず味噌。そんなトーンがいい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;”色に音あり、音に色あり”&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　無論、色だから、音と言っても、”無音の音”なのだが、色には、耳に聞こえる音はないが、イメージを生かせれば、エナジーが、心が躍りだす不思議な力がある。エナジー波動の高い、例えば、朝の小川のせせらぎの音、夜明けの海、森や海辺を散歩する、赤い夕日などを眺めていると、気持ちが良い。なぜなんだろうね。心が、空のように広がってくる、のがよくわかるだろう?&lt;br /&gt;　心と言うものは、ものではないが、状況しだいで、大きくも、小さくもなれるんだね。閉じこもってしまったりして、心をなくしてしまうこともあるらしい。心には、これといった、決まった形がないのだ。だからって、頭でっかちになっても意味がない。生きるとは、心を生きることに他ならないんだから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　魚の目に、水見えず、と言う諺がある。意外と本人は気が付かないんだけれど、その、気づきが起こると、なんでもない筈の日常の姿がちゃんと見えてくる。愉快である。よく見えてくる。目から鱗が落ちる。気づきとは、思いのほかの、覚醒である。緊張が緩み、空虚なものは満ち、有り余っているものは減っていく。簡単なもので、心が満たされれば、充実してくるものなのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　エリントンが、ファンタジーと名づけたのも、シックな大人の色合いが、ファンタスティックだからなのだろう。そこに、理性を超えた、知の道がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;”色を求むるにあらず、色合いのみ”&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;と言う、一寸、小粋な名言が江戸時代から伝わっている。組み合わせの妙、色合い、センス一つで、様々な無音のメロディー。リズム、ハーモニーが生まれてくる。微細に気を集めれば、石たちの声すらも聞こえてくる。動物だって知っている。彼らの五感六感は、人には太刀打ちできないほど、クリアでシャープなのだ。どうも人間だけが、一番アホで鈍感らしい。文明が進化した反面、退化した部分は大きいんだよ。粗雑なんだね。動植物も、人の言語はわからなくとも、波動は判るんだよ。それが、以心伝心するんだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　江戸の時代から、風物でも、ファッションでも、芸術や芸能でも、黒、白をアクセントに、茶、グレイ、ブルーグレイ、藤色、藍色、えんじなどは、粋な色とされ、歌舞伎の色合いなんかいいね。染色、虫や石からとった色、草木染の世界にはいると、日本には、素晴らしい色が沢山ある。中間色がいいんだね。&lt;br /&gt;その色合いが、融通と言うことらしい。日本文化の中枢なんだよ。その為には、軸が決まってないと形にならないんだ。&lt;br /&gt;　融通とは、お金の融通の事だけではなく、遍く、全宇宙に張り巡らされている、心の拠り所でもあったんだそうだ。今よりも進んでいたのかもしれないね。無論、今のアジアでは、まだ通用する。共鳴、と言ってもよいが、波動原理、波動文化といったほうが、現代的かもしれないね。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　新しく張り替えたばかりの畳は、色も香りも質感も素晴らしい。だが、使い込まれた畳の色合いもまたいいものだ。木彫でも、白檀（サンダルウッド）や、いちいの木、チーク材の家具、桐のたんすのように、時が経つごとに風合いを増すものを、人は良しとしてきた。チャイや、お茶、ほうじ茶、ミルクコーヒーにビスケット。缶コーヒーじゃ味気ないが、カップに入った茶色の円はいいものだ。何処にいようとも何かホッとする。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　インドのチャイや、大抵は薄汚いのだが、に行くと、安い茶葉、所謂、くず茶を使って、最高級のダージリン以上の美味い茶を飲ませてくれる。美味いチャイには、瞬時にに世界を変える、不思議な力がるようだ。嘗てのコーヒーの本場、アラビアや北アフリカのイスラム世界も、いまやチャイの世界に様変わりしたようだ。美味いチャイ屋については、地元の年寄りに聞くのがいい。オールド・イズ・ゴールド。これは、インドの諺だが、年よりは大事にされるお国柄。亀の甲より、なんとやら…&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　茶が、苦くても、渋くても、美味いお茶を甘露と言うだろう。人に内在する甘露（アムリタ）を引っ張り出すのだ。甘露そのものは、その用意のできているものには、内在している。それは仏性と同じで、誰にも内在していると言うことなのだ。&lt;br /&gt;　それは、味覚の甘さと言うのではなく、頭、首筋、肩、棟、腹へと降りてきて、全身全霊を潤すのだ。全てを忘れさせる力がある。内なる温泉と言うと分かりがいいかもしれない。舌で感じる甘味と言うわけではない。それは、至福なのだ。瞑想の目標でもあるのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そのサンスクリット語のアムリタ、甘露、と言う言葉が、西に伝わって、フランスでアムール、イタリアでアモーレになったのだそうな。本来の意味は、与えれば与えるほど、成長すると言う意味らしい。&lt;/div&gt;&lt;div class="readmore"&gt;&lt;br /&gt;&lt;a style="font-weight: bold;" href="http://shambhalacafe.blogspot.com/2009/12/blog-post_22.html"&gt;続きはこちら!!&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/18690307-5667763544892046780?l=shambhalacafe.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/5667763544892046780'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/5667763544892046780'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/2009/12/blog-post_22.html' title='無音のハーモニー'/><author><name>fortunesawada</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05592192894946341165</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-4626960147376458942</id><published>2009-12-19T00:00:00.001+09:00</published><updated>2009-12-30T16:02:51.649+09:00</updated><title type='text'>「今」という未知２</title><content type='html'>　表向きとは、言葉そのまんまのアウトドアーと言う意味ではない。意外と、ディープなんだよ。日本の文化と密接にかかわっている言葉なんだ。&lt;br /&gt;　表、すなわち世間とは、今では、大抵の場合、嘘、都合、化粧、見栄、体裁、演技、ごまかしばかりが目立って、歪んでしまって、おもてっつら、帳尻があってればいい、といういい加減な世の中になってしまった要にも見える。生きているという意味が希薄になってしまったのかのようだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　表と言う言葉の中には、人が個人であるのと同様に、ある地域で、共同体をも生きているという、両極性が潜んでいる。それは何処の国に言っても、仏教でもヒンドウー教でも、イスラムの国でも、欧米でも同じ事だ。そこには、そこの水があって、水が合えば、幕屋っていけるということが確認できる。その水が、人々の生きがいを育てているのだ。世の中は、只、利害や損得だけではないという事を、皆がよく知っている。日本では、”表が済まぬ”という言葉があって義理や体裁への配慮が欠けるという意味である。&lt;div class="fullpost"&gt;&lt;br /&gt;　そこで、”正直を持って表とする”と言う言葉がある。昔からある言葉だが、気持ちの良い言葉だ。&lt;br /&gt;江戸っ子は、こうでなくちゃいけないね。自分の流儀、生き方、技として、表の事が意識され、自覚されているという意味だ。無意識ではなく、ポジティヴに自分を生かす。小技や小利口さ、模倣といったせこい業なんかを使わない。軸が決まっているという、シンプルな生き方だ。自信もそこからついてくる。人の前をする必要もないし、まねされる事もない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　個人はそれでいいとしても、社会と言うものは、ある種の依存状況を捏造し続けるし、自然に負かしておくわけはない。そこに、必然的に矛盾が現れてくる。&lt;br /&gt;　例えば、車の依存度を高めれば、車は売れる。何であれ、依存度を高める事が商売の要だからね。道路は、自動車会社が作った訳ではない。国が作ったのだ。ここの所が面白い。後は言わぬが花かな。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　”技法としての表を持つ”とは、嘘をつくことではないし、造り上げたものでもない。飾りもいらないし、余計な事をしなくてよい、宇宙的な気配りを持って生きていくと言う、粋でクールな生き方だ。無理がなければ、窮屈でもない、窮屈でなければ、力は出しやすくなる。自他と言う、二元性の関係性の理解度。といったらいいだろうか。いい加減な建前、自分勝手な都合と言うことでもない。少ない力で、大きな力をだすコツ、太極拳のような生き方だと思う。武道は、本来が瞑想だったから、共有意識というものを探求するには有効なんだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　”粋”とは、”生きること”の探求から始まった、いわば、生のエッセンス。生きるコツ、ツボ、ポット。内的なお洒落。最近わかる人がいなくなっちゃったけどね。生きることそのものが、楽しみになるという生き方だ。一本筋が通っていれば、姿かたちはどうあれ、野暮であろう筈もなかろうが。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;”表勝り（おもてまさり）の、裏小袖”&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;　江戸にはいい言葉があったねえ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　無私と言う事は、人を明晰にし、寛大にし、人に中心を与える。そこに、本来の自己がある。中心からは、無形の秩序が生じてくる。秩序があれば、する事は何もない。ディープでビューティフルだろう？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　無為（ウーウエイ）とは、人が生きている以上、何も市内と言うことではないんだよ。生活があるからね。只、余計な事をしないということなんだ。老子曰く&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;「学を為せば、日々に益し、道を為せば、日々に損す。これを損じて、又、損じ、もって無為にいたる。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;無為にして、為さざるはなし」&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　多くの人は忘れてしまっているかも知れないが、全てのものは、”大きな一つの全体”に繋がっている。無為を通じて、その大いなるつながりを回復する事ができる。そこに調和するエナジーが現れてくる。共有意識、自然や動物との共感、分かち合い。ものではないが、それが”イノチ”と言うものなのだ。自然の中で暮らしていると、その事が如実に判ってくる。実感で切れば、本物だ。普通の人と言う意味だ。これ以上の賛辞はないだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　”ミタクエオヤシン”という言霊（ワードスピリッツ）には、そういう深い意味が秘められている。ネイティヴ・アメリカンがタバコを吸うときのマントラだ。マントラとは、秘密のドアを開く鍵となっているトーンだ。&lt;br /&gt;さすれば、そこには敵も味方もない。平和の意味はそこにある。力に満たされ、今、そこにいる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　瞑想者なら、時間と空間、両方の次元を、自由に行き来できる。それゆえ、未知から、又違う未知へと旅をする。それが楽しみになっている。普遍性とはユニヴァーサル、宇宙的と言う意味だが、そこに通じているという事が、普通と言う意味である。普通とは、世間的、平均的、大衆と言う意味ではない。変わり者といわれても、常識人と言われようとも、普通の人は普通なのである。誤解のないように。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　一方に偏ると、どうしても皮肉な結果になるのは、世の倣い。何事も行き過ぎれば、反対の結果が生じてしまう。ミイラ取りがミイラになったり、鼠嫌いの人ほど、来世は鼠になるのだという。来世も人でいようとするのは大変だ。それでも、いつしか、知らず知らずの内に、偏ってしまうというのが人間だ。&lt;br /&gt;知らないうちに迷路に入ってしまう。あらゆる問題やトラブル、病気はそこから起こってくる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　無時間と言う体験は、例え無意識で、眠っていたとしても、誰しもが体験している次元である。瞑想は、普遍的、ポジティヴに無地間体験をする。多くの人が無視して見逃してしまうようなことにも、意識的になるということだ。それは何にもまして、楽しく、面白い。&lt;br /&gt;　人が、ぐっすり眠っているとき、無意識、無時間を体験をしている。熟睡ならば気持ちよい。飯を食うのも、異性を抱くのも、全てを忘れたい為だ。だから、真に熟睡できたら素晴らしいのだ。熟睡できるだけで、不満がなくなるのだ。生きるに就いての、最重要課題なのである。あだ疎かにはできないのだ。無時間感覚なくして、人は生きてはいけないのだ。&lt;br /&gt;　もしそれがなければ、狂い死にするかもしれないね。人の世の中、一生を突き詰めていくと、食べる事と、ぐっすり眠る事。只、これだけの事なんだね。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　人がこの世に生まれたら、その瞬間から、死に向かって歩み始める。これ程の矛盾は他にはない。人とは矛盾の象徴だ。否も応もない。確かな事は、矛盾だけだ。だが、死と言うものが会って、初めて生も成り立つことに気が付く。死というものがなかったら、生も成り立たないではないか。&lt;br /&gt;　難題といえば、これ以上の難題はない。だから、人は、何らかの命題、目標、夢を持ちたがるのだ。&lt;br /&gt;それが普通だ。生きて良し、死んで良し、ここに至って、初めて本気になって、人は生き始めるのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分がいいと思うように生きればよいではないか？　簡単だろう。自分が好きなことをすればよいではないか？　それが普通だろう。そして、その両者をつなげられたら、もっといいだろう？　夢があるんだったら、夢を生きればよい。無音を聴く事さえできれば、いいトーンも聴ける。無時間を知るものが、時を得るのだ。トータルである事が大事だね。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　人は生きるために、食べもするし、眠りもする。死は、早いか遅いかは別にして、いずれ訪れると決まっている訳だから、死ぬこと自体怖がっても意味がない、と納得しているからだ。でも、いやな死に方はしたくはないだろう。死ぬのが怖い人もいるんだろうね。当然いるだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　シヴァいわく、生とはパラダイスの事だ。パラダイスとはどこか特別の場所の事ではない。唯一、無二のもの。意識の目覚めが鍵となる。もし生がパラダイスでなければ、生き方が間違っているのだ。ちゃんと生きていないからだ。生から逃げていても、避けていたら、真には生きられない。只、闇雲に人生かっ込んでいたって、生きることにはならない。意識の目覚めがなければ、人生全てナンセンスに終わってしまう。生より他に、神はない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;ＬＩＶＥ　ＬＯＶＥ　ＳＭＩＬＥ．&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;　自分の身体を内観していると、こんなに合理的で、すばらしい機能のあるものは、他にはない、と思う。実によく、絶妙に、微妙にできていて、完璧な宇宙になっている。そのことだけでも、大満足だ。&lt;br /&gt;　自分の身体、内側から見たことある？　無論、視覚的に、身体の中や臓物が見える訳ではない。瞑想においては、観るということができる。そうやって、自分の身体を内外から感じてみると、自分は、確かにこの身体に住んでいる。とすると、この身体は誰のもの？と言う疑問が生じてくる。私と言う意識は身体ではない。身体に住んではいるものの、身体そのものではない。只、身体は、思う通りに動いてくれる。そして、体と言うものがあるお陰で、私と言うものが現れてくる。身体がなければ、私はいない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　生きているということが、神秘なんだよ。そこから逃げ出さないで、正面から向き合う、と言うのが瞑想だ。いやがうえにも、ポジティヴになってしまう。人の身体は実に合理的で、素晴らしいのだが、人には感情がある。そいつが実に厄介な怪物なんだ。矛盾や混乱が耐えないのはその為なんだ。矛盾、そいつは、理屈では解決できない代物だ。まともにいったって、どうにもならないよ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分の身体って内側から見えない？　そいつは不便だね。身体を内観する時には、波動で観るんだよ。石や水晶が触媒になるんだよ。石好きならわかるかな？　宝石ってのは、だめだね。使えない。天然の、自然にスコップで掘り起こした水晶がいいんだよ。ダイナマイト使ったら一遍で全てがフイになってしまう。勿体ないね。&lt;br /&gt;　まず意識を目覚めさせて、脊髄を中心に、第三の目、自律神経、波動に留意し、気の流れを美味く循環させて、波動を聴く調子を聴く。身体の声を聴く、といった方がいいかもしれない。何が不足か、何があまっているか、調子がわかる。五体満足でも、五体不満足でも、それなりにベストな状態というものがある。それが、健康というものだ。だから本来は、一人一人、ものさしは違うんだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　とにもかくにも、自分の身体の仕組みは気に入っている。感心してしまう。しかも。何十年も、病気一つしたことがない。最高の棲家である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　身体が健康なら素晴らしい。だが、人には感情があり、エゴがあり、欲があり、野心がありとややこしくなってしまう。うらみつらみ、憎しみ、嫉妬、トラブル、夢、利害と社会そのものも、非合理を無限に作り出す。世間、世界と言うものは、ケイオス（カオス、混沌）という状況であって、正しいわけでも間違っているわけでもない。それが通常の姿なのだ。だが、ケイオスなくして創造性はない。これだけは言える。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　人は石に始まり、火を起こし、土器を作り、道具を作り、道具を使い、猿や蛸も道具を使うらしいけどね、文明を作り、夢も希望も楽しみも増え、便利にはなり、月にまで行ける様にはなったが、矛盾が消えるわけでもない。戦争がなくなる訳でも、ない。何も変わっていない。目先だけ、見てくれだけ，良くなったかどうかはともかく、変わったようだがね。人の世は、思い違い、嘘、勘違い、誤解で成り立ってるんだよ。だから、余り深刻に考える事はないんだ。いい加減なんだから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分で持っている訳ではないんだけれど、個人的に好きなものがある。欲しいわけじゃないんだ。&lt;br /&gt;自分で使う気は、もうとうないんだ。それは、シンガーと言う古い英国製の足踏みのミシン、手動のもある。古いとは言っても、今でも、インド、ネパール、タイ、ラオス、ブータン、ミャンマー、マレーシア、辺りで使われている。半世紀以上も使われていて、故障もない。たまに油差すくらいだ。耐久性は抜群だ。&lt;br /&gt;優れものと言っていいだろう。しかも姿がいい。蒸気機関車みたいにメカニカルだが、煙は出さない。&lt;br /&gt;その作業の音がいい。シンガーと言うくらいだ、機械が歌を歌う。&lt;br /&gt;　たまに、どこかの田舎で、そのミシンを踏む音楽が聞こえてくるのはいい。ミシンを踏んでいる、おっちゃん、おばちゃん、おねーチャン、皆楽しそうだった。リズムがでてくるんだよね。却って、無味乾燥な、最近の電気式の寄りも、効率はともかく、実質的な性能は良さそうだ。誰もが宝物のように大事にしていた。最近、タイでは余り聞けなくなってしまった。電気を使わず、機械式だから、江戸時代のからくり人形とか、自転車、蒸気機関のような風情がある。進化のスピードがスローだった時代は、趣が大きかったように思う。文化、趣と言うものは、本来、スローなものなのだ。人の楽しみの原点も、その辺りにあるようだ。ここの所が大事なんだよ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　急ぐ必要って、もともと何もなかったんだ。自分に合ったペースで行けばいいんだよ。ある一面での極端な進化や発展は、別の面では退化を起こすようだ。今は、過渡期の時期、面白い時期なんだよ。何でもそうなんだけど、出来上がったらもうつまらないんだよ。&lt;br /&gt;　ダーウインの進化論のカウンターとして、退化論と言うのがあってもいいな。進化する反面、必ず退化する面が出てくるはずだ。ものや道具に頼らないと、快楽が得られないというのは、明らかに退化だよね。薬や酒がないと眠れないというのは、大変な退化だ。退化を避けるには、アンプラグド、プラグをコンセントから抜く事しかないのさ。地上に戻ることしかないんだよ。それは、アコースティックな、生の人間の本来の楽しみ、幸福を感じる能力、を発展させるという事なんだ。人が人であるという只それだけのこと。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自由に生きたければ、シンプルに生きるのが良い。最近よく聴く言葉だが、”引き算と言う生き方”は、嘗ての足し算ばかりに慣れ切った社会、風潮、人々にとっては、消極的に見えるかもしれない。洗脳されてしまっているからね。テレビとか、マスコミとか、いろいろだね。臨機応変、引き算を見直そう。無駄がなくなるし、公害も少なくなるはずだよ。アメリカと中国はわかんないけどね…&lt;br /&gt;　ボクシングでも、通常は、相手を打つことばかりに集中しているようだが、引くときのスピードに留意して、引くスピードを速やかに上げると、結果的に、打つパンチにも力がつき、連打も可能になるんだそうだ。長谷川穂積なんかそういうボクシングしてるよね。&lt;br /&gt;　引き算がうまく使えれば、タオや仏法、タントラのように、人間本来の楽しみや快楽、真の豊かさを目指す事もできるんだよ。積極的で、心ある生き方だと思う。クリエイティブだよね。視点が変われば、可能性はいくらでもでて来るさ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　聞いた話なんだけど、最近、女の子も代官山辺りでは、ふんどしをするんだって。しゃれたお店で売っているようなのだ。蒸れなくっていいし、エッチするのにも便利だとか…　実用的なんだね。要は下着である事だし、女の事は、女が決めればよい事だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ものではないが、文化と言うものは、些細な知恵や愉しみで出来上がったもの。効率よりも、ずっとノンビリしたものなんだよ。些細な物事がかさなりあって、息づいているんだ。言葉もすなんだが、粋な言葉と言うものも、大地に漂ったり、染み込んだり、浸透していくものなんだ。ヴィシュヌ神のようなものかもしれないね。宇宙を維持するもの。それが希薄になってくると、詰まらないし、安心もできない。大げさに言えば、生きた心地もしなくなる。本来、文化は自然界と同様に、社会、地域、世界にバランス、調節、節度を組み込むようなものだったのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　毎年、地上から25,000もの生物の種が絶滅している。人の所為なんだよ。モトに戻すには、500万年もかかってしまうんだそうだ。野生の動物達が飢えているのも、人の所為。かれらが食える世にする事は不可能じゃない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　一方、南アジアはまだまだ文化先進国。生活大国。やりすぎないことで、バランスを何とか保っている。新しさよりも、親しみ、アットホームがテーマとなっている。ゆったりとしたスローなスピードがいい。遅さとしての、しっかりとした文化が根付いている。神や仏も集まってきてしまう。自然と調和した緩やかな文化。何らかの都合ではなく、生きるための楽しみとなるもの。形式や効率よりも、楽しみにフォーカスしているもの。文化自体には、打算がないってのがいい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　国家とか、経済とか、競争とか、様々な主義南下が枠組みを作るとき、その外にあるもの。生命の時空間。思いのほか、形のないもの、文化はここにスタンスをおいている。それが本物だ。今最先端の物理学、波動力学では、古代のタントラ、伝統文化、広く長く共有されてきた英知を消化し続けているふうにも見える。昔の人は頭も心も豊かだったんだね。波動力学などは、そのままタントラ。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;グーグー・ワーワー&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;　さて、矛盾しているようだが、矛盾を認めると、矛盾は消えていく。だから、矛盾、ホワイ・ノット！&lt;br /&gt;人には、怠けるという権利がある。同意する？　休む、と言う文字を見てみると、人が、木に寄り添っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　と言うわけで、久しぶりにジャングルを歩いてみたくなった。カオヤイでもボルネオでもいいんだけどね。要は背筋を伸ばし、心の羽を広げられればいい。なぜといわれると、生きていてよかったと思えるからだ。休むという事は、根源的な快楽なんだね。象にも乗りたいし、メガネザル、スローロリス、ムササビもかわいい。虫や鳥も、花もすごい。&lt;br /&gt;　象に乗ってトレッキングすると、象の呼吸がゆっくりだから、その呼吸に同調するんだね。数日心地よく過ごせるんだ。象は、下手な人間よりもズーッと上等な性質をしているし、頭もいい。柔らかな時間、今を堪能したいからね。イノチの洗濯だよ。今が、ズーット続いていくんだから。そのうち、庭に星でも植えようか…&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div style="text-align: center; font-weight: bold;"&gt;うん、極楽だよ。あなたが笑えば、世界が笑う。&lt;br /&gt;時にも風がそよぎ、時にも花が咲く&lt;br /&gt;ハヴァー・グッタイム&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;では&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="readmore"&gt;&lt;br /&gt;&lt;a style="font-weight: bold;" href="http://shambhalacafe.blogspot.com/2009/12/blog-post_19.html"&gt;続きはこちら!!&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/18690307-4626960147376458942?l=shambhalacafe.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/4626960147376458942'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/4626960147376458942'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/2009/12/blog-post_19.html' title='「今」という未知２'/><author><name>fortunesawada</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05592192894946341165</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-8735135470799982886</id><published>2009-12-18T19:42:00.002+09:00</published><updated>2009-12-30T16:10:18.219+09:00</updated><title type='text'>今、という未知（物に時あり、時に今あり）</title><content type='html'>　何かに夢中になっていると、時間はあっという間に過ぎ去り、汽車でゆっくりと窓の外の風景に心を委ねている時とでは、全く、異質な時の経過と言う物を感じる筈だ。人を待っていて、待ち人現れず、イライラしているような時には、又、違った時の質と言うものが感じられる。時に形はないが、それぞれのクオリティがある。&lt;br /&gt;　厳密に言えば、時間にも、”時感”というものがある。腹時計は、誰でも持っているだろう？　時間、つまり、時間の感覚にも、漠然としているから、数値的に計ることはできないが、時には、重さもあるし、流れや、薫り、密度のようなものもある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　”宇宙”、”世界”と言う言葉は、仏教用語だが、時間と空間（時と所）を表している。それは、今、目の前にあるし、目の背後にもある。何ら特別なものではない。「時」と言う言葉は、宇宙原理の一翼を担っている重要な言葉だ。地球が、自転しながら、公転して太陽の周りを回っている事から、昼と夜が生じ、人々に時間の観念が生じてきたのだ。&lt;div class="fullpost"&gt;&lt;br /&gt;　時はただ流れている訳ではない。それは相対性理論だ。あなたのあり方次第、ということだ。例えば、象の時間、犬の時間、猫の時間、ねずみの時間、鳥の時間、それぞれの生き方や身体にあった時間と言う、生理時間と言うものがある。大きな自然界という世界の中に、様々な、時間軸と言うものがあり、それぞれがその時間軸に合わせて生きている。均質な時間と言う、ニュートン力学的な物理的な時間と、生きている時間と似は、大きなギャップがある。人工的な時間と、自然に即した時間とのせめぎあいと言っても良い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　現代風の時間には、例えば、2008年12月17日　９時55分、何がしかの秒。ただの数字の羅列。無機質この上ない。本来、時を取り巻いているはずの感覚、感性がすっかり排除されてしまっている。生きるな、といっているかのようだ。心もない、柔らかなときの感覚もない。耐えるにも限界がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　時間には、いろいろな時間、そして時間軸と言うものがある。自然に近い所で暮らしていれば、いろいろと観えて来る。海辺ならなお良い。と言うのは、潮の満ち干、一日の変化、空気が良い事、風邪が涼しいこと、朝、夕べ。月の夜、何よりも、宇宙のリズムに満ちている。素朴な村の人々、プラグを抜いた、欧米人、日本人、もいるが、ここでは、国籍というものには意味がない。ヒンドウー、仏教と言う、スローな文化がある。生きた心地がする。テレビやインターネットもあるが、気が向けば、動物的な時間、神話的な時間にも手が届く。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　海辺から、世界を眺めてみると、エネルギーを使えば使うほど、時間の進み方が早くなっていく。人も、鼠に近い時間帯に暮らすようになる。膨大なエネルギーを使って、時間を早め、地球の温暖化に貢献している。それが、お金になるからだ。このままいくとは思わないが、お金や効率の為だけに払った犠牲は大きい。人の呼吸そのものもせかせかした、忙しいものとなっていく。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ところが、人本来の，身体の時間は、古来からそれ程変わっているわけではない。この100年ぐらいで、急激に変わったのだ。&lt;br /&gt;　かつての、日本に於ける、光の原理では、”物事には蔭（陰陽）がある”。時の感覚では、”物事には。時がある”。という。只、単に、物がある、蔭がある、時がある、と言うのではなく。「物に、時が宿る」というふうに考えてきた。この考え方は面白い。&lt;br /&gt;　物事に、時が訪れ、そして時が宿ると、物事に意味が出てくる。と言う意味だ。時が宿るとは、スピリットが入る、と言う意味になる。オーガニック（有機的）だろう？　生とは、スピリチュアルなんだよ、根本的に。人の身体の場合なら、気合が入る、と言うことだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その時間に、どんな事が、どんな風あったかによって、只の一時間が、一生の長さになる事だってある。逆に、一瞬のように過ぎあってしまう事もある。地域や、文化の違いによっても、時間の室は変わってくるものだ。重力も関係あるかもしれない。ダイヴィングは、無重力を楽しむものだからね。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　無駄と言うと語弊があるが、時を過ごす達人は子供達だった．だから子供達は元気が良かった。子供には敵わない。&lt;br /&gt;　子供の頃は、野球もしたし、相撲もよく取ったし、魚釣り、泳ぎにもよく行った。トンボや虫たちともよく遊んだ。毎日泥んこになって遊んだ。充実していた。それが普通だった。疲れても、その復元力も半端ではなかった。不満と言うものはなかった。最近の子供はどうなのかな？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　時を遊びに変える、無駄な時間、自由な時間、輝いて充実していたのだ。子供にしてみれば、時間を有意義に使っているのであって、無駄にしているわけではなかった。人は、遊ぶ為に生まれてきたのではないだろうか？　大人になって、多少、遊びの室にも変化はあるものの、泳いだり、歩いたり、のんびりと花を眺めたり、自然と対話したり、無視や動物たちと遊ぶのは、人の本来の、自分が自分である為のありようとして、最重要課題なのだと思う。生きるという意欲の為にも遊び心を忘れちゃいけないね。遊ぶ喜び、それが生のセレブレイション。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　状況しだいで、”時”は、スピリッツ、或いは髪のような働きをする。”時の氏神”と言う言葉があるだろう。ある瞬間から、何らかの事、物、人、機会で、流れが変わってくることがある。時節、好機、タイミング、それをはずしたら意味がない。英語の場合でも、グッド・タイム、オポチュニティー、チャンスとか言うのだろう。日本語だと、「時を得る」と言う表現をする。面白い言い方だが、言葉は便利なだけじゃない。宇宙を背景にしている時には、実に面白い。こんな所にも文化の厚みを感じてしまう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　あえて、”時感”と言う言葉を使わして貰うと、”時感”とは、一様ではない。ある意味で、実にいい加減なものだ。時計によって刻まれる時間を、物理的な時間としても、人には寝ているときもあれば、忙しく街の仲を動き回っているときもある。南の島で、そよ風に吹かれている時もある。喚起のときがあり、つらい時があり、のびのびとして生きる時がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　人の本性は、効率とか、生産性とかには、むしろ無関係で、無為に時間を過ごすという事は、ある意味で、実に有意義な事なのだ。”時と場合による、所による”というのが、古来からの、日本の”宇宙感覚”、”状況判断”だったのだろう。&lt;br /&gt;　時と言う言葉には、機会、タイミングと言う意味もある。それは、野生の動物だって知っている。昔の人は、時計なんか持っていなくとも、時の意味を知っていた。時計を持っているからと言って、時の事を知っているわけではない。現代人とは、又、違った観念を持っていたことだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　さて、時は人のマインドに作用する。といわれている。マインドがなければ、時を感じない。時間とは、人の観念と同調する。無心とは同調し得ないのが、時間だ。意志は、全く無関係だ。要するに、頭を初期化できれば、時間も消える。人は、無意識の内にも、無時間と言うものを体験しているんだよ。瞑想とは、それを意識的に起こすということなんだ。現実から、源への逆算したり、応用したりする、商店を変えたり、ずらしたりといった、内的なアートと言ってもいいんだよ。この世で、一番贅沢な楽しみだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　”今が今になる”。　それが今だ。純粋に、今のど真ん中にいるときは、時の感覚、時感は全く違ったものになる。神話的時間にだって入ることができるんだ。今と言う、ヴィジョン・クエストなんだよ。人はどうしても、過去の思いや未来への夢、希望にとらわれてしまっているからね。現実には、今ということが、全ての源なんだからね。だから、今をディープに堪能しよう。唯一リアルなのは、今ということだけなんだよ。後は全部嘘なんだ。生と言う大河は、そこにだけ流れてるんだから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　何も起こっていないときに起こっているのは何なんだろう。今、無心で呼吸もゆっくりならば、時の質も変わる。空気も変わる。心地よく居たければ、じきにそうなる。自分の好きなところをイメージすればよい。せせらぎの水音、かわせみの飛翔、蓮の花、ジャングルのざわめき、美味い空気、花の香り、静寂。秩序が自ずと整ってくる。自然と一つになれると、息吹が感じられ、力が現れ、充実してくるものなんだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この世に生きている以上、者や時の世界、物事の世界を無視したり、否定する気はない。だから、様々な事にも、程ほどに付き合っていく事だろうし、多忙になれば、自然に無私の沈黙、スローなライフに戻ろうとする。そこがツボなんだから。それが、自然、普通ってものだ。スローはビューティフルだ。損得とか利害とは違う四。向き不向きもあるし、個人差もあるからね。でも、メリットも大きい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　物には“程”、人には”分”、時には”所”と言うことがある。生きてさえいれば、いずれ観えて来る。古来からの、知恵である。世の中と言うものは、一言で言えば、矛盾である。これだけは、明白だ。明日のことは、誰にもわからない。表向きはともかく、人のありようも千差万別、百人百様、男女差もあり、暮らしも違い、身体も心も違う。それで成り立っている。生きている人もいるし、そうとは知らず、死に向かっているような人もいる。辻褄の合わないのが、人間だ。&lt;/div&gt;&lt;div class="readmore"&gt;&lt;br /&gt;&lt;a style="font-weight: bold;" href="http://shambhalacafe.blogspot.com/2009/12/blog-post.html"&gt;続きはこちら!!&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/18690307-8735135470799982886?l=shambhalacafe.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/8735135470799982886'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/8735135470799982886'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/2009/12/blog-post.html' title='今、という未知（物に時あり、時に今あり）'/><author><name>fortunesawada</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05592192894946341165</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-5722366974274048298</id><published>2009-10-29T00:00:00.017+09:00</published><updated>2010-01-04T21:22:39.887+09:00</updated><title type='text'>カタチと時空間の愉しみ</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/Sue1NSF9dEI/AAAAAAAAA1c/iaaahgdy3QM/s1600-h/RIMG0001_3_2.jpg"&gt;&lt;img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width: 262px; height: 320px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/Sue1NSF9dEI/AAAAAAAAA1c/iaaahgdy3QM/s320/RIMG0001_3_2.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5397481918226592834" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;　子供の頃、良くキャッチ・ボールをした。天気がよければ、空は何時も青かった。その時は、大抵、ボールに触っていた。空が青いのが、ごく普通の事だったのだ。　ボールで遊ぶ事は，宇宙と関わって遊ぶ事の始まり、となってしまった。&lt;br /&gt;　ボールを投げると、青空に、白い放物線を描いて、相手に届く。ボールを受けて、相手に投げ返す。この単純な遊びから、様々な事が見えて来た。まずは、言葉に依らない、コミュニュケーションだ。言葉以上に、以心伝心する、ということだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　まずは、腹でゆっくり深呼吸。そして、センタリング。何度か、息を吸い、息を吐ききると、次第に、体中に、腹に気合いが入ってくる。センタリングとは、腹に力が集まる事だ。センタリングが無ければ、自分の体を思う様に動かせないのだ。腹を極める、腹が極まる、とはこの事だ。さすれば、頭でっかちにならずに済む。&lt;div class="fullpost"&gt;&lt;br /&gt;　上手く投げるには、体重移動させるから、当然、軸足が大事だし、それに伴って揺らぎ（傾き）、捻れ（螺旋の働き）が起き、宇宙に気が発して行く様な気持ちになり、体重移動を利用して、身体全部の力で、ボールを投げる。全身の力、遠心力、ねじり、揺らぎの力を使って、流れる様に、水が流れる如く投げると、無理が無く、エナジーが、体中を循環し始める。それは、実に気持ちがよい。&lt;br /&gt;　体も、使わなければ、自ずと不自然になり、ぎくしゃくして、自然に沿った動きができなくなってしまう。エナジーが動かない、働かない様になってしまう。肩に力が入りすぎたり、どうしても、意志や頭に、頼ってしまうのだ。身体の声さえも聴こえない。だから、何の打算も無く、素直な気持ちで投げ、そして感じる事、フィーリングを使う様にすると、それだけで気持ちが良い。今でも忘れない。頭も、整って来るし、身体も柔らかく、弾む様になるのだ。全て良い。普通でいられる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　普通とは、”普遍性に通づる、ユニヴァーサルになる”、という意味だ。決して平均的という意味ではない。誤解の無い様に。&lt;br /&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/Sue3G1x9nXI/AAAAAAAAA1k/JJ1LmjoL6zc/s1600-h/IMGP1087_2_2_2_2.jpg"&gt;&lt;img style="margin: 0pt 0pt 10px 10px; float: right; cursor: pointer; width: 206px; height: 320px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/Sue3G1x9nXI/AAAAAAAAA1k/JJ1LmjoL6zc/s320/IMGP1087_2_2_2_2.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5397484006570564978" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;　力は、無心、そして呼吸から生じてくる。腕の力、肩の力だけで投げる訳ではない。それでは、ボールに力が乗ってこない。それに一部分だけ酷使したら、偏りの特徴として、長くは続かない。&lt;br /&gt;　先ずは、センタリング、身体の中に”軸”を意識する事、体重移動、螺旋の力、渦の力を使って投げる事が重要、あとは，ロックン・ロールだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　今年、ベルリンで陸上の100メートル、200メートルで、世界新記録をだした、ジャマイカのユセイン・ボルツの走りを見ていると、力みが無く、まるで流している様な、軽さで、壁を破った。ビデオで10回以上も見ていたので、心に焼き付いている。無理が無い。野球でも、相撲でも、自転車でも、水泳にも同じ事が言える。気持ちよく、事をなすには、要はコツを掴む事だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　受ける時には、ボールの軌道を良く見て、軌道の先を予想しなければならない。放物線を描きながら、ボールが向かってくる。瞬きせずに、ボールの軌道を読む。最初は勇気がいるかも知れない。最初のうちは、どうしても自分に自信が無いからだ。習うより慣れろ、慣れてくれば、ツボも、コツもが解ってくる。&lt;br /&gt;　ボールを受ける瞬間、腕を引きながら、ボールの力を逃がす様にすると、ボールを受ける時、ショックが少ない。道理が判れば、そして、それに沿って行けば、簡単な事だ。ボールの力を吸収して、ショックを和らげるのだ。サスペンションだ。ボールの動きに、素直に対応しなければならない。ボールが、上手くスポッとグローブに収まると、実に気持ちがよい。何にもいらない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　今朝、タイのテレビで、ジェット・リーのカンフー（クンフー）映画を見て、身体の動きの妙が、気になった。動きが素晴らしかったのだ。これに触発されて、身体に付いて、何か書きたくなったのだ。&lt;br /&gt;　身体とは、体感しうる、唯一の”現実”なのである。身体が無ければ、私は居ない。頭は、どうしても、現実以外の事を考えたがるものだ。そう言うときは、エナジーを循環させて、エナジーを頭から、身体の方に回すのだ。身体があるから、感じたり、動いたり、反応したり、楽しんだり、喜んだり、苦しんだり、悲しんだりする。幸い、私は、自分の身体が、気に入っている。使い慣れてる、と言った方がいいかも知れない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　忘れているかも知れないが、身体にとっては、脊椎が肝心なんだよ。&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;尾てい骨から天頂迄、貫いている一本の軸だ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;人の体は、消化器系、生殖系と循環器系だけではない。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;神経系が全てを統御してるんだからね。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;禅もタントラも、脊椎を重要視するのだ。だから、医学にも則しているんだよ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;そこに神秘が有るのも事実。そこが軸なんだから。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/Sue33ub9ugI/AAAAAAAAA1s/YU7lJv4sAd4/s1600-h/IMGP0899_2_2_2_2_2.jpg"&gt;&lt;img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width: 282px; height: 320px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/Sue33ub9ugI/AAAAAAAAA1s/YU7lJv4sAd4/s320/IMGP0899_2_2_2_2_2.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5397484846412839426" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　スピリットが、身体に入れば、脊椎、そして、自律神経がきちんと働けば、行為，そして無為、両方のの可能性が、大きく広がってくる事にも気がつく。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;身体が、思う通りに、素早く動く事は、それだけでも素晴らしい。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　マサイの人達は、狩りに行く時、祭りの時、男達は、集まって高くジャンプする。生半可では無く、かなり高く飛ぶ。元々、皆、背が高いのに、ハイジャンプするからその高さは凄い。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;オリンピックのハイジャンプ競技（走り高跳び）にでも出たら、とは思うが、彼らに興味は無い。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;最高に、いい生活してるんだから、当然だ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;狩りに出て獲物を見つける為に、遠くを見る為もあるのだろうが、同時に、足腰のバネを生かしている。そして、エナジーは螺旋状に身体を巡り（クンダリーニ）、そして、エナジーは昇華して、全員がハイになる。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;タントラ・ヨーガのケニヤ版だ。意識も、自律神経も、ギンギンになってくる。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;気合いも入って、最高に、気持ちよい。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;そこで気持ちを一つにして波長を合わせ、役割分担し、狩りなり、祭りをを成功させるのだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;レッツ・ゲッツ・トウギャザー・アンド・フィ&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;ール・オールライト！&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　お相撲さんだって、四股を踏み、腰を割って、身体をねじり、身体の体勢を柔&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;軟になる様に整える。呼び出しさんや行司さんが、間合いを上手く整え、そして仕切りを重ね、少しずつ、気合いが入ってくる。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;儀式、様式は様々な所で使われる。それは、本来、力を効果的に働かせる為だ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;単に勝ち負けだけではなく、宇宙全体が、恰も錦絵の様に、見るものには映るのだ。単に勝ち負けだけが目的のスポーツではない所が、厚みがあっていい。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　健康の定義は難しいが、健康とは、気持ちが良い事、そう言う事だ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;自分の体を”内観”出来れば、自分でわかるものだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;脊椎が、柔らかく、シャンとしていたら、ほっておいても、自立神経が、後は上手くやってくれる。そのように出来ているのが。人の体の宇宙なのだ。有り難いね。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;それが、自律神経の仕事だからだ。さすれば、怖いモノなしになる。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;そして、身体を大事にすれば、死ぬ迄使えるし&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　身体を通じて、考えたり、創造したり、直感したり、歌を歌ったり、子供を作ったり、食べたり、飲んだり、トイレに行ったり、車を運転したり、歩いたり、走ったり、泳いだりもする。何もしてない様でも、色々な事をする。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;身体は、ありとあらゆる事象に関わっている。眠ってる間でさえ、働いている。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;身体が無ければ、言語も、文化も、文明も、宗教も、経済も、遊びも、スポーツも有ったもんじゃない。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;身体が無ければ、あなたはいない。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/Sue4oDAhdOI/AAAAAAAAA10/TtOBopCy5TM/s1600-h/RIMG0030_2.jpg"&gt;&lt;img style="margin: 0pt 0pt 10px 10px; float: right; cursor: pointer; width: 218px; height: 320px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/Sue4oDAhdOI/AAAAAAAAA10/TtOBopCy5TM/s320/RIMG0030_2.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5397485676568605922" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　タントラは、身体と精神の両者に関わる、科学、そして全肯定的なメソッドだから、否定するものは、何も無い。　シヴァム！　全て良い！　身体こそが、本来の寺院であると言う。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;だから、多くのヒンドウー寺院の内部は、人の意識を目覚まし、力が効果的に出る様な、特別なカタチの内空間を持っている。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;頭は兎も角、意識に耕造は、古代から全く変わっていない。そのまんまだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;ヒンドウー寺院の表の姿は、ヒマラヤを象ったものと言われている。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;身体こそがエネルギーを、行為、そして無為にも変えるジェネレーターなのだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;使いこなせば、自由自在。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;使わなければ、もったいない。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　もし、身体がなければ、私はない。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;さすれば、無さえも無い。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;無を認識出来れば、私は居る、という事だからだ。&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　人間、詰まり、ホモ・サピエンスが、直立して、今の様に”人”になったのは、二本足歩行故にである。脊椎が真っすぐ垂直方向に伸び、脳が発達し、手の指が器用になり、視野が広がり、火を使い、今に至っているんだからね。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;その背景には、”重力”という、生命、生活に多大な影響を及ぼす、不思議な力が働いている。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;それは、誰のものでもあり、誰のものでもない。重力は、実に民主的だ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　木の葉が木の枝から落ちるのも、木の葉が、重力に引っ張られている、と見ると、より現実感がある。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;落ちる、と引っ張られる、というのでは、ニュアンスが、全く違うだろう？　&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;コンセプト次第で、私達も、全てのものも、地球の中心、コアに収束している事が認識出来るだろう？　&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　一寸、イマージン、重力がもし絶たれたとしたら、あらゆるモノゴトが雲散霧消してしまう。まるで雲霧仁左江門だ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;小説や映画なら、面白くていいけど、現実に、もしそうなったら、宇宙服が必要になるね。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;まさに重力、グレイトである。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;        &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　重力の働きが、ボールの動きに作用して、”放物線”という軌道を生む結果を生み出す。どんなに速い球を投げる、プロのピッチャーでも、完全に直線状に球が走る事はない。どんな豪速球も、直球でも、放物線を描いて、ボールがキャッチャーに届く。そこから、自然界に直線はない、という事にも気づくだろう。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;重力が働いている事を、無視出来ない。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;水平線でさえ、ほんの僅かだが、カーブして見える。地球が丸い星だからだ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;どんなモノでも、重力には逆らえない。重力は選り好みをしない。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　直線とは，人間の都合で造った理論，理想、そして”英知”でもある事なのにも、気づく。文明は直線のパワーに支えられて、何千年もの永きに渡って、自然を切り開いて来た&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;モノゴトを、整理整頓する為の智慧、理想と重なった面がある。人のマインドと言って良いかもしれない。反面、やりすぎると怖いよねー。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;それは、諸刃の剣だ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　海の中でも、山の中でも、ジャングルでも、自然の中に深く入り込んで行くと、人工的なモノが無い。直線がない、というのは、大いなる安らぎである。ホッとする。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;小学校で、キャッチボールを始めて、集中してくると、周囲のカタチに惑わされなくなる。それは新たな発見だった。それが無心だったのだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　ボールを投げる時、人差し指と中指でスナップを利かせ、ボールに回転を与えると、ボールの軌道を変化させたり、スピードを上げたり、放物線が奇麗に描く事が出来，球にも力が乗ってくる。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;又、回転を与えないナックルボールの様な球種では，こっちの方は、どうも上手くは投げられなかったが、ボールがふわふわ、ゆらゆらとして相手に届く。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;バッターも、キャッチャーも、ボールの軌道を見極めにくい。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;ボールの回転力、そしてその妙と言っても良い、変化球という、影の力も知った。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;須く、モノゴトには、カゲ（光と蔭、陰陽の両方をさす）がある。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;だから面白い。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　普段、無意識で気がつかないが、地球が自転しながら、公転している事とも、重なってくる。今も、そうなんだよ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;そう、宇宙船地球号だよ、ここは。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;        &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　丸いボール、そしてボールの放物線と遊ぶ事は、最初のマナビでもあったかも知れない。ある種の、充実感と愉しみであった。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;自転車のバランスをとる事や，カーブを上手く曲がる事、水泳を覚える事、とも何処か共通する事があった。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;理屈よりも要は実践だ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;やってみなくては、智慧も工夫も浮かんで来ない。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;    &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　水泳でも、泳いでいるうちに、水に乗ってくる、という感覚がある。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;身体が軽くなり、スピードも乗り、身体の一部が浮き上がってしまう。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;気持ちがいいなんてモノじゃない。面白い。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;そのコツ、ツボと言うか、フィットネスが判ると、面白くて、夢中になってしまう。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;      &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;ピッチャーのボールも、臨海速度を超えると、グーンと伸びてくる感じがする。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;力の有る球になる。そんな球を投げられる様になると、野球も面白い。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;マラソンだって，ランナーズ・ハイという、特別な意識レベルに入る事がある。これらは、タントラの原理、クンダリーニ・シャクティーの働きだ。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/Sue5Axm58VI/AAAAAAAAA18/yEYFk4AXX1E/s1600-h/IMGP0969_2.jpg"&gt;&lt;img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width: 320px; height: 318px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/Sue5Axm58VI/AAAAAAAAA18/yEYFk4AXX1E/s320/IMGP0969_2.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5397486101394485586" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　無心であればある程、力はやって来易い。水は低きに流れる、というだろう。　　そして、エナジーが循環し始める。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　地球に地軸が有る様に、ボールを投げる時、身体の”軸”が如何に極まるか、体重移動が如何に上手くいくかで、プロセス全体が、良く判る。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;バランスをとる事自体が、愉しみとなった。流れる様に事が運ぶと気持ちがよい。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;やがて，”軸”から”芯”と言うものを知り，そこから，”信”が、自ずと生じて来る。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;軸そして芯から”信”が生まれた。少しずつ、自信が育って来るのだ。そう言った事は、すべて腹から伝わってくる。決して頭からの情報ではないのだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;運動とは、遅かろうが、速かろうが、須く、宇宙的。コスミック・ダンスなのだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;スローなのがいいね。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　これは大きな愉しみとなった。身体も柔軟に対応出来、とっさの判断力、運動神経も育ってくる。シナジーというう力、相乗効果だ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;センタリング、中心が意識出来る様になると、内なる自己を知る事が出来る様になり、自我の雑音に惑わされる事も無くなる。外の雑音も気にならなくなる。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;そして、自分が自分に満足出来れば、意識の状態が、周囲に開放的な雰囲気をもたらす様になる。生きる事そのものが楽しくなってくる。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;生きる意味が、はっきり分かってくる。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;そんな視点で、世界や環境を見ているのが、最近の愉しみだ。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;        &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　生がポジティヴになってくれば、簡素に暮らす能力も付いてくる。余計なものがいらなくなるのだ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;自由と豊かさを楽しみ、時間にも空間にもユトリが出来るというものだ。子供の頃、遊んでる最中に、そんな感じを持った事がある人も多い筈だ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;そして、どんな行為の中でも、バランスを回復する能力、”復元力”が付いてくる。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;サーフィンやモーターサイクルの様だが、予期せぬ出来事にも、即、対応出来るようになってくる。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　ボールを受ける時と、投げる時とでは、使う精神作用や、筋肉の使い方も違う。例えば、凸レンズを使って，火をおこすとき、レンズの片側で，全面で日の光を受け、反対側で、その光を収束して、熱の力を生み出す。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;レンズの裏と表で、全く違う事を同時にやっている。陰陽の道理が重要な要素となる。慣れて来て、無心で、投げあっているうちに、身体も、精神も、何故かほぐれて来て、リラックスできる事に気がついた。道理に沿って、身体を動かして、揺らぎや捻りの要素を加え&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;る&lt;span lang="JA"&gt;と、”自ずと”、そこにパラダイスが出現する。&lt;/span&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;春が来れば、草は、ひとりでに生えてくる。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;          &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　身体と精神との、微妙な関係にも気がつき、新たな妙味と愉しみを知った。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;恰も、その”放物線ごっこ”と言う、単純な遊びが，なにか面白く、まるで虹の様にも見えてきたのだ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;子供の成長が速いのは、よく遊ぶから、学ぶ事も多いからだ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;どんな行為でも、或は無為でも、遊びでも、内観できるようになれば、須く、面白いものだ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;”遊び”が、”学び”になっていった。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;      &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　学び（マナビ）とは、昔の日本では、以前にも述べた事があるが、『真奈霊（マナビ）という、スピリット』と、交流する事であったそうな。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;そこから、『学び、に問う事、即ち、”学問”』というものが生まれたそうな。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;本来、学問とは、スピリチュアルな事、そして遊びでもあったのだ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;ここにも、マナビというカミは、いるようだ。今でも、よく遊んでいる。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;        &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　知識を、只、頭で学ぶというより、身体を通して実体験する事が，何よりの，マナビであった。それは今も続いている。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;知識だけでは，意味が無い。智慧にはならないのだ。生きるコツを知らなければ、意味が無い。実にならないし、納得しない。無用の長物になってしまう。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;もったいないよね。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;普段、それほど意識しなかった重力が、ボールを投げる事で，それが、あらゆるものに働きかける、という事が実感できた。同時に様々な動きの中で，重力を意識しつつ、重力にそって、しかも重力を越える事が出来、ある種の”軽やかさ”を覚えた。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;      &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　昔のタオイストの言葉がある。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style="font-weight: bold;"&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;”有為によって，無為に到れば，モノゴトは，了解される”&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p style="font-weight: bold;"&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;      &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;      &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　普通の日本語にすると、納得する。腑に落ちる、という意味だ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;自分の中の深い部分が、“共鳴し”そして納得する。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;実質（サブスタンス）が、なによりも大事なのだよ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;あらゆる力と有効性、効果は、タオ、宇宙原理に従う事で、モノゴトが如何に起こるかを知る事になる。コツを知るのはこのときだ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;自分の中で、何かがはじけたり、身体が軽くなったり、内側に、稲妻を見たりもする。運動は、須く、双極性、対極性、波動、捻れと反発、融合、傾き、そして円運動、螺旋運動から起こってくる。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;もし、万物が、固定的に安定していたら、何の変化も、発展も、多様性の可能性も無くなってしまう。少なくと生きていない。死んでいる。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;          &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;      &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　動きは、傾きや、ずれ、ギャップから起こってくるのだ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;それが生のエッセンスだ。それが無いと、生は成り立たない。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;ボクサーや剣術使い、お相撲さんが、わざと隙を見せて、相手を誘発するのはこの為だ。格闘技には共通しているね。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;あらゆる力は、知ろうと知るまいと、この静と動の原理との協力関係から生まれる。静の中の動き、動の中の静、そこで、始めて、生の意味を知る事が出来る。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;モノゴトの究極の意味が、言葉で把握出来ない事、言葉を越えている事を知る。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;何れ判るよ。でも、これは、自分の自身の宝と言ってもいいが、モノではないし、かたちもない。人にとられる事も無い。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;説明出来なくても、実際に、起こす事が出来れば、判っていれば、それで良いのだ。実に簡単な事が、言葉やコンピューターで説明すると、やたらと入り組んで、複雑になってしまう。次元やモードが違うからだ。論理は、とてつもなく、遠回りしなければならない。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;    &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　だが、生は，頭を、論理を越えている。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;そして、身体は、頭より賢い。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;”目の前にあるものが、そのものだ”、といっても、判らない人もいる。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;おかしな話だ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;只、単純に、素直にみれば良いのに、理論や観念、損得、損得で、世界を見ようとする人は、なんであれ、モノゴトを複雑にして歪めてしまう。正しくあろうとしてる、のかも知れないが、そういう努力や姿勢が、歪めてしまうのだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;      &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　前述した事だが、重力に関心を持つと、全てのもの，人、動物、植物、カタチのあるものは，全て，地球の中心、コアに収束している事が良く判る。例外が無いというのも凄い。何の差別も無い。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;地球の裏側でも、逆さになって，地上に立って、中心のコアに収束している。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;不思議だよね。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;        &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　子供の頃、宇宙空間の彼方から、地球を見ている，と言う”ヴィジョン”が観えた。恰も，それは、自分を眺めている様でもあった。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;丁度、トゲトゲのウニみたいな地球が、中空に浮かんでいる様に観えたのだ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;月から撮った地球の写真を見たのは、その大分後だった。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;地球を観る為に、月にいったんだなと思った。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;            &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　ボールは、何故丸いのか？　それとも、丸いから、ボールというのだろうか？　アメリカン・フットボールやラグビーに使うライスボールは、丸くはないけどね。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;投げるのにコツが要るんだよ、あれは。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;実利面から言うと、野球のボールは、掌に馴染むカタチであること、しかも、投げ易く、受け易くする為でもあり、又、地面に落ちた時、バウンドがスムースに行くからだ。弾んだ先の予想が計算し易いという事がある。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;丸いカタチは、坂の上に置けば，下に向けて転がって行く。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;水は低きに流れる。と、同じ道理だ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;状況に対して，柔軟性が高い。仏教では真如（シュンニャータ、無、ゼロ）を表す、と言われる。全ての始まりだが、充足、満ちるといった感覚的な深い意味が在る。無だけが、満ちる可能性がある。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;        &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　宇宙の力は，円形を通じて働くから、であろう。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;だから、四角い部屋のまん中に、別に、畳の部屋ではなくともいいが、竹ひごと和紙でできた、シンプルな丸い提灯の明かりがあると、部屋中が和むだろう？　&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;ある種の力が生じるだろう？　形の力だ。満月の様な？&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;　ムーン・リヴァーは、河幅が、一マイル以上もある大河、だそうだから，誰しも潤うよね。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;      &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　日本人だけがそう感じる訳ではない。今では、ヨーロッパでも、タイやラオスでも、ヴェトナムでも、提灯の明かりは、珍しくなくなって来ている。星の数はうんざりする程沢山あるけど，とりあえず，地球では，月は一つだからね。木星には月が沢山あるそうだけど、一寸、遠いやね。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;南の暑い国では、殊更、月に人気が集まるのは、当たり前だ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;満月を国旗のデザインにしている、ラオスなんかは，フルムーンの日は、何時もお祭りになる。フルムーン・パーティだね。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;      &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　赤ん坊は、その姿全体が丸みを帯びている。子猫も子犬も、ひよこや、そして小熊もコアラもパンダも丸い。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;丸いものが、動き回ると、それだけで，周囲は和らげられる。地球も，月も，星も、太陽も丸い。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;モノには、丸くなろうとする性質があるようだ。卵だって、微妙にいいカタチをしている。素晴らしい、と思うよ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;そして、星の軌道も丸い、或は、楕円形だ。季節の巡りも，大きな円を描くではないか？&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;    &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　円は、やがて、心のカタチにもなってくる。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;気に入った、丸い石でも、巻貝でも、ポケットに入れて、たまに手で握ると、何故だか、心が落ち着く。無心に、ストーン出来るのだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;    &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;エナジーが戻って来て、アット・ホームになれるのだ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;　&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　お金と言う、非常に物質的なものにも、円と言う単位，通貨にスピリチュアルな意味を持たせたている。ここの所が面白い。円とはよく考えたものだ。よく循環しそうな、名前なんだけどね…　&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;隅々迄、廻る様になるといい。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;      &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　”形”には、何らかの作用性、詰まり、それなりの力がある。その力を引き出すには、その”力の性質”を良く知らねばならない。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;カタチ、という言葉の、カタの語源は、偏り、片寄り、カタヨリ、と言う言葉から来た言葉らしいが、”方向性を持ったエナジー、力が、カタチに固定されている”、と言った意味合いであると言う。勾玉がいい例だ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;日本、中国、イランでは、よく見かけるし、タイやインド、ラオス、マレーシアでは、カシューナッツを良く食べる。カシューナッツをから煎りして、チキン、空芯菜、竹の子、有り合わせの野菜でもいいが、スパイシーに炒めると、実に美味い。最高の”ぶっかけ飯”が出来る。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;    &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　一方、チというトーン（言霊、ワード・スピリット）は，イノチ、乳、血，地、智、地、そして、チッチーのチッ、と言った言葉、生命力、智力，地を意味する様だ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;優れたカタチには、スピリットが宿る、というのはそう言う意味である。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;カタチがスピリットを生み出すのだ。詰まり、人の心や、もっと深い深層に迄届くとそこで、カタチと共鳴するんだよ。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt; &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;無論、人それぞれ好みも感性も違うだろうが、力のあるカタチとはいいものだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;トースターでも、やかんでも、急須でも、陶磁器も、茶碗でも、バイクでも、車でも、カタチが気に入ると、使う事、持って&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;いる事、そのものが楽しい。豊かな気持ちに成れるなおだ。１９５０年代の、アメリカ製のトースター、カタチが良かったね。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;只、役に立てばいいじゃ，詰まらんだろう。シナジー、相乗効果が起きないからだ。エナジーの働きを無視してるんだよ。視力が無いのかな？　&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;生を知らないのかな、・・・・。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;使い込んでいるうちに、馴染んでくると、カタチにフィット出来ると、モノにも魂が入って来るからだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style="font-weight: bold; text-align: center;"&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;スピリット（精神）＆マター（物質）。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;    &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　カタチの作用性は，普段，以外と気づかないものかも知れないが，それ故、気づけば、作用性の効果は、思いの外、相対的に強くなって来るのかも知れない。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;イマジネーションやスピリットを喚起するカタチもある。昔から、人は自然の石に、神秘の力を見て来たのだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;昔の、無垢で素朴な人にとって、石は、カタチの始まりだったのだろう。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;今でも、聖なる石、は世界中に数多い。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;今、住んでいる島にも沢山、いい石がある。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;ここは、天然の石庭、ストーン・ガーデンだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;石は宗教さえも生んだ。昔の神託（オラクル）は、石を通じて伝わった。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;今でも、らんちき騒ぎを繰り返す騒々しい世界からは、見えない所で、世界中で、実質的に働いているのだ。それは、途轍もなく大きな世界なのだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　やがて、神秘的なアプローチと、科学、物理学とが出会う事も有りそうだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;先日、マレーシアからの帰り、汽車の中であった、ロシア人で、タイの大学で教鞭をとっている、未だ若い物理学の教授が、その事を離していた。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;何時か、タントラの事を教えろ、と頼まれてしまった。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;アジアは、そう言う意味で、宝庫でもあるのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　音楽にだって、そしてスポーツにも、様式や形式がある。言語は、カタチの代表選手かも知れない。日本語、英語、フランス語、チベット語、イタリア語、ヒンドウー語、ベンガル語、タミール語、マラティー、タイ語、ネパーリ、ブータン、中国、マレー語、インドネシア、アボリジニ、アラビア語、ヘブライ語…　沢山あるが、そこに、文字も、カタチも、様式も、そして文化も、文明も、全て言葉を通じて生まれた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　イスやテーブルにも、使う為の有効なカタチ、気脳的なカタチがある。用途に応じた、使いやすさが、今では、目標となっている。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;    &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;船のカタチも、飛行機の翼も、蒸気機関車のカタチも機能を生かす為のカタチだ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;どれもそれなりの役割に合った、素晴らしいカタチをしている。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;プロペラやスクリューは、風や波を機能的、有効に生み出す、捻れと傾きの力だす為のカタチになってる。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;当たり前の話だが、自転車や自動車のタイヤの円周が丸いのは，スムースに、上手く転がり易いカタチになっている。蜘蛛の巣は素晴らしいデザインだ。ローマの街、ニューデリーの街、パリもそうだね、を、上から見れば、まるで蜘蛛の巣を繋ぎあわせたかの様だ。今、ニューデリーは、生まれ変わろうとしていて、大工事の真っ最中の筈だ。世界一の都になるという事だ。期待しよう。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;動物、鳥、魚、虫達からも、人はカタチを真似して来た。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;彼らは文明の師匠となってしまった。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;      &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　バイクや自転車のタイヤを輪切りにして、断面が丸いのは、車体を傾けて、上手くカーブを曲がる事が出来る様にする為だ。自動車ならその必要がない。傾けないからね。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;当たり前だが、四角かったり，六角形では，うまく廻らない。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;一歩渦って、八角形でも、十角形でもだめなんだ。丸くなくっちゃ駄目なんだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;        &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　以前、ホンダの造形室に居た人に聞いたんだけど、当時、ホンダ・ドリーム、確かC-70だったか、そんな名前だった、という”角形”のデザインを取り入れたバイクがヒットしていた時代の事だ。&lt;/span&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;本田宗一郎ファウンダーが、”今度は，タイヤも四角いのにして見よう”、と言って，実際に、断面が四角いタイヤ、の試作品迄造らせたそうな。そして、実際に，社長自ら、試乗しようとしたらしい。現実には，走行不能なんだけどね。&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;”こりゃいかん！”と言って、すぐに、あきらめたそうだ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;まず実践。文明とは、トライ＆エラーの積み重ねなんだね。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/Sue_M3lNIMI/AAAAAAAAA2k/y2JnImaSl1o/s1600-h/RIMG0221_3.jpg"&gt;&lt;img style="margin: 0pt 0pt 10px 10px; float: right; cursor: pointer; width: 320px; height: 126px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/Sue_M3lNIMI/AAAAAAAAA2k/y2JnImaSl1o/s320/RIMG0221_3.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5397492906226163906" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;     &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　皿のカタチは、窪んで、平らかである事が、力、即ち，機能になるわけだし、お茶やコーヒーを楽しむには、液体を入れる為に、充分な深みがあって、口は丸い方が、旨い茶がのめそうだ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;まあ、口が四角い茶碗では、美味くなさそうだがね。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;私はお茶好きだが、やはり、お茶は丸く飲みたい。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;        &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　単純に、丸いカタチには、どんな意味が在るのだろうか？&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;　円的直感と言ったらいいだろうか、空性、精神作用にも深く影響する。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;チベット仏教のマンダラ（円という意味）は、須く、円形を使ったものが多い。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;中でも、円と四角と十文字を組み合わせているモノが多い。ヒンドウー教のヤントラ（神秘図形）にも、蓮の花をカタチどった円形、それとエナジーを象徴する，上向き，下向きの三角形が使われる。無、そして存在をを象徴する、”ビンドウー”、点，ポイント、”•”、今流行の言葉だと、”ドット”、イタリア語の”プント”だね、がある。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　古代中国の、陰陽のデザインは，バランス、陰陽の和を象徴している。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;それぞれ、無形のもの、精神、エナジー、智慧と、物質生、肉体との調和を図るものだ。そこから、新たな力、気付きの力、が生じてくるからだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　円形とは、古来から、完成されたカタチ、究極のカタチ、と捉えられている。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;見た目にも、ポジティブで、安心できる、”英知”のカタチだ。魂に共鳴するのかも知れない。なにか、ホッとする。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;中心から、周辺迄は，何処をとっても等距離である。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;何処にも角がないから、平和な感じがして、安心する。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;抵抗感がないのがいい。使い方にも依るが、環境が和らいで来る。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;円周には、始めも終わりもない。何処も始まりであり，何処も終わりでありうる。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;円形を通して，宇宙と，世界と交流できる、という感性も生じてくる。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;円形は、カタヨリがない分、生命力，生きている感覚、宇宙の気、スピリットを、受け易くするからだろう。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;円には、全宇宙と共鳴する、という感覚がある。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;気持ちが、素直に、ポジティブになれば、気合いも入ってくる。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;      &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;生のまっただ中に居るという、安心感がある。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;不安も不満もない。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;今がそうだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　立体的に丸いもの，球形を手にすると、意識が水を実感するのは、地球が水の惑星だからだろうか？　それとも、カタチや、性質の柔らかさだろうか？　&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;柔よく剛を制す、ということかな。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;円が，目的や対象を生む動き、になるには、円は”螺旋”となるだろう。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;そして渦になる。台風、ハリケーン、竜巻，皆そうだろう。気圧のギャップから生じるのは、皆良く知っている。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;一般的には、螺旋は、円に時間の要素が加わったもの、と理解されているようだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;階段なんかにもよく使われる。蛇の蜷局（とぐろ）も、コイルスプリングも螺旋だし、巻貝も螺旋状に発展したカタチだね。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;              &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　一方、直線（二点間の最短距離を結んだもの）、垂直線、水平線、斜めの線。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;又、直線を組み合わせた、三角や四角いカタチには、又、違った力がある。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;五角形、六角形、八角形等は，ヴァリーエーションだ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;五角形については、ヤントラ（ヒンドウー神秘図形）では、”☆”、つまり星型で表され、人の自然体を表す、のだと言う。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;瞑想の入口となっている。スターゲイトという言葉がぴったりだね。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;空、風、火、水。地の五つの要素を表している事は一目瞭然だ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;まずそこから始めるからなのだろう。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;    &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　タントラと関係が深い文化のチベットでは、”私”という言葉と、数字の”五”とは、共に、”ンガー”と言って、同音なのである。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;日本語の、”悟り”、と言う文字の姿も、心という偏に、五と口とで出来ている文字だ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;      &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　空の星のカタチは、星の光の、見え方で、様々な星のカタチのカタチに、見えるが、実際は、丸い。☆のカタチは、先に述べた様に、瞑想の第一歩となる図形とされている。何千年も前に、インドで発見されたカタチだそうな。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;五角形はそのヴァリエーションと考えても良いだろう。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;用途に応じて、人のマインドから生まれた。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　太陽、月のカタチから生まれた円、球、そして山と谷を表す三角形、これらは自然から生まれた。それ以外は、全て、直線を含めて、人のマインドから生まれた。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　上向きの三角形は、山を模している。感覚的には、宇宙に気が発していく形、動きを起こす働きがある。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;下向きの三角形は、&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;V&lt;span lang="JA"&gt;ゾーン、谷、オープンで、受容性、静寂、安心を促すカタチだ。&lt;/span&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;エジプトや中米のピラミッドは、上向きの三角形を安定させる為に、底辺の四角を組み合わせている。上から見れば、ピラミッドも、ジャワのボロブドールも四角形だ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;円については、チベットの国旗にあるように、太陽を神格化する事で、暗に、補っていたのかも知れない。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;チベットの国旗は、ヒマラヤと太陽を重ね、二匹の神獣（スノー・ライオン、文殊菩薩、即ち、マンジュシュリの乗り物）を配置している。英知と生命力、そして、仏教の智慧、を象徴している。太陽の○と放射状のライン、ヒマラヤの△、外形の長方形、二匹の神獣、これには守護の意味がある。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;私の部屋の壁にも張ってある。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;カタチも、五色の色も、見ていて、安定していて、気持ちがよいからだ。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　上向きの三角形は、円と違って，なにか、それだけでは、不完全さがあり、カタヨリと言うカタチの語源の様な意味が、そのままの姿であるかの様だ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;それが動きだ。変化、動き、エナジーを喚起する。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;ヒンドウーのヤントラ（神秘図形）には，円と上向き、下向きの三角形とを、様々に組み合わせたものが多い。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;必ず、ビンドウー（点）がうってあるが。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;      &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　三という数字は，スピリットを象徴している。シヴァ神のトリシュールがその象徴となっている。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;ヒンドウーでは、三は，宇宙の三界、そして三神を象徴している。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;インドで起こり、イスラムで発達したと言われる、数秘学に依ると、二は英知（直線）、四は資料、五は自然、を象徴していると言う。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;ゼロと一とは、最も重要だが、ここでは、もう説明の必要はないだろう。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　ヒンドウーの主だった神々は三味一体だ。ブラフマ、シヴァ、ヴィシュヌ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;それらの神性が，この世を維持し、変化を起こし、隠された力を表面化させるのだ、と言われている。サッカーのシンボル、三本足のカラスもスピリットを象徴している。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;日本においては、三角形には、日、火の性質があるとされる。これは地域によって異なるかも知れない。円は天、即ち、空、それと水だろう。日本では、天はあめと呼び、雨とも重なった、二つの意味を持つらしい。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;おむすびのカタチは三角だ。元気が出る。集中力、動きを象徴する。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;br /&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/Sue5x7HIN_I/AAAAAAAAA2E/vzyAgr7Caiw/s1600-h/P3070146_2.jpg"&gt;&lt;img style="margin: 0pt 0pt 10px 10px; float: right; cursor: pointer; width: 320px; height: 229px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/Sue5x7HIN_I/AAAAAAAAA2E/vzyAgr7Caiw/s320/P3070146_2.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5397486945759148018" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　富士山は、水平に見れば、見事な三角形だし、飛行機で上から見れば、円錐形でもある。山は、三次元だから、立体的に見ると、面白い。仏教のストウーパ（仏塔）も上から見ると、円錐形だが、横から見ると、曲線を使った三角形、放物線状のラインで出来ている。だが、稜線は、直線ではないのだ。微妙に、φ（ファイ、黄金分割比率、１&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;,&lt;span lang="JA"&gt;６：１）が使われている。&lt;/span&gt;北斎の描いた富士もそうだね。ミャンマー、タイ、ラオス，カンボジア、それぞれ特徴があって、微妙に違う。この辺が面白い。ネパール、チベット、ブータンとなると、大分、姿を異にする。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;    &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/Sue6hGaq_mI/AAAAAAAAA2M/MIq99whZmR4/s1600-h/P4100478_2.jpg"&gt;&lt;img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width: 320px; height: 193px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/Sue6hGaq_mI/AAAAAAAAA2M/MIq99whZmR4/s320/P4100478_2.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5397487756247760482" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　ヒマラヤは、沢山の三角形の集合体、背景の藍色の深いトーンの空、カタチや海抜は兎も角、人の意識に変化を起こす不思議な力、があるのだ。ヒマラヤは、昔からシヴァ神の御神体となっている。近くにいるだけで、身体を貫く様な不思議な力を感じる。それは目を閉じていても感じられる。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;何度行っても、ヒマラヤには感動する。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;    &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　普通，健康な人の60兆も在ると言われる細胞が、およそ７年周期で、全て入れ替わるそうだ。病人は別だよ。細胞の働きがなくなると、死ぬ事になる。当たり前の話だ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;ところが、ヒマラヤに行くと、１週間程で、全細胞が入れ替わってしまうと言われるのだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;      &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　今年の五月に、１ヶ月程、カンチェンジュンガの近くに、行ってきたばかりだが、身体も心も、入れ替わって新しくなった気がするのだ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;眠りこけている意識、が、再び目覚めるからなのだろう。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;３−４年に一度位は行く様にしている。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;    &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;ボン教、仏教、ヒンドウー教、共通の聖地となっているが、問題は何も無い。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;最近は、イスラムの人も、ヒマラヤやガンガーにもやってくるそうだ。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　四角の意味するものは，囲い，仕切り、結界、区別、三角形の”動き”に対し、”安定性、不動性’を表している。ボクシング、ムエタイのリング，野球のダイアモンド、テニスコート、都会のビルディング、平安京、平城京、畳、扉、窓、額、タンス、引き出し、本…　色々あるね、きりがない。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;      &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　四角は、”結界、区別といった、資料的な意味”に関わっている。特別な領域にもする。家がそうだろう？&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;　其所にあるもの，あることを、整理したり、整えたり、使い易く、治める。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;きちっとさせる為だ。だから、資料という意味が在る。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;物質的で、地の性質がある。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　四角のカタチの、隠れた意味は、”慈しみ”、である、とは、知り合いの、あるタオイストの意見。”慈”、無くして文明なし。と言う事らしい。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;慈も、四角いカタチも、どちらも、文明には無くてはならないようだ。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;        &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　大分以前、タミル・ナドウー州（南インド），マドライのホテルに泊まってた時、中級のホテルだが、昼下がりの午後、メイドさんが、ロビーを掃除していた。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;天井には、大きな扇風機が、ゆるゆるとまわっている。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;猫があくびしながら、自分のイスに、お腹をだして、仰向けにひっくり返っている。安心しきっている。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;シャンティー、シャンティー！（平穏、平和）&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;      &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　受付のオッチャンは、ロビーのイスで、すやすや。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;たまに、泊まり客が、出て行ったり、戻って来たり…　&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;昼下がりは、何処も長閑なのだ。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;              &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　バスの時間待ちで、新聞を読みながら、チャイを飲んでいた。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;メイドさん一人だけが働いていた。モップに水を浸して、掃除していた。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;そして、四角い部屋を、丸く拭いていた。目を合わすと、照れくさそうに笑っていた。人はやはり、丸いのが好きなんだ。いや、単に、横着なのかもしれない。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;四角い部屋の隅の部分だけ薄汚れがのこっていた。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;猫も行かないし、人も届かない所だ。部屋のカタチにもよるけど、丸い部屋のほうがいいのかな？　&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;アッチャー．ヘイ！　まあ、いいか。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;そのインドが、今や、経済成長率、世界一の国だってんだから、おそれ、入谷の鬼子母神。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style="font-weight: bold;"&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;“メイドさん　四角い部屋を　丸く拭き”&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/Sue7VyvbZuI/AAAAAAAAA2U/KbH3qzaNo0k/s1600-h/DSC00508_2_2_3.jpg"&gt;&lt;img style="margin: 0pt 0pt 10px 10px; float: right; cursor: pointer; width: 226px; height: 320px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/Sue7VyvbZuI/AAAAAAAAA2U/KbH3qzaNo0k/s320/DSC00508_2_2_3.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5397488661499176674" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt; &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　ラオスやタイ、ブータンには、伝統的な織物に、”菱形”、それに螺旋や稲妻を模したと思われる、ジグザグ模様の、手織りの織物が多い。昔から、好きで、いくつか、それぞれの国のものを持っている。些細なコレクションだがね。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;この地域には、素晴らしいものが沢山有る。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;織物に興味のある方なら、うなづかれる事だろう。宝庫なのだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　これらの織物には、ある種のスピリットを感じさせる。ネイティヴ・アメリカンとも繋がるスピリットのカタチだ。菱形は四角のヴァリエーションだが、山と谷という二種類の三角形の組み合わせともとれる。第三の目やシャクティーを感じさせるのだ。ヒンドウー・仏教国ならではの、伝統工芸だ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;        &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;いいものを見ると、つい欲しくなってしまう。それだけ魅力があるという事だ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;日本でも、源氏の血筋には、菱形を家紋にしている家も多いのだ、と聞いた。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;私の部屋にも、20年前にヴィエンチャンで手に入れた、昔のラオスの織物が、今も壁にかかっている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　家の屋根の三角形、切り妻型の屋根は，雨を避けて、水を上手く下に流す為だが，タイやラオスには、三角形を四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つも使った錐形状に組み合わせた屋根、時には、何重にも重ねた屋根もよく見かける。間を上手く造ってあって、涼しい。見た目にも美しい。村の友好、親睦の場となっているようだ。又、村の東屋にもなっていて、誰しもが出入り自由になっている所が多い。草で葺いた屋根がいいね。窓にガラスなんて入れないし、大きく開いているから、風通しが良い。エアコンもいらないし。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　話を戻そう。上から見れば，基礎部分は、四角い壁で仕切られた結界、安定感のある四角形。角張ったものは、手の平で握りにくい。手の平に、フィットしない。これも特徴だが、欠点ではない。只フィットしないだけだ。機能を生かせば、使い道は多いはずだ。家具もシステムキッチンも、食卓のテーブルも、四角を前提にしているものが多い。安定感があって、転がりにくい、四角い部屋にフィットし易いからだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　カタチとは、漠然とした世界から、切り取ったもの。人の目を覚まし、意識に変化を起こすもの。穏やかにするもの。力が生じるもの。色々なカタチが有る。写真や絵もそうだね。カタチが無ければ、心も無い。古来から、スピリットや魂に感応するカタチが、聖なるカタチとなったのだ。いまでは、便利さを目的にしたカタチ、使い易いカタチ、周囲をを和ませる力を持ったカタチ、力のあるカタチは様々だ。我々はカタチに囲まれて生きている。カタチの作用が、ありとあらゆる所で働き、人もそれらを上手く組み合わせて、生を楽しんでいる。それが文化でもあり、文明でもあるのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　カタチを通して、自分に気づくという、瞑想技法（タントラ）がある。私は、よく使うのだが、試してみると良い。実に簡単だ。茶碗でも、ツボでもティーカップでも、カタチがあるものなら何でも良い。出来れば、柄とか色の無いもの、気にならないもの、普段使っているものがいい。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　何かを見てみる。只、何時もとは違う視点で見てみよう。ここが肝心だ。ゲシュタルトを変えるのだ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;カタチの全体を観る様にする。何処の国で造られたかとか、縁や部分、材質、色、柄、ブランド等は、意に介さずに、全体のカタチ、シルエットだけを見る様にする。丁度デッサンするときの様に。断片的に、カタチの部分や色、柄を見ない様にする。それだけだ。実に簡単だ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;その物の物質的な部分は、素材であって、カタチとは、精神的、スピリチュアルな部分なのに気づく事だろう。只、カタチの全体だけを見続ければ良い。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;          &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　モノのカタチを知覚すると、背後の空間、詰まり、ネガのスペース、対象のモノの無い部分にも気づくだろう。やがて、ネガのスペースが残って、対象のモノを意識しなくなる事がある。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;そのうち、対象物の方が、ネガスペースになる。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;知覚の変換が起きる。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;見え方だけでなく、周囲の感覚が違って感じられるかも知れない。あとは、言わぬが花、なんだけれど…&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/Sue8ASy8BwI/AAAAAAAAA2c/9rjN8fkyg6U/s1600-h/RIMG0010_2_2.jpg"&gt;&lt;img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width: 320px; height: 199px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/Sue8ASy8BwI/AAAAAAAAA2c/9rjN8fkyg6U/s320/RIMG0010_2_2.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5397489391658338050" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;　つまり、自分自身に気づく様になるのだ。モノを見ると言う、外に向かっていたエナジーが、背後の空間、ネガのスペースに意識が触れると、エナジーは反転して、戻ってくる。家に帰ってくる。エナジーの、帰る家は、自分しか無いだろう。そして、その時、無心になっている事に気づく。つまり、自己に気づくのだ。その上、今迄気づかなかった、エナジーの働きを知る事が出来る。微細に丁寧に感じてみる、ここが、又、肝心だ。エナジーを循環させると言う、一人キャッチボールの様な、タントラの技法だ。デッサンのテクニックでもある。そして、これも、サイレント・ジョイの一つなんだよ。ハイテックだろう？　もし始めての体験だったら、アメイジング、素晴らしい体験になる筈だ。リフレッシュするだろう？&lt;br /&gt;　様々な形を組み合わせて、その形の力を生かしながら、人は生活する。そう言う意味で、形あるものが、身の回りに沢山ある。様々な形がある。それだけ世界が広がってくる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　カタチの力を、意識的に用いるのが、儀式であろう。相撲の仕切り、土俵入り、四角に囲まれた丸い土俵、天井から吊るした三角形の切り妻の屋根。タイやラオスの民家みたいだ。田舎に行くと、今でも、伊勢神宮みたいな家を良く見る。なくなって欲しくない。昔は、釣り屋根ではなく、柱があったのだ。屋根のカタチには、文化的、宗教的な意味合いがある。様々な要素が組み合わさって、それが、味わいを深めるエキゾティックな付加価値、雰囲気、魅力になっている。様々な形が合わさって、一体、一如となって相互依存しながら、働いている。伝統のチエだね。ファンタスティック！&lt;br /&gt;　儀式とは言えないが、日本の旅館も、特別な様式だ。同じ、泊まる、という目的でも、善し悪しではなく、ホテルとは全く違う。それぞれ特徴がある。両方とも良い。時には、日本の旅館もいいね。華道、茶道、香道、書道、柔道、ムエタイ、空手、クンフー、剣道、道と付くものは、芸術もそうだが、その辺りが、ディープで面白い。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;○、△、□。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ハヴァ・ナイス・デイ！&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="readmore"&gt;&lt;br /&gt; &lt;a style="font-weight: bold;" href="http://shambhalacafe.blogspot.com/2009/10/blog-post_29.html"&gt;続きはこちら!!&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/18690307-5722366974274048298?l=shambhalacafe.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/5722366974274048298'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/5722366974274048298'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/2009/10/blog-post_29.html' title='カタチと時空間の愉しみ'/><author><name>fortunesawada</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05592192894946341165</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/Sue1NSF9dEI/AAAAAAAAA1c/iaaahgdy3QM/s72-c/RIMG0001_3_2.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-3860686244074298340</id><published>2009-10-28T00:00:00.009+09:00</published><updated>2010-01-05T04:03:22.587+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='タイ'/><title type='text'>知のオデッセイ Part4</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/SufCBukDmCI/AAAAAAAAA20/0QCBV3tBwfU/s1600-h/MyPicture_20.jpg"&gt;&lt;img style="margin: 0pt 0pt 10px 10px; float: right; cursor: pointer; width: 320px; height: 226px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/SufCBukDmCI/AAAAAAAAA20/0QCBV3tBwfU/s320/MyPicture_20.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5397496013361748002" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;　形の無いものへの信頼は、もう一方の、形ある物、名の在るものの領域、ものの世界を否定している訳ではない。何も否定していない。無形のものへの信頼は、かえって、形あるもの、ものや名の在るものを、より深く、理解できる様になる。&lt;br /&gt;　見え方が変われば、理解度も深くなる。ものごとが面白くなってくる。ものを通した、深みも判ってくる。一つは世界、モノ、形、量、もう一つは、隠れているもの、精神、無、カミ。無論、その両者を繋ぐ事も出来る。実際は、もう繋がってるけどね。そう言う意味では、今、とは面白い時代なのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　繋ぐ（つなぐ）、という言葉は、サンスクリット語で「ヨーガ」と言う。5000年来の古語が、今では、国際語になってしまっている。ヨーガや指圧を、色々試しているうちに、何時のまにか、繋がってしまう。&lt;br /&gt;　タントラは全てを受け入れる。その受容性から、本物の、寛ぎが生じて来る。リラックスできれば、自分と言う機能も、生き生きとして来る。特に心と身体がね、それに意欲というプラス・アルファがわいて来る…　生がポジティヴになってくる。&lt;div class="fullpost"&gt;&lt;br /&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/SufDAseAgjI/AAAAAAAAA28/QWgesRCIh98/s1600-h/IMGP0737_2.jpg"&gt;&lt;img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width: 240px; height: 320px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/SufDAseAgjI/AAAAAAAAA28/QWgesRCIh98/s320/IMGP0737_2.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5397497095131267634" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;　タオのエナジーは、有から無へ、無から有へと、千変万化して変化し続ける。自分の全宇宙が、暫くするうちに、ハーモニックに循環し始める事がある。前にも述べたが、そのエナジーを、タオの人達は、”テー（徳）”と言う。タオのエナジーの働きのことを言う。働かせようではないか。それを引き出すには、慈しみ、そして、無為、余計な事をしない、という事かな。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　テーは、インドやチベットでは、クンダリーニ・ヨーガに於ける、”シャクティー”だ。大きな意味で『愛』と言ってもいいかも知れない。自律神経もシャンとしてくる。『慈』と言った方が、現実的には、判りいいかな。それは行為ではない。それは存在の状態であって、愛憎でも、執着でも、感情でも、所有でも、努力でもない。行為ではないのだ。静かな心の状態、慈しみある、愛ある状況にある、という事を言う。情という事ではないから、クールと言ってもいい。それは、非常に微細なエネルギー現象、波動なのだ。そして、それは、常に、今、に起こる。明日も、昨日もない。今、だけに起こる。それは、”魂の呼吸”。それを通じて、魂は生き生きとし、活動する様になる。物質世界では、最も重要なエッセンスなのかも知れない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　さて、宇宙次元に入ると，様々な繋がりが、観えて来る。それを『経略、ナディー』と言う。ナディーには、ツボと呼ばれるジャンクションがある。ハリや指圧、タイやインドのマッサージは、そのツボの科学だ。タントラの科学から起こって、発展して来た。元気がなくなったら、テー（徳）、シャクティーの力を、ツボの知識と合わせて、使えば良い。それに、軽い運動がいいんだよ。手軽なのがいい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ダイビング（タンクなんか背負わなくたって、シュノーケリングで充分楽しめる）とか、ジョギングとか、ヨーガ、振動、屈伸、体操、木登り、自転車、歩くだけでもいい。何事もそうだけど、コツが解ると，何でも面白くなって来るものだ。身体は、自分の乗り物だから、大事にしたい。健康とは，しなやかで、バネがあって、柔らかくある事だ。大事にすれば、死ぬ迄使える。これは、冗談ではないよ、死ぬ前に、身体が駄目になっちゃう人も少なくないんだから。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　過去を振り返ってみれば、アっという間の、出来事なんだけど、過去は記憶でしかない。赤ん坊の頃の記憶迄、以外と残っているものなんだ。未来は、これからも延々と続いて行く、果てしなく…　過去を背負っている人は別にして、過去はノスタルジーはあるだろうが、現実には存在しない。今は今でしかない。だが、伝統と言う質は在る。忘れてはならないものがある、というのは、伝統文化の美点であろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　未来は、未だだが、延々と永く続いていく。少なくとも、前向きに生きていたいのなら、未来は重要だ。そして、その未来の為には、『今』と言う次元が，最も大切だ。私は、今、に生きているのが好きなタイプだが、人それぞれだからね。伝統には，それなりの意味と智慧の深みがある。今、に生かしたらいいではないか。新しいものなら，何でも良いとは限らない。様式や形式、流行やファッション、それらは、どうでも良いが、実質的に良いものなら、もっと生かしていったらいい。&lt;br /&gt;ものごとの、深い意味が解らないうちは，心はいたずらに惑わされるばかりだ。表層ばかりが、反応して、暴れちゃうんだ。それは、根が欠けているからなんだ。バンヤンの樹は、根に特徴があるだろう。南の国の人なら誰でも知ってる。今は，情報過多の時代だ。だから、無とか空なんて無視されてしまう。モノゴトを、鵜呑みにしてて、ただかっ込んで食っている、見たいだ。知識ばかり、安直に集めたって、不安をあおり、競争を激化するばかりだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　海に潜ってみると、表層が多少荒れていても、深みに入ると、静かでゆったりとしてるんだ。珊瑚の森にでも入ったら、何事もない。魚が、恐れも無く口で突っつきにくる。箱ふぐとかハゼの仲間はとくにかわいい。海の中は、見た目だけではない。別世界だ。波動も違うし、感性も爽やかになってくる。一度、潜ってご覧な。いい瞑想になるんだから。生まれ変わった様な気分になる。健康にもいいしね。新たな認識や、ヴィジョンが生まれるんだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　同様に、一度、原点に立ち戻れば、深い所が納得する。腹が据わって、納得する事、安心して、寛ぐ事が大切だ。ゆるりと行けばいいんだよ。もし、自分の中に、散乱、混沌が起こったら，避けようとしたり，押さえつけたり、逃げるのではなく、ただ、意識をそこに向ける。気が散っている時は、呼吸も乱れているものだ。暫く呼吸を見守るといい。それから散乱を、無心に見つめてみる。それだけでいい。暫くすると散乱は，自ずと去っていく。&lt;br /&gt;　浅場で遊ぶ小魚も、大人になれば、深みに入って行くだろう？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　呼吸というものは、単に酸素呼吸だけに留まらず、呼吸によって、生命に内在する全てのものが入っている。プラーナと言う。呼吸法をプラーナヤーマと言う。それは、”生命の拡張”を意味している。プラーナとは生命を意味する。取りわけ、ヨーガ、タオ、タントラでは、呼吸に関する様々な技法が有る。&lt;br /&gt;　頭は使うもの、心は生きるもの、そして感じるもの、そして腹は坐るもの。さすれば、身体もついて来る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;"Sound mind, Sound body"&lt;（弾む心、響く身体）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;サウンド・グッド！&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　”道楽”というと、最近では、何となく、旗色の悪い言葉、になってしまったが、もともとは、仏教用語で『悟りの、楽しさ』を表現する言葉、なのだそうな。言葉も、一度本来のものに戻してみたいね。本来の面目に…&lt;br /&gt;　一度、語源に戻ると、言葉の深い意味が分かって来るんだ。そのギャップが面白い。見かけを追えば、源を見失う。根源に帰れば、意味を見いだす、ってところかな。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://3.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/SuaZVkSQ_iI/AAAAAAAAA1U/cSeHK-3oF5E/s1600-h/RIMG0048_2_4.jpg"&gt;&lt;img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width: 320px; height: 400px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/SuaZVkSQ_iI/AAAAAAAAA1U/cSeHK-3oF5E/s320/RIMG0048_2_4.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5397169799246708258" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;　夜明けとともに始まり，太陽が真っ赤になって水平線に沈み、辺りが暗くなる迄、青は様々な輝きや変化を見せる。サンセットを挟み，夜空にバトンを渡す。夜空は大きな寛ぎだ。夜無くして、昼間はない。涼しくなるし、月も星も素晴らしい。その背後の漆黒の闇。凄いね。月や星を輝かせている。昼間、星が見えないのは，その、背景の漆黒の闇がないからだ。明るすぎて、見えなくなっているのだ。闇なくして光なし。闇の御蔭で、月や星を見る事が出来る。そして夜空の全てが、現れてくる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そうそう，月と言えば、月に，水があるんだってね。NASAが見つけたそうだよ。月の湖の様な所で、何かを落として実験したら，水しぶきが上がったそうだ。重力が少ないので、その水しぶきが、高くあがって、スローモーションの、白い打ち上げ花火のようだったね。その水、飲めるのかな？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　海の偉大さには、まず、海は一つであること。あちこちで、それぞれ、色々な名前がついているが、太平洋、日本海、インド洋、大西洋…、全て繋がっている。海は、最も低いところにある。その低さがいい。だから、全ての川を受け入れる事が出来る。謙虚さと受容性が、可能にしているのだ。&lt;br /&gt;　老子曰く、“上善は、水のごとし”、そして、”水は低きに流れる”、と。真に優れたものは、低さを受け入れる”ゆとり”がある、と言う意味だ。そのユトリこそが、貴重な宝なのだ。&lt;br /&gt;　もう一つは、海は、生命力の宝庫である。生き物は、海から生まれて来た。生命を、育て、生かす要素に満ちているのだ。だから海の近くにやってくると、兎に角、ホッとする。生き返る様な気がする。本来の我が家だからね。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　又、日本料理でも、中華、インド、タイ、ヴェトナム、イタリア、マレー、スペイン料理でも、様々なエキゾティックなスパイス、そして独特の料理法がある。そして、どの料理もおいしい。だが、料理の要となるのは、塩、そして塩加減なのだ。塩は、海のエッセンスなのだ。岩塩だって、昔、海だった所からしか出て来ない。人だけではなく、あらゆる動物も、水と塩なしでは生きて行けない。&lt;br /&gt;　ビーチの内側は兎も角、近くに寺院はおろか、祠のようなものすらない。日本やインドなら、普通、人が何かしらの印、注連縄（しめなわ）や祠や寺院をつくる筈なのだが…　タートー・ロックという、自然に出来た10mもある、巨大な”リンガ（男根）”が、一つあるだけで，どんな飾りも必要としていない。このロックは、見る角度に依って、ブッダの立像に見えたり、巨大なシヴァ・リンガに見えたりする。二通りに見えるのが、ミソだ。知る人ぞ知る、だが、通人は皆知っている。無論、地元の人は、承知の介。だが、岬の突端迄、行くには道が無く、泳いでいくか、船を出すかして、岬の突端迄行かないと、全体は見えないのだ。そこ迄泳いで行くと、さすがに潮流は速い。だが、この境目付近で、ダイヴすると面白い。釣り師や、ダイバーなら判るよね。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　海側から見ると、浜辺には、椰子の木陰、環境の自然にフィットした小粋なコテージや洒落たバンガロー達。海を見下ろす、山の上には高級ホテル、洒落たカフェも、ちらほら・・・・・。人々は、風を感じながら，本を読んだり，音楽を聴いていたりしている。只，居るだけでも，素晴らしい。椰子の樹ってのは、風情があるねー。&lt;br /&gt;　時々，泳いだり、ダイヴしたり、フリスビー投げあったり、バレーボールやサッカーしたり・・・・・家族ずれの人も多い。特に何かをしてはいない。水辺で遊び、楽にしている。時は流れているにせよ、何時しか、時間を感じなくなる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;&lt;span style="font-weight: bold;"&gt;センシ・パラディーゾ！&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　パラダイスというのは、本来特別なものではない。天国でも、あの世でも、無論、地獄でもない。この地上でのことをいう。豊かな自然と、美しい景観があって、余り人工的なものがなく、自然そのままの在り方や姿を、阻害しなければいい。一番、重要なのは、心地よい事。日差しが見事で、寒くない事、寧ろ暑い方がいい。それにプラーナが濃い事かな。力はそこから生まれて来るんだよ。自然のエナジーと歓びとは、同義語だ。理屈も、能書きも要らない。ある意味で、ごく普通の事なんだ。そう言う所は、何処にあったっていいものだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　潮が引くと、真っ白な砂浜と海のトーンとが、美味くハーモナイズして、縞模ようとなってくる。そろそろサンセットが近い…、西の空が赤くなり始める。何処からとも無く聞こえてくる、パコ・デ・ルシア…、いいね…　水にはいろうか…、火照った身体に海の水が、甘く、冷たい…、やがて、水と一つになる。水に浮かんで、仰向けに浮いていると、空が赤くなって、上空に広がっている…　タオ（道）が私を歩いて行く。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　赤から青の間には，色んな色があるんだね。身体も明るくに染まって来た、インディゴ、アズール、パープル，ピンク，オレンジ…、イエロー、ロッソ…　ヴェラメンテ・ベッロだね。生き生きとして，雲一つない無辺の空間に広がっていく。心は澄み渡り、知覚力が冴え渡って来る。空即是色やね。&lt;br /&gt;　やがて、内側にある一点、全ての色が出会う地点、腹が一番いいのだが、に収束すると、意識には、色だけが存在する。世界は消え去っていくかの様だ。やがて，いつしか色も消え去っていく。全ては、源泉に帰る。名のない領域に…&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;今日は，ビューティフルな一日だった。&lt;br /&gt;ハヴァ　ブレイク！&lt;br /&gt;何か冷たいものがいいね、冷たいライム・ソーダかなんか…、&lt;br /&gt;サムシング・クールな，何か…&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="readmore"&gt;&lt;br /&gt;&lt;a style="font-weight: bold;" href="http://shambhalacafe.blogspot.com/2009/10/blog-post_429.html"&gt;続きはこちら!!&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/18690307-3860686244074298340?l=shambhalacafe.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/3860686244074298340'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/3860686244074298340'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/2009/10/blog-post_429.html' title='知のオデッセイ Part4'/><author><name>fortunesawada</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05592192894946341165</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/SufCBukDmCI/AAAAAAAAA20/0QCBV3tBwfU/s72-c/MyPicture_20.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-1155558021179373543</id><published>2009-10-27T14:47:00.006+09:00</published><updated>2010-01-05T04:32:08.981+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='タイ'/><title type='text'>知のオデッセイ Part3</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/SufBWV2rbTI/AAAAAAAAA2s/3F814l2fiuQ/s1600-h/MyPicture_20.jpg"&gt;&lt;img style="margin: 0pt 0pt 10px 10px; float: right; cursor: pointer; width: 320px; height: 226px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/SufBWV2rbTI/AAAAAAAAA2s/3F814l2fiuQ/s320/MyPicture_20.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5397495267994594610" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;　人間は、未知へ向かうと、何か、知らないもの知る、新たなものを知る、と言う現象が起こるので、その期待感で、ワクワクして来る。旅も、トレッキングも、ダイヴィングも、探求も、未知は常に新鮮だ。愉しみにしていた映画が公開されれば、ワクワクしてくる。これを発展させたり、工夫すれば、日々、常に新しくなる。何であれ、知りたい、と思う事は、人が生きようとする本能の現れ、の様である。考える、ということは、知らないから、閉ざして居る事、から起こって来る。知る事、が出来れば、考える必要はなくなってくるだろう？&lt;br /&gt;　想像は、又、違う。想像力は、思考力同様に、誰でも持っている能力だ。それは、”ある姿勢、状況の中に入り込んで、その姿勢、状況が、あらかも現実のものになる程に深く入り込む”、という事だ。イマジネーション。想い描く事だ。善くも悪くも使えるが，私は、楽しく、面白く使う事にしている。&lt;div class="fullpost"&gt;&lt;br /&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/SuaYIoixszI/AAAAAAAAA1E/f9APnJrCF5o/s1600-h/RIMG0302_2_2.jpg"&gt;&lt;img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width: 231px; height: 320px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/SuaYIoixszI/AAAAAAAAA1E/f9APnJrCF5o/s320/RIMG0302_2_2.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5397168477539775282" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;　&lt;br /&gt;　自分を知るのは、難しい。&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;自分とは、何か？　&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;何故なら、知ろうとするもの自体を、知ろうってんだからね。矛盾してしまう。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;言語的にも、意味を失ってしまう。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　真実とは情報じゃない。知識じゃない。全く無関係だ。いくら、情報を集めたって、ますます混乱するばかりだ。真実、それは、譲渡が不能なのだ。モノではないし、概念でもないから、盗めないし、たとえ、盗んでも意味が無い。自分で実体験するしかない。真実とは、実体験した、”認識”なのだ。そして、真実は解放をもたらす。そこからエナジーが湧いて来る。こういう特徴がある。だから自分自身で見いださなければ、意味が無い。他人のじゃ役に絶たないのだ。あとは、言わぬが花（能の開祖、世阿弥の言葉）かな。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　一旦、空に深く見入る時，あらゆるものが消え失せてしまう。理屈も、言語も何も成り立たない。空の明晰さと一体になってしまう。空として、存在している。空っぽの部屋の様に。出来れば、瞬きせずに、澄み切った蒼い空に見入ってみる。爽快になる。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:Helvetica;"&gt;　空の中ではあらゆるものが消え失せる。マインドも消え失せる。”&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;私&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:Helvetica;"&gt;”&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:Helvetica;"&gt;という概念も消える。限界がなくなってくる。無限になったのだ。”&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;私&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:Helvetica;"&gt;”&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;という、嘗ての古い枠組みが、自ずと、旧体制を維持できなくなってしまう。空と同様に、広がりが生じてくる。様式の無い現実、に遭遇する、それが、唯一の、本来の現実だ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　禅師、曰く&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:Helvetica;"&gt;”&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;自分と言う山を越えない限り、タオ（道）は見えて来ない&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:Helvetica;"&gt;”&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;全ての宗教は、その点で一致する。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　雑念も恐怖も不安もない時、もし自分の内側に、無限の虚空、何も無い、無限の&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:Helvetica;"&gt;”&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;空間&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:Helvetica;"&gt;”&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;を感じられたら，人は、自然に静かに、安心し、そして自由になれる。そして、あらゆる活動は、その周辺に在る。まあ、ドーナッツみたいなものだ。一寸、オールドファッションだがね。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　空は、時に、充満すると、途轍もないエネルギーを発揮する。がらんどうから、エネルギーが発生する。ヒンドウー寺院内部が，がらんどうなのは，その為だそうな。空の魔法だ。無から有が生じる。面白いねー&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-weight: bold;font-family:HiraKakuPro-W3;"  lang="JA"&gt;「海の水は，どうして塩っぱいの？　シャケが住んでるからだよ」&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;    &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　立川談志の噺だが，思いの外で，面白い。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;我々は、モノは役に立つと考えて暮らしている。実際、その通りだ。大したものは持っていないが、それでも、色々なものの御蔭で、便利さをもらっている。文明は素晴らしい。面白いものが、日々造られている。　&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　例えば、カップが空っぽでなかったら、何かで一杯になっていたら、コーヒーは注げない。カップは役には立たない。役に立つには、カップの内側が、空っぽである事に、誰でも気づく筈だ。カップの、受け入れる能力、が働いて、始めて、コーヒーを注ぐ事が出来る。器とは窪んだ形だってことは，縄文時代から判っている。さもないと役に立たないからね。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　生全体を受け入れる、という事は、中道を意味する。否定するという事は、極端に向かう、全体から分離する、という事なんだ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;何かでカップは一杯になっていて、コーヒーは注げないし，コ−ヒーも飲めない。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;生全体と信頼関係が出来れば、コーヒーも飲めるし、ユダネと言う次元に入って来る。生と”信頼関係”が生じてくる。ここの所が大事な旨味と言ったらいいのかな。ドルチェかな、それとも、アムリタ、甘露かな。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;中道にあれば、両翼を広げる事も出来る。極にあれば、一部分でしかない。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;一方だけ、片方だけじゃ，機能しないんだ。バランスの上からもね。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;鷲だって、両翼を広げて飛ぶんだから。右翼や左翼だけじゃ飛べないだろう？　オール＆エヴリシング、がいいね、私は。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　須く、能力とは、キャパシティ、許容、ゆとりから始まる。ゆとりが無いと、能力は働かない。玄徳は働かない。”空即是能”なのである。受け入れを可能にしているのは、ただ、空虚で、静かにしていること、にほかならない。他に何もしなくていい。無為と言ってもいい。今迄、映らなかったイメージが、心に湧いて来る事が在る。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　これは、仕事にだって、遊びにも、様々な事にも役立つ事だ。人の話を聞くにも、自分が空っぽの器になっていなければ、相手の話や注文は完璧に、聴く事は出来ないだろう？　&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;    &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;容量が無ければ、いくら勉強したって、知識は入って来れないだろう？　そして，入って来たものを，消化しなければ、実にならない。賢い人は，何でもかんでも詰め込もうとはせず、まず，空っぽになる事を優先させるだろう。それをしっかり消化させる為だ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;配慮はするが、限界も、可能な事も不可能な事も知っている。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;出来ない事は出来ないのだ。自己を知る人は、目立たないが、特に何も目指さず、無理がないのだ。それがスマートってものだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;    &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-weight: bold;font-family:HiraKakuPro-W3;"  lang="JA"&gt;「&lt;/span&gt;&lt;span style="font-weight: bold;font-family:HiraKakuPro-W3;"  lang="JA"&gt;真に空虚になれた時，人は満たされる」&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　これは、逆作用の法則だ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;物事が起こるにまかせ、無理に強制しない。無論、余計な事はしない。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;例えば、物忘れして、名前を忘れたり、何かを無くしたりする事がある。のど元迄来ているのに・・・・、と言う事が良くある。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;思い出そうとして，努力しようとすればする程、より不可能になってくる。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;    &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　あきらめて，その事を忘れてしまい，何か他の事に気を向ける。散歩でもいいし，音楽でもいい。テレビを見るのもいい。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;全てを忘れてしまった頃，暫くして、或は、数日して、突然，思い出す事がある。無為、無努力が効を奏したのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　人の在り方には二つある。まず、するという事。&gt;そして、在ると言う事。この二つが人の在り方のほとんどを占めている。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;誰しもが、する事は得意な様だ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;だが、しない事、あることの関しては、無能な人が多い。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;する事、行為、努力、そのように育てられて来たからだが、最も簡単で、易しい筈の、無為、無努力と言う事が、究めて、難しい事になってしまう。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;反面が無視されてしまうのだ。片方の面だけでしか生きていないのだ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;これでは、鷲の様に飛ぶのは、絶対に無理なのだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;      &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　何故、のど元で止まるのかと言うと、エナジーは、丁度，首の辺りで，左右の位置を交代させるようになっているジャンクションがある。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;それ故，そこで止まってしまう事も、よくあるのだ。&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;その状況、仕組みを現しているのが，シヴァ神の持つ，トリシュール（三叉の矛）なのだ。身体の右半身は左脳に、左半身は右脳に、反転する。ここの所がミソだね。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://4.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/SuaYgRPyStI/AAAAAAAAA1M/7UY0vndRi5M/s1600-h/RIMG0044_4.jpg"&gt;&lt;img style="margin: 0pt 0pt 10px 10px; float: right; cursor: pointer; width: 320px; height: 187px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/SuaYgRPyStI/AAAAAAAAA1M/7UY0vndRi5M/s320/RIMG0044_4.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5397168883602967250" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　春が来れば、草が自然に生えて来る様に、空性の理解から、自ずと”信頼”が起こって来る。無為の内に、世界が、一新した様に感じられる。信頼とは，信用、&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:Helvetica;"&gt;trust,&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;ではない，信仰、&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:Helvetica;"&gt;faith,&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;でもない。信念でもない。信じ込みでも、信じる事でもない。靴が足にフィットすれば，足の事は忘れるだろう？　それが信頼だ。仏教徒が、神に付いて語らないのは，その為だ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　無形への信頼が起こると、やがて、成長し、充実して来る。理性というものは、状況次第で、非常に役に立つし、なくては無いらないが、一方では馬鹿なもので、何故、如何に、と尋ねる。理性とは、疑いだ。決して、信頼しない。そう言う特徴がある。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　一方、信頼とは、疑いが無い、という状態だ。それは、無条件に、未知へと飛び込む事だ。理性的な人にとっては、難しい。だが、本当は、ここに本来の生がある。”問い”と言うものが、無いこと、それと疑念とでは、全く次元が違う。人は、その相反する矛盾を抱えて，生きている。だが、疑いが消えれば、理論も、論議も、頭もヘチマも、何も、必要無くなってしまう。簡単だ。本物の答え、というものは，問いがない時にやってくるものだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  　信頼は、理知的（あたま）の働きとは違って、直感的洞察、感覚的（ハート、フィーリング）だが、信を知れば、力は発揮される。自信が付いて来るのだ。スポーツマンや、気合いや、心で生きてる人なら、判るかも知れない。隠さず、飾らず、素直に、無心で、ただ、自分が自分であれば良い。その在り方が、力を生む。自分の短所、弱さも認める事で、逆作用的に、長所も、力も現れてくる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　在る瞑想家の言葉が有る。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div style="text-align: center;"&gt;&lt;span style="font-weight: bold;font-family:HiraKakuPro-W3;"  lang="JA"&gt;「頭に、耳をかすでない」&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;と。頭は、必要な時に使えば良い。&lt;/div&gt;&lt;div style="font-weight: bold;" class="readmore"&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://shambhalacafe.blogspot.com/2009/10/blog-post_27.html"&gt;続きはこちら!!&lt;/a&gt;&lt;/div&gt; &lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/18690307-1155558021179373543?l=shambhalacafe.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/1155558021179373543'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/18690307/posts/default/1155558021179373543'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://shambhalacafe.blogspot.com/2009/10/blog-post_27.html' title='知のオデッセイ Part3'/><author><name>fortunesawada</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05592192894946341165</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/SufBWV2rbTI/AAAAAAAAA2s/3F814l2fiuQ/s72-c/MyPicture_20.jpg' height='72' width='72'/></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-18690307.post-664475274452798622</id><published>2009-10-26T00:00:00.005+09:00</published><updated>2010-01-05T04:20:49.663+09:00</updated><title type='text'>知のオデッセイ Part2</title><content type='html'>&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://1.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/SuaKwaHjWYI/AAAAAAAAAzk/fP-vW1HQdas/s1600-h/RIMG0016_2_2_3.jpg"&gt;&lt;img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width: 320px; height: 308px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/SuaKwaHjWYI/AAAAAAAAAzk/fP-vW1HQdas/s320/RIMG0016_2_2_3.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5397153767699470722" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;　タオイズムに依ると、名前というものは、モノゴトが、「形」となって現れると、名前が生じて来るのだ、と言う。そして、心が心であるのも、モノ故にである。モノやカタチがあって、始めて、心にも、カタチが出来てくる。原初というものは、面白い。&lt;br /&gt;　タオという発想、そして、コンセプト、そのものが面白い。まず始めに，名前の無い領域があった。天地はそこから生まれたのだそうな。その天地から，数知れぬ名前が生まれた。だから、名前の無い領域、無の領域は、天地の産みの親、という事になる。&lt;br /&gt;　名前とは、物の上っ面にくっ付いている、只それだけの、服や飾り、自我や鎧の様なものなのだ。だが、名のあるものには，欲がくっ付く。欲とは、エナジーが何らかの対象に出会って物質化した、”モノ”なのだ。もとは無から生じたエナジーだ。欲がカタチを持つと、視界が閉ざされ、もの事の表面しか見えなくなってくる。善し悪しではなく、それが特徴なのだ。&lt;div class="fullpost"&gt;&lt;br /&gt;　欲と言うものは、無ければ、生きて行けないから、程よく、欲に同化しないで、上手く使うのがコツだ。永年、使って，心や魂に迄、張り付いてしまっているかも知れないが、脱ぎ捨てれば、身軽になって、自由になれる。そこで初めて，リアリティーが観えてくる。まずは、一度、自分自身から、自由になること。自由とは、まず、健康である事だ。自由だから、健康で居られるのかも知れない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この世には、名のある領域と、名の無い領域とが、同じ源から出て、共存していると言う。そして、陽と陰、明と暗とが入り混ざって、混沌として、無限に広がっている。名の無い世界、無の世界は源であって、しかも広大なのだ。須く、創造と言うものは、混沌から生まれる。揺らぎ、カタヨリも重要だ。新たな自分が創造されるのは、自分の全てが混沌となって、始めて可能となる。”無”と言ったって、”何も無い”、という意味ではない。モノはいくらでもあるだろう。石器時代なら兎も角、この世はモノで一杯だ。まさに、ものものしい。寧ろ、”モノでないこと”，「思いの外」、と考えると、判りやすいかも知れない。&lt;br /&gt;　現代人や、欧米人には，”無”と言う概念は判りにくいようだ。無と言う”モノ”にしかねない。だが、無はモノではない。無は、自己と宇宙との橋渡しをする技法、方便と捉えてもいいが、私には、”無”程、現実的なモノはない。　思考が無い時、意識が純粋になる。感性、知覚が冴えてくる。シャンブー！　思考や想いをいくら探っても、堂々巡り。じつに詰まらない。哲学とはそう言うモノだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　思考や想い、信念、欲望に、自我に、縋って生きてる人にとっては、難題だ。何か観念的なものに支配されてる人、錯乱している人は其れ以上に大変だ。だが、”無心”、に気づけば、それだけで、用意が整って来る。&lt;br /&gt;　最初の内は、壁を越えるのは、大変だ。習慣は中々落ちるものではない。だが、何年も体験を繰り返しているうちに、たまたま、思いの外で、そこに居たりする。人は、思いに囚われて生きている習慣からか、思いの外には、以外と気が廻らない。無心とは、思いの外、思いが何も無い事だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「心は，無心から生ず」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　柳生宗矩の言葉だそうだ。その扉は、何時も直ぐ側にある。気づけば、簡単な事だ。用意の出来てる人には，何時も開いている。思考に囚われていた時には、見えなかったものが、観えてくる。曾ての自分は消え、新たな、大きなスペースとなっている自分が見つかる筈だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://lh6.ggpht.com/_I4Qpj95g5qM/SuaLYXuOJhI/AAAAAAAAAzs/tpCO8_WzzVA/s512/RIMG0372_4.jpg"&gt;&lt;img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: right; cursor: pointer; width: 250px; height: 256px;" src="http://lh6.ggpht.com/_I4Qpj95g5qM/SuaLYXuOJhI/AAAAAAAAAzs/tpCO8_WzzVA/s512/RIMG0372_4.jpg" alt="" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;　自分の思い、思考、それが起こったら、それを止めたり、押さえつけたり、変えようとするのではなく、又、判断もせず、その思考をそのまま働かせ、そして、只、眺めて見る。眺めて、しかも、その思考、思いの対象に、同化しなければ、眺めている当事者は、無心になっている筈だ。無心にならなければ、自分の思考の様子を観る事、”観照”というが、そんな事はできないからだ。自分の思考を、ただ、無心に眺められるだけでよい。&lt;br /&gt;　だが、一旦、名前の無い領域、無の領域に入った時、気づけば、人は始めて、本物の生命力に繋がる事が、無為のうちに出来るようになる。最初のうちは、どぎまぎするかも知れないが、毎日、少しずつ試す様にすれば、やがて自在になれる。このコツを知っておくと、実に有効だ。エナジーの無駄使いが少なくなるし、イライラする事も少なくなる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　面倒な事には、無理なく無関心でいられるし、それに、明晰になれるし、力もついてくる。しっかりと、そのエナジーが身に付くと、本来、自然のエネルギーだから、そのパワー、生命力は、他人や社会に、引きずり回されなくなるのだ。混沌とした世の中に居ても、何ものにも囚われず、心は自由になれる。様々な、束縛から自由になれる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　禅では、”本来の面目”という。それは、生まれる前にもっていた、本来の顔、無垢と言う意味だ。それは、”未知の記憶”といってもいいかもしれない。マインドやエゴに、世間や欲望に乗っ取られる以前の自分、本当の自分の事だ。老子は、その力を『玄徳』と言ったそうだ。「人の奥に在る、”全てを見通せる、深い力が働く事」をいうのだそうだ。シヴァの第三の目のようだ。&lt;br /&gt;　この『玄』という言葉には、中国語では、”ゼン”と呼ぶらしいのだが、神秘も魅力も感じさせられる。瞑想すれば、そこまで、ひとっ飛びだが、言語で説明すると、本を三冊位書かなければならなくなる。&lt;br /&gt;　玄は、普通には、黒、闇、奥、深淵と言う意味だが、タオイストでもある中国人の友人に聞くと、”明らか”、“明るい”、”光明”、それに”賢い”という、リアルな意味もあるそうな。相反するものを統合しているような、宇宙的な文字だ。その姿を見ると、細い糸が，天を突き抜けている様に見える。何か、螺旋状に、上昇したり、下降する、自在なクンダリー二、そして生命の要、シルヴァーコードを思わせる。&lt;br /&gt;　ギリシャ神話のヘルメスが持っている、”カドケウス”と言う魔法の杖もその事を表している。それは、今では医療のシンボルにもなっている。&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;玄は、シンプルな言葉だが、深みと智慧、力を感じさせる。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　 名の在る領域、つまり世間全般の見方のことだが，様式や形式があり，その上、いいとか，悪いとか，奇麗とか，汚いとかと、人の勝手な解釈や，判断、哲学、 都合や、損得、そして欲がくっ付き、物事の表面しか見えなくなり、真の視力（理解力）も無くなり、暗中模索となって、ストレスも疲労もたまってしまう、と 言う特徴がある。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;いいも悪いも無い。それが、普段、我々が生きている領域だ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　真のリアリティーは、どうしても無視されてしまう。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;真実とは、&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:Helvetica;"&gt;”&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;ただ、在るに過ぎたい何か&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:Helvetica;"&gt;”&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;、遠い遥かの、&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:Helvetica;"&gt;”&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;モノ&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:Helvetica;"&gt;”&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;になってしまう。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;モノの世界に同化してしまう。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　真実とは，実に単純なものだ。寧ろ、普通といっていい。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;普通とは、普遍性に通づる、と言う意味だ。平均的という意味ではない。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;平均的なのは、むしろ普通じゃない。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;真実を、言葉にするのは難しい。だが、”不二”がわかれば、理解する事は出来る。&lt;/span&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://lh6.ggpht.com/_I4Qpj95g5qM/SuaHmfdOnlI/AAAAAAAAAzc/7WSdt4UCa7g/s512/RIMG0028_3.jpg"&gt;&lt;img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width: 355px; height: 512px;" src="http://lh6.ggpht.com/_I4Qpj95g5qM/SuaHmfdOnlI/AAAAAAAAAzc/7WSdt4UCa7g/s512/RIMG0028_3.jpg" alt="" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;何故なら、本来、私達の一部なんだから。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　丁寧に理解すれば、善は、悪があって、始めて、善と呼&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;ばれる。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;悪がなければ、善も成り立たない。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;この世から、悪を一掃しようとおもったら、善をなくせば良い、という理屈にもなる。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;光が在れば、闇も在る。どっちかだけでは成り立たない。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;ものが、在る、と言うのも、無い、という事が在るから，生じてくるのだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;片方だけでは成り立たない。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;科学とか学問とかは、ものを分類、分析して扱い、分類や区別だけが進んで、人やもの同士の、有機的な繋がりをも喪失しようとしていた。過去の人間の&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;j&lt;span lang="JA"&gt;歴史は、この事につきる。なにか強力なものが現れると、人々は、用意に同化してしまうのだ。&lt;/span&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;それぞれ、適材適所ならいいのだが、全てをごっちゃにしたがる横着者が多いのだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://lh3.ggpht.com/_I4Qpj95g5qM/SuaL-QpDJPI/AAAAAAAAAz0/lgIxk1rpSj8/s512/RIMG0211_2.jpg"&gt;&lt;img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: right; cursor: pointer; width: 324px; height: 256px;" src="http://lh3.ggpht.com/_I4Qpj95g5qM/SuaL-QpDJPI/AAAAAAAAAz0/lgIxk1rpSj8/s512/RIMG0211_2.jpg" alt="" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　今はアクエリアス、水瓶座の時代、シヴァ神の時代といわれている。波動、情報と人権の時代だ。少しずつ、自然に戻って行く事だろう。未だ始まったばかりだ。&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　物質があれば、当然、反物質も無い訳には行かないだろう。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;科学に依れば、物質とは、”密度”の事だそうだ。で、反物質とは、空間に置ける穴、の様なものだそうだ。未だ理論上の話だろうが、言わば、無の穴だ。形は無いんだろうね、当然。&lt;br /&gt;　科学、詰まり、物理学は，物質を探求すればする程、物質は消え、最終的には、エネルギーが残る事を発見した。それが、波動力学、そして量子力学だ。物質とは，現れに過ぎない，という結論を得た。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;科学は、論理と実験に支えられている。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;一方、インドの神秘家，瞑想家達、ウパニシャッドは、とうの昔に、エネルギーをより深く観照すれば、エネルギーは消え，意識だけが残る事を発見した。そして、それが最も深い核心だ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;宗教、芸術は、直感と洞察力を使い、そこをターゲットとしている。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;詰まり、この宇宙は、三つの層で出来ている。物質、エナジー、意識。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;人の体で言えば，まず，肉体、エナジー、そして意識。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;人は、昔から三位一体なのだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　話を戻そう。対極に位置する反対物は、敵と言う訳ではない。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;夜は、昼間の敵ではない。その逆も然り。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;汝の敵を愛せよ，と言うではないか。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;昼と夜、両者を包括すれば、一日になるだろう。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;分割したり、分析したりしない。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;区別があれば，天地は無限に離れて行く。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;商売とか、区役所とか、図書館とか、細かい事の整理は分類したり、整理したりでいいと思うよ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;只、何でもかんでもと言うのは不味いよね。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　自分という存在の中に、全てを包括する。私という旧感覚は消え，”在る”と言う事だけが残る。それから全てを包括する。意識とは，丁度，鏡の様なものだ。鏡は，善し悪し、美醜を問わず，前にあるものを映し出す。太陽でも、月でも、ヒマラヤの満天の星でも・・・・・、見事な蓮の花も，牛の糞も，何の差別もない。鏡は文句を言わない。判断しない。裁判官ではない。あるがまま、そのままを映し出す。ヴィジョンのハイファイだ。相反する，或は、矛盾する立場同士が、一つになる。生という川は、その反対物同士の両岸の間をながれて両岸を潤すのだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　　　　　”音が存在する。音が存在できるのは、無音があるからなのだ。”&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　音楽には、必ず、無音の部分、間合い、休息の部分が在るだろう。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;無音無くして、音楽は成り立たない。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;そこからリズムも、メロディーも、ハーモニーも生まれ、生き生きとして来る。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;無音が無かったら、音楽は成り立たない。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;無音の部分が、音を生かしているのだ。音と無音とは，相互依存している。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;華やかで騒々しい商店街も、深夜には、静かになる。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;とっかかりは，滝の音なんかもいいし、波の音、鐘の音、ティベタンベル、弦楽器、シタール、タンブーラ、音叉・・・・・何でも良い。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　音とは、エナジーだ、波動だ。そして、音の余韻のあとに、無音の音（アナハッタ・ナーダ）が、聴こえるようになると、とても、気持ちが落ち着いてくる。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;音がムヲンを引き立てるからだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;アナハッタとは、”創られていない”、という意味だ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;詰まり、元々からあるという意味だ。それが、無音だ。それが宇宙の基盤なのだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;そして、無音の存在故に、音にも厚みや深み、生命力が出て来るのだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　芭蕉の句がある。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;“静けさや、岩にしみいる、蝉の声”&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　静けさと、蝉の鳴き声、無音と蝉の声と言う、相反する状況の調和から、宇宙の広がりが観えてくる。蝉の声と言う、音を意識する事で、同時に、静けさが、際立ってくるではないか？&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;無音を基盤に、様々な音が、重なりあっている、と考えると、より自然な感じがする。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;無音が基盤になると、街の騒音さえも、調和して来る様になってくる事すらある。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　疲労やストレスを感じたら，ここ、静けさに来ればいい。サイレンスには、底知れぬ力がある。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;そして，エナジーが生じ、力が戻って来たら、蘇れば良いのだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;興奮は、過ぎ去る欲望、ある種の緊張に名指しているが、命のエナジーは、永遠から湧きいずる泉のような性質がある。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;タイには、独特の、泉の様な姿を見せる噴水のキットがある。適当な大きさの水瓶にセットする。電源を繋げれば、さらさらと泉がわき出すのだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;何時かは欲しいなと思っていた。ベランダにでも置きたい。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　若い頃、バイクで海辺や、日本中の山の中の渓谷を、良く走り回った。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;気に入った所に来て、バイクを止めると、その新たな世界の出現&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;に、気がついた。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;そしてそこは、海辺であったり、渓谷であったりした。水辺が殆どだった。水辺が雨期だったのだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;自分の、サイレント・ジョイが見つかったのだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　今は、静かな時、オーディオから、静かに聴こえる、ジョン・マクラフリンのインド音楽、”シャクティー”、１２弦ギターが、インクレディブル！&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;曲は”ジョイ”、ザキール・フセインのタブラが躍動し、ラクシミ・ナラヤン・シャンカールのヴァイオリンが凄い。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;窓の外の庭からは、野鳥の声。日の光が緑に冴え渡り、マリーゴールド&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;(&lt;span lang="JA"&gt;金盞花）が笑っていて、木陰は静かに寛いでいる。&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;子猫のクック&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;(&lt;span lang="JA"&gt;空々）が、イスの上で眠っていて、屋根の上をリスがシャカシャカと、忙しく走り回っている。庭に居る、鶏やヤギの声、そしてそよ風が、部屋も身体も通り抜けて行く。&lt;/span&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;地元のおばちゃん達、おネーチャン達のお喋り。通りを走り去って行く、小型のバイク・・・、ポロポロポロポロ・・・・・。何事もない、たわいもない、普通の暮らし。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;ところが、全然退屈等しない。素晴らしい！&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;あらゆるものが、無音の静けさに重なって、共鳴し、共振し、調和して、ナイスン・イージーに世界が出来上がっている。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;最近、何とか、フィット出来る様になった様だ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://lh5.ggpht.com/_I4Qpj95g5qM/SuaMoKiahEI/AAAAAAAAAz8/SenkoQCzM6c/s512/DSC00433_4.jpg"&gt;&lt;img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width: 256px; height: 238px;" src="http://lh5.ggpht.com/_I4Qpj95g5qM/SuaMoKiahEI/AAAAAAAAAz8/SenkoQCzM6c/s512/DSC00433_4.jpg" alt="" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　光と闇は、決して闘わない。光と闇とは、外でも、内でも『相互依存』しているのだ。それが現実だ。例えば、デッサンする時、鉛筆で影をつける事、そして明暗のトーンを知覚する事、明度の多少で、光の部分が浮き上がってくる。カゲが光を浮き立たせている。ものが立体的、三次元の形であるのを知覚できる様になるのも、カゲの御蔭だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;御陰さまで、楽しませてもらってます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　明暗を通して、ものを解釈、認識する事は、素晴らしい。&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　カゲ（蔭）&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:Helvetica;"&gt;”&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;という日本の言葉には、光とカゲの&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;両方の意味がある、の&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;だと言う。真理を、一語で表す言葉になっている。長い、という事は、短い、と言う比較対象が在って、始めて、その価値観が意味をなす。一本の棒があって、この棒は、長いか、短いかと言っても、比&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;較対象が無ければ、答え様が無い、だろう？&lt;br /&gt;　前は、後ろ、が在って始めて成り立つ言葉。後ろの無い前、ってのは有り得ないだろう？　何れも、単独では成り立たないのだ。高い，低い、上、下、暑い，寒い、無論どちらがいいと言う事は無い。両方とも良い。或は、善くも悪くもない。優劣は無い。程度の問題、そして状況だけだ。存在の世界とは、そう言うモノだ。相互依存で成り立ってるのだ。だから、行き過ぎた行為は、反対の結果を生み出す事にもなる。世界はそれであたふたしているみたいだね。&lt;br /&gt;　この事を理解したら、生を受け入れたら、生の動きが、よく判る様になる。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;闇には闇の美しさがあり，昼には昼の美しさがある。そして常に入れ替わっている。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;もともと、比較のしようがない。両方あるんだから，両方とも楽しめば良い。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;コインの裏表の様に、両方で一つなんだから。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;そこで、『無選択の美』、と言うヴィジョンが観えてくる。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;世界が、再発見できる筈だ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://lh4.ggpht.com/_I4Qpj95g5qM/SuaNcBRRLrI/AAAAAAAAA0E/B-BkjpDFHj4/RIMG0040_2_2.jpg"&gt;&lt;img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: right; cursor: pointer; width: 320px; height: 190px;" src="http://lh4.ggpht.com/_I4Qpj95g5qM/SuaNcBRRLrI/AAAAAAAAA0E/B-BkjpDFHj4/RIMG0040_2_2.jpg" alt="" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　ニュートラルの無い、車やバイクは無いだろう？　人生にも，ニュートラルやオアシスは、生きる為には、必要なんだよ。さもないと続かない。身が持たない。人間は、生身で生きてるんだから、直ぐへたばってしまう。心で生きてるんだから。その為に、自然の中に、より深く入り込む事、それが私にとっての、自由になっている。時間の中にでも、休息やタイミングとして、空間にも，広がり、スペース、つまり、&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:Helvetica;"&gt;”&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;間&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:Helvetica;"&gt;”&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;と言う事なんだよ。形のあるものでも、形の無いものでも可能なんだ。&lt;br /&gt;　人のマインドというものは、言葉の集積だ。何をするにしろ，言葉、思考、思い込みがリードする。ところが、自己が存在するのは、実は言葉の向こう側なのだ。自己は、マインドや言葉の中にはいない。普通、人はマインドに焦点を合わせて、マインドと同化して、生きている。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;この”同化こそが、『苦』”なのだ、と言われている。シヴァや仏陀が、とうの昔に、発見した事だ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;で，苦を苦にしない様にするには，自己は、マインドや言葉を使うものであって、同化してしまわない事が大切なのだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;時折，マインドや言葉から、自己を分離するのがいい。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;マインドや頭を働かせても、それを眺めていられれば良い。自分のマインドの特徴を知る事が出来る。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;角が取れて、修正した方が良い所も観えてくるだろう？　それがウイットネスだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;自己は，マインドや言葉を、道具として使うものだが、自己が道具になってしまうのは問題だ。それでは、主客転倒だ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　その認識は，認識そのものが技法（タントラ）になってしまうが、結果的に、マインドを、よりクリアにする効果がある様だ。根本的な治療にもなるね。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;マインドは必要物だ、頭も知識も、生きる為には無くてはならない。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;生きる為の”道具”としてなら、これ以上のものは無い、と言う意味だ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;包丁だって、人を傷つける事も出来るし、美味しい料理を作る事も出来る。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;どう使うかは、使う人次第。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;評価は、包丁にではなく、包丁の背後に居るもの、詰まり、包丁を使うもの、に向けられる。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　横道に一寸それたが、瞑想とは、マインドでないモノ、間合いを、一瞥する為にあるコツだ。無心になる為の方便と言ってもいい。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;普段見えないモノを見る為の、技法（タントラ）、或は、無技法（禅）のことだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;尤も、無技法も技法の一つなんだけどね。両方使えばいい。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;様式や形式にこだわる必要は無いんだ。本来、個人的な、贅沢な、愉しみだからね。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;例え、一瞬でも体験すれば、人は生まれ変わる。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;意識は、無意識から目覚め、マインドは、よりクリアになる。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;結果的に，頭も整ってくる。身体にも、生気がみなぎってくる。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;ノー・ワリーズ！&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　右足を前にだして、次に左足を・・・・・と、考えて歩く人はいないだろうが、&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;歩くにしても、自転車でも、作業をしていても、間を意識すると、行動や生活にリズムが出来てくる。　&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;リズムが生じてくると、何かいい。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;楽しくなってくる。モノゴトが面白くなる。次元が、生き生きして来るだろう？　&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;思考が消えれば、世界は、もう変わっている筈だ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;愉しみとは、こんな具合に生まれてくるんだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;『間』と言う，”無為”の時空間が，モノゴトの動きや働きを制御してるんだから。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　三遊亭円生と言う噺家の話芸を、今でも良く&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;,i-pot&lt;span lang="JA"&gt;で聞くのだが、”絶妙な間合い”のセンスを、感じさせてくれる名人だ。&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;のり、調子、間合い、さげ、どれをとっても素晴らしい！&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　間と言う、様々なモノゴトに応用の効く、時空間の智慧、それは、タントラ、タオ、そして禅のエッセンスなんだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;文章にだって、段落、行間、間というものがある。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;時間と空間、面白いね。そこに生きてるんだし、自分の世界、環境の事をもっと知ってもいいと思うよ。時間にも、空間にも、間が共通してる。大脳の左半球は、時間的に分析スロのの対し、右半球は、空間的に統合する、と言う特徴がある。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　浄化、禊、なら，ヒマラヤやガンガーがいいだろうし、安直に、近くの神社でもいいかもしれない。でも、暮らすのなら、話は別だ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;私には、穏やかな、この島の波動が、普通っぽくて、”心地よい”。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;それは、心が地に着く事、アースする事なんだよ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;全てのモノ（物、霊）は、もとをたどれば、無から生じ、生まれて、変化しながら動いて、成長し&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;、やがて無に帰っていく。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　　　　　　　&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　　　　　　　　　　&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:Helvetica;"&gt;“&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;食って寝て、自由気ままに、日々好日&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:Helvetica;"&gt;”&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:Helvetica;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://lh4.ggpht.com/_I4Qpj95g5qM/SuaOQWjYQFI/AAAAAAAAA0M/21rp07JJGNc/s576/IMGP0739_2_2_2_2_3.jpg"&gt;&lt;img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width: 288px; height: 256px;" src="http://lh4.ggpht.com/_I4Qpj95g5qM/SuaOQWjYQFI/AAAAAAAAA0M/21rp07JJGNc/s576/IMGP0739_2_2_2_2_3.jpg" alt="" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　冬が無い所為か、南国故か、花は一年中，何かが咲いている。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;ここは、全ての色に溢れている。どの色がどうのこうのとは言えないし、えこひいきも意味が無い。どれが一番とは言えない。どれもが一番なのだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;だから、比較には意味が無い。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;とは言っても、やはり好みというものはあるもので、それはしようがない。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;それは頭の問題ではなく、心で感じるからだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;人には個性も、そして心があるからだ。犬や猫、ヤギやクジャクだって判るよ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　ここは、石にも花にも木にも、自然の鳥や爬虫類、白い瘤牛、犬や猫にも、一寸の虫にも、スピリットを認める所なのだ。その点に関しては、神道とヒンドウー教は、様式も異なり、地域が違い、温度差は多少あるものの、共通性があるね。共に自然崇拝の宗教であり、文化なのだ。南国だけに、虫達も元気がよい。ここには落葉樹も、針葉樹もない。枯れ葉を全く落とさないという事はないものの、ここの樹木は全て常緑樹なのだ。緑が島中を埋め尽くしている。島中がジャングルだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/SuaU-SEEOLI/AAAAAAAAA0s/NS_kTetg8AI/s1600-h/RIMG0117_2.jpg"&gt;&lt;img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: right; cursor: pointer; width: 231px; height: 320px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/SuaU-SEEOLI/AAAAAAAAA0s/NS_kTetg8AI/s320/RIMG0117_2.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5397165001171810482" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　インドネシアでの話だが、イスラム教のロンボク島と，直ぐ隣のヒンドウー教のバリ島との間には、宗教、すなわち、文化の違いとは別に、一見、眼には見えない、天然の境界線があるのをご存知だろうか？　それは植物の種類が違うのだ。土壌の質が違う。だから、丁寧に、調べて見れば、違いはあるのだそうだ。ロンボク島は、ボルネオ、ニューギニアやオーストラリアに似た植物体系であるのに反して，バリ島は，インドネシアの本島、ジャワ、スマトラ，そしてマレー半島、タイ、インドとも共通の植物分布がある。&lt;br /&gt;　丁度、糸魚川を境にして、東と西に分ける事になった、フォッサマグナの様でもある。尤も，ガジュマル（バンヤン、生命の樹、シヴァ神の聖樹）だけは、どちらの世界にも，股がって、繁っているのが不思議である。生命力、繁殖力が強いんだろうね。何処の国でも、聖樹となっている。行った事は無いが、日本でも、沖縄周辺の南の島には、ガジュマルが育っているそうだ。根に特徴の在る、生命力の強い、素晴らしい樹だ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style="font-weight: bold; text-align: center;"&gt;&lt;span style="font-family:Helvetica;"&gt;“&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;人生の　極意なるかも　常緑樹&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:Helvetica;"&gt;”&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style="font-weight: bold;"&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　家々の庭のマンゴー、パパイヤ、バナナ、ココナッツが実を付けている。南国ならではの、生命力に溢れた豊かな環境に囲まれている。花弁や葉に溜まった朝&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;露を、飲みにやって来る昆虫達。朝ともなると&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:Helvetica;"&gt;“&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;生&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:Helvetica;"&gt;”&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;は活気づく。様々な生を営む声が聞こえてくる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ワッタ・ビューティフル・デイ！　朝ならではの美しさがある。生命が輝いている。花も樹も笑っている。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://2.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/SuaWSzuS5cI/AAAAAAAAA00/pF2Azt88WBw/s1600-h/RIMG0167_2_2_2_2_4.jpg"&gt;&lt;img style="margin: 0pt 10px 10px 0pt; float: left; cursor: pointer; width: 320px; height: 173px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_I4Qpj95g5qM/SuaWSzuS5cI/AAAAAAAAA00/pF2Azt88WBw/s320/RIMG0167_2_2_2_2_4.jpg" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5397166453316314562" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　海は家からゆっくり歩いても１０分くらい。距離にして８００メートルくらいだ。島中が庭の様なものだが、人も動物も暮らす、自然の庭園だ。ここの波動にイン・チューンできれば、素晴らしい。数ヶ月もいれば、充分、フィットできる。特に用も無く、閑な時は、１０分で行ける所を、道端で手巻きのタバコをゆっくり巻いて一服したり、デーツ（ナツメヤシの実）を買ったり、カフェが開いてたら、モーニング・ティーを一杯。道草を食いながら、&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:Helvetica;"&gt;30&lt;/span&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;〜４０分、時間をかけて、ゆるりと楽しむ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　いつもと同じ道を歩いても，新鮮な気持ちで眺めれば、それは常に新しい道になる。その日が、新しい一日になる。クリエイティヴだろう？　新鮮な目である為には，ただ、意識が目覚めていれば良い。言葉の上では簡単だが，実際は簡単ではないかもしれない。良く知っているもの、当たり前のものが、新しい。まるで、幻でもあるかの様に、素晴らしく見える事がある。そんな時は、とても充実した時なのだ。&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt; &lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style=""&gt;&lt;span  lang="JA" style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;　実際，目覚めていれば、何一つ、生き生きとしていないものはない。空が蒼く晴渡っている時、空に見入っていると、音もさせずに、スーッと一羽の鷲が滑空して、青い視界に入って来る事が、何度かあった。それは素敵な歓びだ。思わず、我を忘れ、全てを忘れ、見とれてしまう。世界は，静けさと、蒼い空と，滑空する鷲だけになる。他には何もない。暑い日差しが，裸の腕や首筋に心地よい。凱風快晴、そのステージに、一羽の鷲が滑空する。只、それだけで、アメイジング！&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family:HiraKakuPro-W3;"&gt;&lt;o:p&gt;&lt;/o:p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;  &lt;p class="MsoNormal" style
